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夜明けのパスタ

 子どもの頃よりショートスリーパーだった。
とにかく横になれば30秒と記憶を保ったことはなく、深い眠りといい仲で少し前まで生きて来た。
 しかしながら、歳を重ねるとともに寝るための体力が落ちるのか、考えることが複雑になるのであろうか、夢の中でのまとまらぬ考え事に起こされてしまうことが時々ある。そんな時の眠りは浅く、頭の中が晴れぬまま深夜に起きだし、顔を洗い、白湯に口をつけながら考え事の続きをする。病身、要介護者だった両親が死に、障害を持った兄が先に逝ってしまい、考え事は無くなったはずなのに、考え事で目を覚ましてしまうのである。

 世の誰もが悪い人間や狡い人間を好きではなかろう。しかしながら、世に必ず一定数のこんな奴らがいる。
 表向きは、世の為人の為を終生脱げぬマントのように身に纏い、世界の不幸を一人で背負って立ったような顔で息をする、そんな輩を見たことがあるだろうか。
 歩いてきた世界がそうだったからか、私はそんな奴らをずいぶん見てきたような気がする。そしてずいぶん衝突をしてきたように思う。

 表の顔と裏の顔、作った顔と本当の顔、誰もが二つの顔を持つのであろうか。なかには都合の悪いことは端から無かったようにし、我(が)を貫き赤き林檎を白色だと誰にも言わせる特殊な能力を持った人間もいた。

 狡いヤツはまだ可愛らしいが、悪いヤツってのは強い癖(へき)を持っているんじゃないかと思う。悪いことを悪いとは思っていない、だから普通の顔をして生きていけるのである。癖(へき)と考えるならば血であり、本人に原因があるとは言えないのかも知れない。常識が違い、その違う常識で振舞うからどうにもならない。少なくない場合、こんな悪いヤツは中心で立ち回り、狡いヤツらがその周りでウロチョロするのである。
 そして、食い物にされるのは決まって弱い者なのである。

 こんな構図は世に少なくないと思う。それを見ておかしいと思う人間は少なくないと思う。でも誰しも自身が可愛い、余計な事に関わりたくない。だから見て見ぬ振りをし、忘れることだってできる。
 私はそれを咎めようとは思わない。そんなことはありだとも思う。でも私は黙って見過ごすことはできないのである。『義を見てせざるは勇無きなり』を家訓(いや、そんなのありません)とする宮島家で育てられた私には、そんな生き方が癖(へき)なんだろうと思う。後悔するのも嫌なのである。

 考えるうちに空は白みだし、寝るのは諦めキッチンに立つ。そんな時にパスタを茹でることが多い。気持ちだけ来週の健康診断に備えて冷蔵庫のトマトとアボカドを刻み投入する。そして、ひと時すべてを忘れオリーブオイルの絡むトマトとアボカドを口の中に放り込むのである。

 明け方のパスタは美味い。若い頃のように深刻に物事を考え込まないようになった。すべてはなるようになる。ただ、どこかで一手間加えなければならない。
それは美味いパスタを作るのと同じであろう。空しらむ明け方の時間というスパイスの他に、人の意志で加えるスパイスも必要なのである。

 美味いパスタは独りでに出来上がるものではないのである。




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