「でも事実じゃん」の哲学
MBTI界隈で、ときどきこんな話を見かける。
「FがTに思っていること。『でも事実じゃん』で全部許されると思ってない?」
それに対してT側は、だいたいこう返す。
「だって事実は事実じゃん。感情論はプライベートならともかく、仕事では要らない」
いかにもMBTIらしい。Fは感情、Tは事実。構図としてはとても分かりやすい。
だが、天邪鬼なENTPとしては、ここで少し意地悪なことを言いたくなる。たとえばファクトを観測する段階や、どのファクトを採用してどのファクトを採用しないか、そのファクトをどう解釈するかといったところまで考えたら、結局かなり感情や価値判断が介在しているのではないか。
たとえば、ある企業があったとしよう。その企業では売上は前年比10%減ったが、営業利益率は上昇した。また、顧客満足度および従業員満足度も改善したが、新規顧客獲得数は減ったとする。
これら1つ1つはすべて事実である。
では、このようなケースにおいて、この会社は「悪くなった」のだろうか?売上を重視すれば、悪化しているように見える。利益率を重視すれば、経営効率は改善しているように見える。顧客満足度を重視するなら、長期的にはむしろ良い兆候かもしれない。つまり、事実が存在することと、どの事実を重要とみなすかは別の問題である。
さらに、「売上が10%落ちた」という事実から、「これは悪い」という評価へ移る瞬間には、少なくとも何らかの価値判断が入っている。
ならば、ここで疑問が生じる。価値判断と感情論の境界線は、そんなに綺麗に引けるのかという問題である。
もちろん、哲学的には「価値判断」と「感情論」は同義ではない。だが、そこで話を終わらせるのも早い。価値判断は、本当に感情から独立しているのだろうか。
ある出来事を「悪い」と判断する前に、不快や恐怖、憤怒、悲しみなどの感情や感覚が発生していることは多い。
そこで私は、最初こんなイメージを考えた。
まず、身体が外部から刺激を受け取る。その刺激に対して、比較的即時的に感情や感覚が発生する
。
その少し後に、認識や理性が意味づけを行う。たとえば「これは危険である」や「これは自分に不利益である」や「これは社会的に許容されない」といった解釈である。
そして理性は、感情をそのまま外へ出すのではなく、社会的に実行可能な形式へ翻訳する。たとえば怒鳴りたいが、会議中なので、「この方針には懸念があります」と発話するといったように。責任から逃げたいが、仕事なので、「リスク低減策を検討しましょう」と表現するといったように。
この意味では、理性は感情の敵というより、変換器であり、制御器であり、ときにはブレーキでもある。
そして最後に、発話や行動として外へ出力される。他人はその出力を観測して、「この人はこういう価値観を持っている」と推測する。
最初は、これを三層か四層程度のピラミッドとして考えていた。だが、よく考えると、それでは足りない。なぜなら、行動の結果は次回の判断に戻ってくるからである。ここで突然、私の頭の中に動学マクロとサイバネティクスが入り込んできた。
人間を静学ではなく、状態遷移として見る
私はどうも、人間を静止画として考えるのが苦手らしい。「この人はこういう価値観を持つ」という静的な記述より、「この人の価値観は、何によって次の時点へ更新されるのか」と考えたくなる。つまり、
x_{t+1} = F(x_t,u_t)である。時点(t)における内部状態を(x_t)とする。そこには、信念、感情、価値観、記憶、習慣、解釈枠組み、過去の経験などが含まれている。
そこへ外部刺激 (u_t) が入る。その状態をもとに判断し、行動する。そして、その行動が結果を生む。その結果がまた入力され、次の状態を更新する。
より露骨に書けば、
x_{t+1} = F(x_t,stimulus_t,action_t,outcome_t)となる。つまり、
①入力
②内部状態による処理
③出力
④環境変化
⑤フィードバック
⑥状態更新
という閉じたループである。
ここで「入力」「出力」という語を使っているのは偶然ではない。私はかなりサイバネティクスを念頭に置いている。
身体は入力装置であり、出力装置でもある
人間は世界から刺激を受け取る。たとえば、光を見る。音を聞く。言葉を投げかけられる。痛みを感じる。他人の表情を見る。数字を見る。ニュースを見る。こうした刺激が身体を通じて系の内部に入ってくる。
だが身体は、単なる入力装置ではない。最終的には、声を出したり、表情を変えたり、殴ったり、抱きしめたり、投票したりといった形で出力もする。
つまり身体は、入力端子であると同時に出力端子でもある。
そして、その出力が外部環境を変える。自分が発言すれば、相手の状態が変わる。相手の状態が変われば、その反応がこちらへ返ってくる。つまり、
Environment_{t+1} = H(Environment_t,Action_t)であり、その変化した環境が
x_{t+1} = F(x_t,Environment_{t+1})として再び自分を変える。これはかなり露骨なフィードバック系である。
理性を「制御器」として考える
ここで、感情と理性の関係も少し違って見えてくる。
よく、「感情と理性は対立する」と言われる。しかし、本当にそうだろうか。むしろ、感情的反応を与件として、理性が出力を制御している場合も多い。
怒りが発生した。だが、社会的制約がある。目的もある。相手との関係もある。そこで、
Action_t = Controller(Emotion_t,Goal_t,Constraint_t)のように、理性が制御器として働く。重要なのは、この制御器も固定ではないということである。たとえば、過去に怒鳴って失敗した結果、次は少し抑えようと学習する場合がある。あるいは逆に、抑えすぎて損をしたなら、次はもっと強く言おうと更新する。つまり、
Controller_{t+1} = G(Controller_t,Outcome_t)となる。これは適応制御に近い。人間はただ制御されるのではなく、制御ルールそのものを経験によって更新する。
価値観も状態変数である
ここで最も重要なのは、価値観を固定パラメータとして置かないことである。たとえば価値観を V_t とすると、
V_{t+1} = G(V_t,E_t,B_t,R_t)と考える。但しここで E_t は感情、 B_t は信念、 R_t は行動結果である。
つまり、現在の価値観が現在の感情や信念や経験によって、次の価値観へ更新される。
価値観は固定物ではなく、ストックである。
昨日までの経験が、今日の価値判断に残っている。今日の判断と行動が、明日の価値判断を作る。単純化すれば
V_{t+1} = (1-δ)V_t + α Experience_tと書けるかもしれない。
この式は、過去の価値観の一部は残る一方で、新しい経験が少し加わったり忘却したりしていく中で、履歴依存的に人間の価値形成が行われることを表している。
ここでLearning-by-doingが出てくる。
行動し、結果を経験することで認識が変わる。すると価値判断の仕方が変わり、次の行動が変わる。そしてまた結果が返ってくる。
この循環そのものが、人間を形成しているのではないか。
「価値が変わる」だけではなく「価値の変わり方」も変わる
さらに面白いのは、遷移関数そのものも固定ではない可能性である。普通なら、
V_{t+1} = F(V_t,u_t)で終わる。しかし、人は経験によって、どのような経験から自分を変えるかという学習則そのものも変える。ならば、
F_{t+1} = G(F_t,V_t,u_t,y_t)と考えてもいい。つまり、価値が更新されるだけでなく、価値の更新方法も更新される。これは二階の適応系である。
たとえば、若い頃には一度の失敗で価値観が大きく変わっていた人が、経験を積むにつれて多少の失敗では動じなくなることがある。逆に、ある経験を境に、特定の刺激に対して極端に敏感になることもある。これらを踏まえると、価値関数だけでなく、更新係数そのものが履歴依存的なのである。
ここで群数列が出てくる
このモデルを考えているとき、時間については最初から離散時間を想定していた。その理由の一つが、かなり高校数学的である。私は定式化の際、数Bで扱う群数列のような構造を念頭に置いていた。
第 t=k 群に、
n = 4k-3, 4k-2, 4k-1, 4kの4項が含まれるイメージである。たとえば、
x_{4k-3} = 刺激・感覚
x_{4k-2} = 感情
x_{4k-1} = 認識・価値判断
x_{4k} = 発話・行動という具合である。つまり、一つの時点 t=k の中にも複数の処理段階があり、それらを一群としてまとめる。そして、第 k 群の出力や結果が、第 (k+1) 群の状態を変える。
{x_{4k-3},x_{4k-2},x_{4k-1},x_{4k}}から、
{x_{4k+1},x_{4k+2},x_{4k+3},x_{4k+4}}へ移る。
ちなみに、ベルクソン支持者から、「時間をそんな離散的な点列として扱うな」と怒られる可能性はある。その場合は脚注にこう書けばいい。
なお、ベルクソン支持者が時間の離散化それ自体を問題視するのであれば、連続時間モデルとして時間微分を用いても構わない。ただし、本稿で扱う議論の中心は状態変数間の依存関係とフィードバック構造にあり、離散時間か連続時間かという選択はモデルの主要な示唆を大きく変更しないと考える。本稿では簡便性のため、またモデルの着想に高校数学でいう群数列の発想を用いていることから、離散時間モデルを採用する。
たぶんベルクソン支持者は納得しない。だが、モデルは進む。
ピラミッドではなく、再帰系である
最初は、感情の上に理性があり、それが行動として表出されるという、フロイトとも似たピラミッドを考えていた。
しかし、今はむしろこう考えている。
x_{t+1} = F(x_t,u_t,y_t)そして、
y_t = G(x_t)内部状態が出力を生み、出力が環境を変え、その結果がまた内部状態を変える。これは直線ではない。循環である。しかも、過去の状態が次の認識の仕方そのものを変える。
一度犬に噛まれた人は、次に犬を見たとき、以前とまったく同じ入力処理をしない。一度裏切られた人は、次に似た場面に遭遇したとき、同じ人間ではない。つまり、入力そのものは同じでも、内部状態が違えば出力は違う。ここはかなりサイバネティクス的である。
さらに進めると、最初の「どのファクトを採用するか」という話に戻ってくる。
人間は、世界をそのまま受信しているわけではない。何を重要な情報とみなし、何に注意を向けるか。どの共通点や差異を意味あるものとみなすか。それ自体が、現在の内部状態に依存している。つまり観測者は系の外側にいる中立的カメラではない。
観測者自身が、何を入力として認識するかを決めるシステムの一部である。
この意味で、「事実を見ろ」という言葉も、完全に透明ではない。どの事実を見たのか、そしてなぜそれを見たのか。なぜ別の事実を見なかったのか。何をノイズとして捨てたのか。そこには、すでに観測者側の状態が関与している。観測者は観測対象から独立していない。観測の仕方そのものが、観測者の履歴によって形成されている。
ここまで来ると、二次サイバネティクス的な問題になる。
他人の価値観は直接観測できない
もう一つ面白い点がある。
他人の価値観そのものは、直接観測できない。我々が見られるのは、発言や行動や表情の選択といった出力だけである。
つまり内部状態を x_t 、観測される出力を y_t とすると、
y_t=G(x_t)となる。
しかし、この G は一対一対応とは限らない。たとえば、「戦争は悪い」という同じ発話でも、その動機は異なる。ある人は人間の苦痛が嫌だから言う。ある人は功利主義的に社会的損失が大きいと考える。ある人は義務論的に人間を手段化してはいけないと考える。ある人は宗教的信念からそう考える。ある人は単に周囲から嫌われたくない。
したがって、
G(x_1) = G(x_2)が普通に起こりうる。出力が同じでも、内部状態は違う。つまり、発話から価値観を完全に逆算することはできない。
これは制御理論的に言えば、観測可能性の問題として扱える。哲学で昔から議論されてきた、他人の内面をどう知るのかという問いが、急に状態空間モデルっぽく見えてくる。
哲学を状態遷移方程式で書けないだろうか
ここまで考えて、さらに別のことを思った。哲学の議論に、もっと状態遷移方程式的な記述作法を導入したら面白いのではないか。
もっとも、哲学には当然、動的な思想は昔からある。経験、習慣、学習、認識の変化、人格形成、社会的相互作用、そして歴史。それらは何百年も論じられてきた。
ただ、だとしたら尚更、どの変数が、何によって、どのように更新されるのかを明示する作法は、もっと使えていい気がする。
たとえば、「人は経験によって価値観を変える」と言う。では、どの経験が効くのだろうか。何回経験すれば変わるのだろうか。ポジティブな結果とネガティブな結果で係数は違うのだろうか。過去の価値観にはどの程度の慣性があるのだろうか。忘却率はいくつか。ショックには閾値があるのだろうか。一度形成された価値観にはアトラクタがあるのか。別の価値体系へ相転移する条件は何か。こう書き始めると、哲学の文章が急に逃げられなくなる。「経験によって変わる」だけでは済まない。変わり方を書けとなる。
これは哲学を経済学に還元する、という話ではない。むしろ、哲学的主張の構造を明示するための共通記述言語として、動学系を使えないかという話である。
もっと乱暴に言えば、思想家の違いも、どの状態変数を重視し、何が何を更新すると考えたかとして比較できるかもしれない。
ヒュームなら、情念が目的を与え、理性が手段選択に関与するモデル。アリストテレスなら、反復行為が習慣を形成し、その習慣が次の判断を変えるモデル。デューイなら、問題状況、行為、結果、再評価のフィードバックループ。フロイトなら、観測不能な潜在状態を大きく取るモデル。カントなら、経験によって変わらない制約条件をどこに置くかが重要になる。ニーチェなら、出力後に理性が事後的説明を生成する項を入れたくなる。
こうした思想を、「理性派」「感情派」「経験重視」と分類するだけでなく
x_{t+1} = F(x_t,u_t)の F がどう違うのか、という形で比較できる。
これなら哲学史が、思想家の名前当てゲームではなく、異なる人間モデルの比較として見えてくる。
もちろん、ここには大きな限界もある。このモデルが記述できるのは、「人間が実際にどのように価値判断を形成するか」という記述的問題である。そこから、「人間は何を価値あるものと判断すべきか」という規範的結論が自動的に出るわけではない。どれだけ高度な状態遷移方程式を書いても、
is → oughtにはならない。その意味で、これは倫理学そのものを解決するモデルではない。
ただし、価値判断がどのように形成され、どのように変化し、どのように表出され、どのように他人から推定されるのかというプロセスを明示することはできる。少なくとも、「Tは事実を重視し、Fは感情を重視する」という一行よりは、かなり解像度が高い。
私が面白いと思っているのは、問いの形式そのものが変わることである。
従来の問いは、価値とは何かであった。これを、時点 t における価値状態 V_t は、どの入力を受け、どのような更新則によって V_{t+1} に遷移するのかと定式化し直す。さらに、その更新則 F_t 自体は、経験によってどのように更新されるのかと問えば、価値論は静的な定義論だけではなく、動的な生成論になる。
価値を「持っているもの」ではなく、形成され続けている状態として見る。これは、かなり違う景色を見せる気がする。
そしてMBTIに戻る
そもそもの出発点は、「Tは『でも事実じゃん』で全部許されると思ってない?」というMBTIあるあるだった。
そこから、事実とは何か、価値判断とは何か、感情と理性は分離可能か、経験は次の判断をどう変えるか、人間は入力をどう選別するか、他人の内面を出力からどこまで推定できるかという話になった。
そして最後には、動学マクロ、Learning-by-doing、サイバネティクス、状態空間モデル、群数列まで出てきた。
たぶん私は、哲学の問題を考えているときも、無意識に状態変数は何か、外生変数は何か、更新則はどうなっているか、フィードバックはどこにあるか、この状態は観測可能かといったふうに考えている。
哲学者が、「人間はいかに価値判断を形成するのか」と問う隣で、
x_{t+1} = F(x_t,u_t)と書き始める。
哲学に必要なのは、すべてを数式に還元することではない。ただ、「それ、状態がどう遷移する話なの?」と一度問い直し、動学マクロの作法で記述することによって、これまで哲学者たちがどうやって記述しようかと頭を悩ませてきた問題にも、もしかするとブレイクスルーが起きるのではないかと考えている。

