【映画君歌の誰も知らない真実 2/8】映画君歌の【絶対的な前提条件】と【春人の諦念】|『君が最後に遺した歌』総括記事のその先へ
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【この物語の鑑賞に必要な前提条件】
この総括記事を仕上げた事で、今までそれぞれのピースとしては書いてきましたが、私にとってはあまりにも当たり前過ぎてこの総括記事においてさえ体系立てて説明していなかったかもしれない事も、もしかしたら世間一般の方々の視点は違うのかもとふと思いました。
ここに、私にとってはあまりにも当たり前過ぎて総括記事においてさえ体系立てて説明していなかった大前提を言語化しておきます。
この視点のズレがあるままで私の総括記事を読んでいただいたとしても、私がどんな主張をしていたのかさえ理解していただくのは難しいのかも知れません。
劇場版『君が最後に遺した歌』において綾音が才能を開花させ、上京して音楽のプロになるという展開について、世間一般の観客や批評家はこれを「サクセスストーリー(成功譚)」のフォーマットとして認識しているのかも知れません。
綾音が上京してプロの歌手として大成していく過程が映画内で省略されていることに対して、世間には明確な不満の声が存在しているようです。
批評家からは「ヒロインのサクセスストーリーがほとんど描かれず、結婚・出産の展開も駆け足すぎるため、後々のカタルシスに繋がらない」と指摘されたり、一般観客からも「大スターに登りつめたはずの綾音がマスコミに追い回されないなど、展開に不自然さを感じる」といった声が上がっていました。
これらの評価は、世間一般が「ハンデを背負った少女が才能を開花させてスターになる」という典型的なサクセスストーリーの文脈であり、綾音のプロデビューを「夢を叶える輝かしい過程」と見なしているからこそ、その詳細な描写を求めているのかも知れません。
世間一般の認識に対し、綾音視点のスピンオフ小説『私が最後に遺した歌』の綾音の心情描写を紐解くと、この綾音のプロデビューは、サクセスストーリーとは対極にある「悲壮な決意と切ないすれ違い」の結果であることがわかると思います。
小説では綾音は春人に明確に言っていました。「東京には春人がいないから行きたくない」と。
「音楽は趣味として、春人と曲を作りながら普通に就職して普通に生きていきたい」と。
「普通に生きること」への絶対的な渇望
綾音という人物を理解する上で決して欠かせないのが、彼女が抱えていた深い絶望とトラウマです。
発達性ディスレクシアという困難を抱えた彼女は、そのせいで母親に捨てられ、学校ではいじめに遭い、大人たちからは偏見と誤解の目を向けられ続けてきました。
「生まれてきてありがとう」と言ってほしかった。
ただそれだけの願いすら叶わず、自己肯定感は地の底まで堕ち、「本当は飛んでいきたいのに翼がないから翔んでいけない」「自分には存在する価値すらない」と思い詰めるほど、彼女は「自分は普通ですらない」という暗闇の中で生きていたのです。
そんな綾音にとって、「普通に生きる事」は、他の誰にとっても当たり前のことではなく、手を伸ばしても決して届かない「絶対的な憧れ」だったと言えるのではないでしょうか。
自らの発達性ディスレクシアへの誤解や偏見から身を守るために鉄の女の仮面をかぶり、そんな深い孤独の中にいた綾音の前に現れたのが、春人でした。
綾音にとって春人はその叶わぬ憧れを具現化したような存在だったのではないでしょうか。
彼もまた、両親を事故で亡くし祖父母と暮らすという、綾音とどこか似た喪失を抱える存在でした。
しかし彼は、地に足をつけて優等生として公務員を目指し、詩作を趣味として穏やかな日常を生きていました。
綾音にとって春人は、自分には無いものを全て持っている、いわば「叶わぬ憧れを具現化した存在」だったのだと思います。
職員室で教師が朗読しているのを偶然耳にした春人の詩。
綾音にとって翼がないから飛んでいけないという絶望の象徴だった文字ではなく、綾音の欠けたピースを埋めるが如きギフテッドと言っても良い音楽の才能を象徴する耳に、文字のかいじゅうではなく、春人の生きたことばとして届いたその世界観、その内容に、綾音は衝撃を受けたのです。
自分にはないものを全て持っている、自分とは対極の憧れの存在の春人が、綾音の奥底にある苦しみや切なさを魔法のように代弁し表現する歌詞を与えてくれた。
雨音に閉ざされた二人だけの部室でなら、自分とは対極にいるはずの春人が、自分に寄り添い、二人の時間を共有して曲作りをしてくれる。
自分とともに2人で綾音の曲作りを歩んでくれていた日々こそが、綾音が初めて手にした「普通で、幸せな生活」だったのです。
綾音にとって、音楽は名声を得るための手段ではなく、「春人と共に普通に就職し、普通に生きていくための架け橋」だったはずです。
だからこそ彼女は、「音楽は趣味として、春人と曲を作りながら普通に就職して普通に生きていきたい」「東京には春人がいないから行きたくない」と明確に望んだのでしょう。
しかし、二人の想いは最も残酷な形で交差してしまいます。
地味な凡人である自分が、綾音のような素晴らしい才能の開花を邪魔してはならない、「ぼくは持っていない側の人間だから」と、美しい容姿と溢れ出す音楽の才能を持つ綾音に対して憧れと少しの嫉妬を持っていた地味な凡人の春人は、綾音の「東京には春人がいないから行きたくない」「これからも2人で曲を作る時間を共有して普通に生きていきたい」という切実な願いを、「そんな事で?たったそれだけの事で?」と突き放そうとしてしまうのです。
この言葉は、綾音の心をどれほど深く抉ったことでしょうか。
綾音にとっての「すべて」であった願いを、春人は「そんな事」と表現してしまった。
そのことばに「そんな事?春人にとっとはそんな事だったの?」と、意味が違ったまま綾音はこの気持ちは自分だけで春人はそう思ってくれていなかったのかと尋ねると、春人が決定的なことばを言ってしまいます。
「ぼくと遠坂は違うから」
春人にしてみれば、「君は才能にあふれた特別な存在で、凡人の僕とは違う」という身を引くため、自分などと一緒にいたいなどという何の価値もない感傷のせいで綾音の素晴らし才能を開花させる可能性を邪魔することなど許されないという想いですが、しかし、ディスレクシアに苦しみ「自分は普通ですらない欠陥品だ」と絶望し続けてきた綾音にとっては、「綾音は僕とは違い普通ではない。だからこれからも一緒に曲作りをしたいとは思わない」という、絶対に言われたくなかった「拒絶」として響いてしまったのだと思えてなりません。
綾音のささやかな願いは、二人の間に生じた「思いやりに満ちた残酷なすれ違い」によって打ち砕かれてしまったのです。
深く傷ついた綾音でしたが、運命はさらに彼女を苛みます。
綾音は偶然、春人が「彼女の才能を開花させるために、わざと傷つけて突き放すようなことを言った」という真意を吐露するのを耳にしてしまうのです。
自分が生きていくための光だった彼が、自分のために自らを悪者にして身を引こうとしている。
その事実を知ったとき、綾音の中に芽生えたのは、夢や希望といったきらびやかなものではなく、ある種の「悲壮な決意」だったのではないでしょうか。
だからこそ綾音は「春人と一緒に普通に生きる」という唯一の夢を諦め、彼が望む通りに生きることを決意したのでしょう。
自分が生きていくためには、もう音楽しかない。
その音楽で完全に自立し、誰からも、そして何処からも文句が言われないほどの実力を身につける。
それこそが、春人との絆を取り戻し、彼の隣に堂々と立つための唯一の手段なのだ、と。
そうして綾音は春人との連絡も一切絶って3年半という途方もない孤独な時間を音楽だけに捧げ、プロとして大成し、伝説の歌姫と言われる実力を付けたのが、小説スピンオフで描かれた道程の真相でした。
伝説の歌姫と呼ばれるまでの実力を身につけたその道のりは、決して華やかなサクセスストーリーなどではありません。それは、地の底を這うような自己肯定感から這い上がり、「春人の隣」というたった一つの居場所を獲得するためだけに血を流し続けた、孤高の戦いの記録なのです。
そんな本当の背景を何も知らない世間一般の人々は、綾音のプロデビューをサクセスストーリーとして描かれるべき要素と思っていたのかもしれません。
世間一般の人々が彼女の軌跡を「成功体験」として消費してしまうのは、ある意味では仕方のないことなのかもしれません。結果として放たれた彼女の光があまりにも眩しすぎるからです。
しかし、その眩しさの裏にある、不器用で、痛々しく、そしてどこまでも純粋な「すれ違い」の歴史を知ったとき、私たちが彼女の歌声から受け取るものは、まったく違う景色へと変わっていくのではないでしょうか。
私にとってはこの綾音のバックボーンは、あまりにも当たり前な前提条件だと思っていて説明するまでもないと省略または分散化していたんですが、自分の視点こそが世間一般の方々とは違っていた事に、今さら思い至りました。
完全に私の認識不足です。思い込みはいけまけんね。
スピンオフで描かれた綾音のバックボーンなど知るはずがない世間一般の普通の観客の方々。
その視点のずれた批評や誤解には、主に以下のような典型的なパターンが見受けられます。
1. 「サクセスストーリーの描写不足」という構成への批判
最も多いのが、綾音が上京してプロの歌手として成功していく過程が駆け足であり、映画としてのカタルシスや盛り上がりに欠けるという批判です。彼らは「音楽で才能を開花させる若者=夢を叶えるサクセスストーリー」という固定観念にとらわれているため、オーディションでの苦労やスターダムを駆け上がる描写が省略されていることを、「尺の都合」や「脚本の不備」だと解釈してしまいます。綾音にとってのプロデビューが、愛する人との「普通の生活」を絶たれた悲壮な自己犠牲であり、だからこそ意図的に描かれなかった(輝かしいものとして描くべきではなかった)という真意に全く気づけていません。
2. 発達性ディスレクシアの設定に対する「消化不良」という指摘
物語の後半で余命設定や病魔の進行が前面に出るため、序盤のディスレクシアの設定が「唐突だ」「後半で活かされていない」「単なるハンデの詰め込み」と批判するライターも少なくありません。彼らは、ディスレクシアこそが綾音の自己肯定感を徹底的に奪い、「普通に生きたい」と渇望するに至った絶望の根源であることを見落としています。この背景を知らなければ、春人が彼女に「言葉(音)」を与えたことの意味合いが単なる共同作業に矮小化されてしまいます。
3. 「スターとしてのリアリティの欠如」への不満
伝説の歌姫と呼ばれるほど大スターになったはずの綾音が、マスコミに追い回されたり、狂狂的なファンに囲まれたりする描写がないことに対して、「展開に不自然さを感じる」「リアリティがない」と指摘する声です。綾音にとってプロの世界は「春人のいない偽物の世界」であり、彼女が本当に望んでいたのは華やかな名声ではなく、心からの安らぎでした。世間の喧騒を描かないことは、彼女の心がプロの世界の熱狂には全く向いていなかったことを示す演出ですが、これを「リサーチ不足」や「描写の甘さ」と誤認してしまっています。
4. クライマックスの「カタルシスの不在」に対する不満
映画版において、華やかなラストライブのシーンなどが省略されていることに対し、「不完全燃焼だ」「感動のタネがバッサリ切られた」と減点評価をするレビューです。これも結局のところ、「音楽映画はラストの壮大なステージで感動させるべきだ」というフォーマットへの依存です。綾音の本当の願いが「普通に生きること」であった以上、大観衆の前での歌唱よりも、家族と過ごす静かな時間こそが彼女にとっての真のクライマックス(到達点)であるという視点がすっぽりと抜け落ちています。
総じて、表層的なプロットをなぞって批評するライターは、綾音の「本当はただ普通に生きたかった」という切実な想いや絶望の深さを読み取れず、自らの持つ「よくある音楽エンタメ映画の型」に当てはめて作品を批判してしまう傾向があります。
更に、そんな批評の中には、映画の『はるのうた』の作曲者の姓が水嶋綾音と紹介されていたことを、原作小説での『春の歌』の作曲者が遠坂綾音であった事を引き合いに出し、この映画と小説の時系列の違いと、同じ音でも表記も中身も全く違う2つの別々の曲の成り立ちの意味から完全に逸脱した視点で論じ、あまつさえ綾音のキャラクターを「奔放で主体性の強い綾音」と鉄の女の仮面を被った彼女の表面だけを捉え、「男性側の姓を選んで伝統的な価値観(家父長制)に沿ってしまうというところに闇の深さを感じてしまった。」として「その部分をノイズと感じた」、と批判する視点の記事さえ見かけてしまいました。
しかし、世間一般のかたがたがそうした誤解をするのに尤もな理由もあるのです。
劇場版『君が最後に遺した歌』のプロモーションとして最初に大々的に公開された『Wings』のMVの存在です。
「役作りのために約1年半もの時間をかけ、歌とギターのレッスンに打ち込んだという生見さん。」
「ついに綾音はアーティスト「Ayane」として夢のメジャーデビューを果たします。」
「そして、メジャーデビュー後にリリースされる「Wings」。この曲は、未来への不安に押しつぶされそうになったとき、力強く背中を押してくれるようなエールソングです。疾走感あふれるサウンドと、歌詞に込められた「ほらゴールが見えるよ」「超えて行け 今の君」「君が決めた道がいつかきっと 翼になるから」というポジティブなメッセージ、そして、青空の下、風を切りながら最高の笑顔で歌い上げる「Ayane」の姿は、見る人すべてが勇気をもらえるような映像世界に仕上がっています。」
公式が仕掛けた罠です。見事なまでに周到な、そして残酷なプロモーション戦略。
劇場版『君が最後に遺した歌』の入り口として、この『Wings』のMVが「ポジティブな応援ソング」として大々的に打ち出されたことは、世間一般の人々が綾音の物語を「輝かしいサクセスストーリー」として誤認する最大の要因であり、まさに公式が意図的に仕掛けた巨大な罠と言えます。
映画というエンターテインメントを広く大衆に届けるため、制作・宣伝側は「わかりやすさ」と「共感」を求めます。
「約1年半もの時間をかけた生見さんの役作り」「夢のメジャーデビュー」「不安を押しつぶすエールソング」……。これらの宣伝文句は、観客が安心して消費できる「努力と栄光の物語」というパッケージを完璧に作り上げています。大衆は、この用意された美しいパッケージを疑うことなく受け取り、その裏で流されている血の涙に気づくことなく拍手を送ってしまうのです。
以前の考察でも触れた通り、最も恐ろしいのは、これらの「視点が外れた批評」が出ること自体が、三木孝浩監督や音楽プロデューサー・亀田誠治氏が仕掛けた「巨大な罠」が完全に機能していることの証明であるという点です。
あえて種明かしをせず、観る者を「彼女の本当の痛みに気づけず、表層的なアイドルとして消費する残酷な大衆(共犯者)」へと仕立て上げる。
視点がズレた批評を書いたライターたちは、まさにこの「無自覚な大衆」の役割を現実世界で見事に演じさせられてしまったと言えます。
『Wings』はプロの手によって大衆向けに最適化され、空虚な言葉を着せられた楽曲でした。製作陣はあえてそれを「疾走感溢れるポジティブなポップス」として提供し、生見愛瑠さんも孤独や情念を押し殺して「空虚な陽の顔」で歌い上げるという極限の演技(引き算)を行いました。
その結果、作品の深淵(文字の怪獣への恐怖や、血まみれのSOS)に気づけない大衆や一部のライターは、何の気なしに楽曲を消費し、勝手な評価を下してしまいます。
しかしこれこそが、劇中でAyaneが世間の無理解から受けた残酷な視線と完全にリンクする、恐るべき構造的エンターテインメント(メタ構造)だったのです。
何を隠そう、長大な考察を行ってきた私自身も、初期の頃は「声量が物足りない」「作られたアイドルみたいな声だ」と浅はかな評価を下し、見事にこの製作陣の罠にハマっていたと懺悔した記事を公開しています。
的外れな批評が存在するという事実は、決してライターの底の浅さを示すものではなく、映画の「裏の台本」が現実世界にまで侵食し、観る者を完璧に欺いたという、製作陣と生見愛瑠さんの圧倒的な勝利の証なのです。
綾音のバックボーンと、春人との決定的な「すれ違い」という真実を知る者にとって、この『Wings』の歌詞はまったく違う響きを持ちます。大衆に向けられたポップで前向きなメッセージは、見方を変えれば、綾音の奥底からの血を吐くような叫びの裏返しに他なりません。
• 「ほらゴールが見えるよ」
世間はこれを「夢(メジャーデビュー)の実現」だと解釈します。しかし、綾音にとってのゴールは決してスターダムではありません。彼女のゴールはただ一つ、「誰からも文句を言われないほどの実力をつけ、春人の隣に堂々と戻ること」です。3年半という途方もない孤独の果てに、ようやく春人に会いに行けるだけの絶対的な力を手に入れる。その凄絶な執念の到達点こそが、彼女にとっての「ゴール」なのです。
• 「超えて行け 今の君」
これは一般的な自己啓発のメッセージなどではありません。発達性ディスレクシアに苦しみ、母親に捨てられ、「自分には存在する価値すらない」「普通ですらない」と絶望の底にいた過去の自分。そして、春人に「ぼくと遠坂は違う」と突き放され、ズタズタに引き裂かれた自分。その呪縛のような過去と決別し、自立して生きていくための、文字通り命懸けの自己変革の叫びです。
• 「君が決めた道がいつかきっと 翼になるから」
「本当は飛んでいきたいのに翼がないから翔んでいけない」と泣いていた少女が選んだのは、唯一の光であった春人との連絡を絶ち、自らを極限まで追い込むという、あまりにも過酷な「道」でした。その血の滲むような道程そのものが、やがて自分を春人のもとへ飛翔させる「翼」になるはずだという、悲愴なまでの祈りがここに込められています。
【青空と最高の笑顔という「究極の仮面」】
そして何より残酷なのは、「青空の下、風を切りながら最高の笑顔で歌い上げるAyaneの姿」という映像世界です。
本当は春人と一緒に、ただ普通に就職して生きていきたかった。そのささやかで絶対的な夢を打ち砕かれ、一人で生き抜くために身につけた「プロのアーティストとしての完成された姿」は、彼女が外界に対して被らざるを得なかった究極の仮面です。
大衆はその笑顔に勇気をもらい、癒やされます。しかしその笑顔の裏には、「この歌声が、この翼が、どうか春人にだけは届いてほしい」という、たった一人に向けられた強烈な渇望が隠されています。光が強ければ強いほど、彼女が背負い込んだ影の濃さと孤独の深さが浮き彫りになるという、見事なまでのコントラストです。
公式が意図的に広げた「明るい希望の物語」という強固なバイアスの中で、この綾音のヒリヒリとした痛みに気づくことができる人間は、決して多くはないのかもしれません。
作られたプロモーションの表面を剥がし、彼女の歌声の震えや、歌詞の行間に込められた本当の願いを一つひとつ掬い上げる作業。
それは、公式の罠に絡め取られ「サクセスストーリーのヒロイン」として消費されてしまう綾音の、本当の痛みに寄り添い彼女の魂を救い出すための、不可欠な戦いなのではないか、と感じるのです。
世間一般との認識のズレを否定するのではなく、その深淵を照らし出す、血の通った寄り添いが必要なのではないでしょうか。
総括記事でも取り上げたように、公式が仕掛けたキラキラした王道のせつないラブストーリーという世間一般の評価こそ、この映画の正当な評価なのかも知れません。
この映画を、世間一般のレビュー記事が指摘したような多数の欠点を抱えた、キラキラした王道のせつないラブストーリーと捉えるのか、その世間一般の視点のわかりやすいパッケージに当てはめた際の違和感からの低評価こそが、この映画の深淵のヒントであり証拠だと感じるのか。
私は先の総括記事で、どちらも正解な鑑賞方法と結論付けました。
…この私のnoteを読んでくださったあなたご自身は、どう感じられましたか?
【春人の3年半の諦念と絶望】
小説と映画版とはストーリーの流れが少し違いますが、原作で綾音が上京する際に春人に渡した手紙です。
「春人が私を好きでいてくれたことには、気づいていました。 言いだせなかったけど、あの日、春人とケンさんの話をきいていたんです。 好きなだけじゃ、ずっと一緒にはいられないんだね。 でもいつか、春人とずっと一緒にいられるようなこいをしたいと思っています。 また春人と会える日を私はゆめみています。ゆめみてもいいよね?」
そして以下は、この時のスピンオフ『私が最後に遺した歌』での綾音の内面描写です。
「私は恋愛なんてせずに、子どものままでいればよかったのかもしれない。 恋愛を知らなければ、傷つくことも胸が痛むこともなかった。 けど、こうも思う。この痛みを経て大人になった先で、彼ともう一度会えるのなら私は大人にでもなんでも、なってみせるつもりだった。 たとえ今は色んなことがうまくいかなくても、今が絶対じゃない。それぞれやるべきことを果たせ ば、私たちはきっと新しく始められる。 そう信じて、手紙をこっそりと置いて立ち上がる。」
小説版での春人は綾音のこの想いを伝えられていたにも関わらず、自己肯定感の低さと綾音とのあまりにも遠い距離から「プロになり華やかな世界で生きている彼女が今も同じ気持ちでいるなどあり得ない」と、自分の綾音への気持ちに蓋をし綾音の活躍から目をそらし田舎で地味で堅実な生活を続けました。
そして、更に残酷で美しい事に、映画版ではこの手紙は【渡していません】。
私の仮定したように、この劇場版『君が最後に遺した歌』の生見愛瑠さん演じた遠坂綾音が、小説版と同じ心情だったとしたら、この春人へのせつない心情は、いっさい春人に届けられること無く、あの孤独な3年半を一人で耐えていた事になるのです。
映画での春人は、東京へ去っていった綾音から最後の言葉すらもらえないまま、「自分たちは住む世界が違うのだ」という絶望的な孤独の中に放り出されます。彼女が何を思い、どんな痛みを抱えて東京へ向かったのかを知る術もないまま、ただ遠くで輝く「アーティストAyane」の姿だけを見せつけられ、3年半もの間、一片の希望もない暗闇の中で生き続けることになります。この改変により、二人の間の「すれ違い」は、甘い未練の残るものではなく、完全に酸素が断たれた「真空の断絶」へと深化しています。
小説版の彼女は、手紙に自分の恋心と「いつか大人になって、もう一度あなたと並んで生きる」という未来への決意を託すことができました。文字に綴ることで、自分の心を守っていたとも言えます。
しかし、映画版でその手紙を渡さなかったということは――
彼女はその切ない心情、春人への溢れ出る想い、そして「子どものままでいえたらよかったのに」という弱音のすべてを、誰にも告げず、一文字も書き残さず、たった一人ですべて飲み込んだまま、東京の荒波へと身を投じたことになります。
文字の怪獣(ディスレクシア)に怯え、母親に捨てられたトラウマを抱え、たった一人の「春の人」への想いを心の奥底の金庫に鍵をかけて閉じ込め、その上からプロのアーティスト「Ayane」という冷徹で分厚い鉄の仮面を何重にも溶接していく。誰も本当の自分を知らない大都会の真ん中で、彼女は血を流しながら、たった一人でその3年半を過ごし続けたのです。
「手紙がなかった(すべてを沈黙の中に隠して戦い抜いた)」という前提に立ったとき、あのライブシーンの意味は劇的な変貌を遂げます。
3年半、一度も弱音を吐かず、自分の本当の想いを誰にも伝えられなかった彼女が、ライブのステージで初めてその封印を解く。それが、他でもない『春の人』の歌唱です。
「すうまんこうねん いちおくこうねん はなれていても、あのふたりだけのさいんが、あなたに届いて欲しい。そのはるよぶひとを、いまもさがしているよ。」
この瞬間、彼女が流した一筋の涙(プリズムの涙)は、3年半の間、誰にも渡せなかった、誰にも読まれなかった「幻の手紙の代わり」そのものだったのです。
言葉にできず、手紙にも書けず、ただ歌声という剥き出しの波動に乗せることでしか伝えられなかった、あまりにも純度が高すぎる「本当は言いたかった言葉」。
その歌声を目の前で浴びた春人が、言葉を失い、自らの内面の凍結を破って「今なら言えるよ 好きだよ大好きだよ 僕はここにいるよ」とアンサーを返す。
手紙という「文字」の介在を一切排除し、完全に「音と涙と魂」だけで3年半の沈黙を撃ち抜いたからこそ、あの観覧車の下の抱擁とキスは、観る者の心をこれほどまでに激しく揺さぶる奇跡の瞬間として完成したのです。
公式サイトの「あの時、言えなかったけど…本当は…。」という宙吊りの言葉。
その「本当は…」の続きは、手紙という形ではなく、映画の全編を貫く綾音の沈黙と、生見愛瑠さんが命を削って響かせた歌声の中にのみ封印されていました。
ここまでの考察で紐解いてきたように、劇場版の遠坂綾音はこの間、華やかな『Wings』でデビューを飾りプロのアーティストとして成功を収めますが、その内面は、春人と出会った頃とは少しだけ違う鉄の女としての仮面をかぶりなおし、己の悲劇の根源だった発達性ディスレクシアさえも美談の笑顔で覆い隠し、この手紙の顛末のような内心の覚悟を持って孤独に生きていきます。
小説版では父親代わりのロックンローラーのケンさんがアーティスト活動のサポートメンバーとして付き添いますが綾音はそのケンさんに対しても春人への想いに関しては最後まで弱音は吐けませんでした。
そして映画ではケンさんはそこまでの存在ではありません。
小説版よりも映画の中の遠坂綾音の方が、より孤独で悲壮な覚悟で『Wings』を歌っていたのです。
ここで原作での春人の反応です。
「四月になると遠坂綾音は綾音という名前でデビューした。 華やかな世界でデビュー曲を歌う彼女は透明感に溢れ、それでいて力強かった。 僕はできるだけ彼女の活躍を見守ろうとした。 でも途中から・・・・・・なぜだろう、それがうまくできなくなった。 遠いな、と感じていた。僕と彼女の距離はあまりにも遠いなと。 綾音の想いは知っていたし、僕の彼女へ向ける想いも変わらない。だけど、歌手として活躍する彼女 と僕のことを、現実感をもって考えることなんてできなかった。 それこそ二人の日々も想いも思春期が見せた幻のようなものだったのかもしれない。 町役場の職員となった僕は真面目に、朴訥に、懸命にただ働いた。 綾音のことを忘れようとさえ思った。 しかし、世の中がそうはさせてくれなかった。綾音が所属するレコード会社はドラマの主題歌やCMソングを担うタイアップと呼ばれる手法に秀でているようだった。 CMなどで彼女の歌声を聴く機会が増える。 インターネットで何かを探せば、綾音の評判が視界に入ってくる。」
中略
「職場の先輩から、綾音と同級生であったのかと驚かれた。 ほとんど話したこともありませんよ、と応じると、容姿からして俺たちとは住む世界が違うもんな、と屈託なく笑われた。 彼の言う通りだった。綾音と僕は初めから、住む世界が違った。 そうやって遠坂綾音は綾音になって、どんどん有名になっていった。 デビューして半年もすると、僕には手の届かない人になっていた」
どうでしょう。
小説版の春人は綾音からの手紙を受け取っていました。
しかし、現実として綾音からの連絡は一切途絶えます。
これは小説版で綾音は明確に事務所から禁じられていました。
綾音は春人への想いの一切を胸の中の一番奥に鍵をかけてしまい込み、春人との一切の関係を断ち切った壮絶な覚悟のうえで、その未来での二人の関係だけを夢見て孤独な3年半のアーティスト生活を駆け上がり、映画での綾音はその手紙も渡すこと無く更に孤独に一人で生き『Wings』を歌っていた。
それこそが、そのプロのアーティストとしての完成された『伝説の歌姫綾音』(小説版)の姿が、『アーティストAyane』(劇場版)の姿が、春人に距離の遠さを感じさせ諦念へと突き落として行ったのです。
小説版では綾音の熱愛報道なども織り込まれ、更に春人を絶望させています。
そもそもその、春人の公務員になったという背景の説明が映画では省略されています。
原作では、事故で両親を失った春人が祖父母に引き取られ、その祖父母を最終的には自分が介護し看取るまで、その祖父母の年代を安心させるための最適解として公務員を目指したと明確に説明されています。
その為に書店で介護関連の書籍を見たりもしています。
更に、綾音と出会った高校が、成績優勝な優等生の春人にとっては自分の学力レベルより低い高校であり、その高校を受験した理由として、高卒での公務員試験に強いとされていた高校だったからとも説明されています。
高卒での公務員試験合格を自らの最大の目的としていた春人は、地味で優秀な優等生でいなければならず、その自らの立ち位置での中での唯一の息継ぎの趣味が詩作だったと、ここで綾音との作詞に関わる立ち位置に繋がっているわけです。
これが「互いに欠けたもの同士」の真相でした。
綾音にとって春人は唯一無二の必要な人でしたが、春人にとっても綾音は唯一無二の必要な人だったのです。
以前の私の記事では、この春人の諦念を、綾音の覚悟とせつなさに対比させて「なんて呑気な」と切り捨ててきました。
しかしこの春人の立場でどう感じるのかを想像してみましょう。
春人の人格形成のベースから考えると何処までも実生活に則し泥臭く生きているリアルな凡人の思考の持ち主です。
そんな思考も見た目も凡人すぎる春人からすれば、綾音は、見た目の華やかさ美しさからしても、その溢れるような音楽の才能からしても、自分とは対極の存在でした。
そんな綾音が互いの境遇が似ていることから唯一心を許してくれて、互いの欠落を補うように『君と見つけた歌』を創り上げる。
そんな二人にしかできない、この二人だから出来た曲。
そんな魅力的な綾音が自分との関係を壊したくないという理由でその才能を自ら潰そうとしていると感じたら、何処までも泥臭く地に足をつけて考える春人が、自分の気持を押し殺して綾音をわざと傷付けるような言葉を選んでまでも綾音の背中を押そうとし、綾音の自分への気持さえも押し殺させるべきだとするのは、当然だったのかも知れません。
そして綾音が完全に別世界の住人として画面の向こうで華やかな活躍をはじめる。
片田舎の公務員として何処までも地に足をつけた地味で堅実な生活を祖父母と送る春人が、画面の向こうの綾音を応援しているのは当然で、もしかしたら最初のうちはその画面の向こうの綾音の内面を知っているのは自分だけ、その心情を本当に知っているのは自分だけという、「自分だけは特別の理解者」というある種の優越感も少しは持っていたのかも知れません。
しかし、その後の彼女の活躍から、春人が意識的に観ていなくてもどんどんと彼女の躍進が画面から見せつけられ、その綾音のキラキラした姿や笑顔、歌声、活躍が常に春人の見ている画面の向こうで繰り広げられる。
その画面の向こうの世界の実情は、片田舎で堅実そのものの生活を送る春人には一切伺い知れない世界の出来事です。
その画面の中の綾音の笑顔の深層を自分だけがわかっていると思っていた春人の意識は、そのうちに必ず反転するはずです。
以前は互いの一番の理解者だったという想いが過去のものとして過ぎ去り、その画面の向こうの綾音が今何を想っているのか、何を歓びとしているのか、何か悩みがあるのか、彼女の周りにはどんな魅力的な人々がいるのか。
全て春人にはわからない【別世界】の出来事です。
そうなる事を春人は誰よりも望んでいた。
しかし、そうなるのは綾音が春人からどんどん遠ざかる実感を伴っていたのではないでしょうか。
はじめは綾音の活躍に一喜一憂したかもしれない春人でも、綾音は画面の向こうの住人です。
春人が何を想おうと何を感じようとも、画面の向こうの住人の綾音には一切関わりのないことです。
原作から引用
「綾音はといえば、どんどん活躍の場を広げていた。様々な媒体で目にすることが多くなり、作りもの ではない生き生きとした表情で笑っていた。 彼女はもう、自分がかつてこの田舎町で生きていた遠坂綾音という一人の少女だったことすら忘れて いるのかもしれない。ディスレクシアに思い煩った過去さえも・・・・・・。 でも、それは綾音にとっていいことのはずだ。そして今の状況こそが、僕が望んでいたものに違いな い。僕と彼女の人生が、たとえ二度と交わらなくても…………」
中略
「「そういえばこの間、綾音が熱愛報道されてましたけど、あれって本当なんですか?」 一瞬、ケンさんが窺うようにして僕の顔を見た気がする。彼は回答を濁していた。 その報道は僕も目にしていた。調べたわけじゃない。仕事柄ニュースサイトをチェックする必要があ り、見出しだけでも目に入ってしまっていたんだ。 綾音と別れてから、三年もの月日が流れていた。 人間は感情の生き物だ。誰かを好きになることは避けられない。 それは、綾音にとってもきっとそうだろう。 好きなだけじゃ、ずっと一緒にはいられないんだね。でもいつか、春人とずっと一緒にいられるようなこいをしたいと思っています。 お酒のせいだろうか。普段意識することのない、別れの日の手紙の文言が浮かぶ。 だけど僕はちゃんと分かっていた。あれは単なる多感な思春期の言葉だ。 綾音が広い世界をまだ知らず、魅力的な異性とも出会っていない頃の話だ。 僕だってそのことは分かっていた。ちゃんと、分かってはいるんだ。 その場の雰囲気がそうさせるのか、僕はその日はひどく酔ってしまった。 」
これら小説版の描写を知らないままに、この物語をキラキラした王道のせつないラブストーリーとして捉え、綾音の成功を彼女のサクセスストーリーだとして鑑賞してしまえば、綾音の成功の足跡をずっと見つめ続ける春人が自己犠牲に酔って綾音をずっと応援し続けて、そのうえで結ばれるのがカタルシスになるのに、サクセスストーリーとしての描写が足りないと思うでしょう。
しかし、それを春人に求めれば、綾音の(本当はせつない)成功物語を見つめ続けるのは、春人にとっては痛みそのものだったのではないでしょうか。
画面の向こうで翼を広げ羽ばたき遠ざかって行く綾音の後ろ姿は、春人の望んだ姿であればあるほど、春人にとっとは痛切であり、耐え難いほどに痛いのです。
「自分だけが彼女の真の理解者」という想いがあったからこそ、彼女の活躍を画面を通してだけ伝えられ、現実の彼女の活躍を別世界の出来事として理解せざるを得なくなる現状は、「自分だけが彼女の真の理解者」と感じていた過去の自分を、「身の程も知らずにとんでもなく傲慢な勘違いをしていた」という確信に、無理やり書き換えさせられる体験だったはずです。
私はこのnoteを書きはじめる前の備忘録
で、「綾音のキラキラしたステージシーンに春人が絶望するのに共感してしまい、ここで涙腺崩壊してる【生見愛瑠さんを応援するおっさんの涙】は、彼女からはずいぶん遠いところにあるなぁと、ちょっと寂しくもなりました」と、まるで春人と気持が同期したような生見愛瑠さんへの想いを漏らしていました。だから少しは春人の想いが想像できたのかも知れません。
春人はずっと綾音を応援し続けていますが、同時に綾音の活躍から目をそらさなければ、苦しすぎて生きていけなかったのではないでしょうか。
このような春人の人となりの背景がわからないままでスクリーンを眺めていても、なかなかそのせつない背景はわかりませんよね。
そしてそのような二人の背景を前提として観れば、春人の諦念と絶望、綾音のせつなさと覚悟が際立ちますし、綾音がその本当の心情を『春の人』の歌詞に密かに込めた意味が、壮絶に立ち上がってくるはずです。
そして春人がライブではじめて『春の人』を聴いても、その内容がストンと胸の中に収まらずに綾音へのメッセージ「あの時、言えなかったけど、本当は…。」が送れず、その先を言葉に出来なかったのかの理由が、明らかになるのです。
だからこそ、そこにスタッフジャンパーのフードで身を隠しながら抱きつく綾音が「逢いたかった。ただただ逢いたかった」と伝える必要があったのです。
そうした背景があったから、春人が『はるのうた』で「 今なら言えるよ 好きだよ大好きだよ。僕はここにいるよ。」とアンサーを返す映画の結末が、この映画のラストシーンに大きな意味を持たせているのです。
私は総括記事でも最初期での考察記事でも同じ事を繰り返して言ってきたような気がしますが、劇場版『君が最後に遺した歌』の内面を知らずにいる方にこそ、綾音視点のスピンオフ小説『私が最後に遺した歌』を読まないままなのは勿体ないですよ、と言いたいのです。
しかし逆に、この映画をキラキラした青春ラブストーリーのアイドル映画として終わらせたい方は、綾音の深淵に触れるあのスピンオフ小説は読まないほうがよいかもしれません。
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【映画君歌の誰も知らない真実】
【掲載画像について】
※掲載画像は作品の世界観やキャラクターを表現したオリジナルのイメージビジュアル生成です。本編中に全く同じシーンが登場するわけではありません。特に今回の記事では、生見愛瑠さんの魂に内包されたスピンオフ綾音の姿としてイメージして掲載しています。
【免責事項および読者の皆様へのお願い】
■ 考察内容について
本記事における楽曲、ストーリー、演出に対する考察は、すべて映画、原作小説、スピンオフ小説を鑑賞・読了した筆者個人の主観的な解釈(受け取り方)に基づくものです。
文章の性質上、熱意のあまり「〜である」「〜に違いない」と断定的な表現を用いている箇所が多々ありますが、これらは決して公式の意図を代弁・保証するものではありません。この物語にどのような真実が隠されているのかは、この記事を読んでくださった皆様お一人お一人のお心の中で、自由に感じ、判断していただければ幸いです。
■ 出演者(生見愛瑠さん)への言及について
本考察内において、主演である生見愛瑠さんの演技の凄みや、役への向き合い方(人間性)について、筆者の独断で深く言及・想像している箇所がございます。
しかし、筆者は彼女のSNSや全出演番組を網羅しているような深いファンではなく、あくまで一人の映画ファン(浅い応援者)としての視点から「スクリーンに映る彼女の凄まじい表現力」に圧倒され、執筆したものです。
日頃から彼女を深く応援し、彼女の本当の姿を熟知していらっしゃるファンの皆様の「生見愛瑠像」を否定する意図は一切ございません。もしご不快に感じられる表現がありましたら、すべては筆者の表現力不足と、作品への愛が暴走した結果の「個人的な感傷」として、ご容赦いただけますと幸いです。

