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南方熊楠にとっての熊野#02

熊楠は紀伊国牟婁郡、現在の田辺の町に生まれた。
彼にとって熊野の社寺や山野は、後年に「研究対象」として発見された場所ではない。幼少期から日常の延長として身体に染み込んだ空間だった。熊楠は回想的な文章の中で、少年期の自分が山に入り、社に寄り、森を歩き回った経験を、特別な出来事としてではなく、生活の自然な一部として語っている。
熊楠は「熊野の山中には、社と社でないものの境がない」と書いている。
社殿の背後に森があり、その森の奥に修験の行場があり、さらにその先に人の立ち入らぬ領域が続く。彼にとって熊野神社とは、鳥居と拝殿で完結する場所ではなかった。信仰は建物に宿るのではなく、土地の連なりの中に浸透しているという感覚が、幼少期から前提としてあった。

そして熊楠は熊野の信仰を「雑然としている」と評することを恐れない。ある随筆で彼は、熊野では仏が神となり、神が権現と呼ばれ、そこに山の霊や水の霊が入り交じってきたと述べている。この混交状態を、未整理な信仰として切り捨てることを彼は拒んだ。むしろ、整理されていないこと自体が、長い時間の中で培われた宗教的現実だと理解していた。
幼い頃に見聞きした祭礼や縁起、修験者の姿も、熊楠の記憶に深く刻まれている。彼は後年、「熊野の社では、誰が神で誰が仏かを厳密に区別して拝んだ者はいない」と記している。信仰は体系として学ばれる前に、行為として繰り返されてきた。その反復の中で、意味が生成されてきたという認識が、すでに少年期の体験の中にあった。

ロンドン留学後、比較宗教学や博物学の知識を身につけた熊楠は、熊野での原体験を新しい言葉で捉え直していく。しかし彼自身は、学問によって熊野を理解したとは考えていない。むしろ、熊野で得た感覚があったからこそ、西洋の宗教分類や自然観に対して距離を取ることができた。
彼は書簡の中で、「宗教を一神一義にまとめるのは、書物の上では便利だが、実地の信仰とは合わぬ」と述書いている。この「実地の信仰」の典型として、熊楠の念頭にあったのが熊野だった。森と社が連続し、人の生活と霊的世界が切れ目なく重なっている空間。それは理論によって構成された宗教以前の、経験としての宗教だった。

このように見てくると、熊野神社群は熊楠にとって学問の素材ではなく思考の出発点だった。熊楠の比較宗教学や民俗学は、熊野を説明するために作られたのではない。熊野という場所で成立していた複雑な現実を、どう言葉に耐えさせるかという問いから生まれた。その基盤は、幼少期に身体で知った熊野の社と森の連なりにあった。
この意味で、熊楠にとって熊野神社は「学問以前の経験の場」という表現ですら十分ではない。学問が成立する以前に、世界がどのように存在していたかを、彼に教え続けた場所だったのである。

彼の神社合祀政策への抵抗は、この理解の帰結である。
熊楠は、社が失われることを嘆いたのではない。社叢が伐られ、祭祀が中断され、土地の記憶が断ち切られる過程を問題にした。熊野神社の森は、生態学的にも文化的にも長期的な蓄積の結果として存在していた。それを行政効率の名の下に消去する行為は、自然破壊であると同時に、知の破壊だと熊楠は考えたのだ。

この視線で見るべきは、熊楠が熊野神社を「地方の信仰」として扱わなかった点である。
熊野は、院政期の王権と結びつき、全国的な参詣網を持っていた。熊野詣は、権威が移動することで可視化される制度だった。熊楠は、この歴史を踏まえた上で、熊野神社を日本宗教史の中心に据え直そうとしていた。地方文化として保存するという発想そのものが、すでに視野の縮小だと見ていた。
熊楠にとって熊野神社は、過去の遺物ではない。近代国家が宗教と自然を管理しようとする際に、何を切り捨てるのかを示す試金石だった。熊野を守ることは、信仰を守ることでは終わらない。人間が世界をどう理解し、どう分類し、どこまで制御しようとするのか。その限界を問い返す行為だった。

南方熊楠と熊野神社の関係は、郷土愛でも信仰告白でもない。世界の複雑さを複雑なまま引き受ける姿勢が、熊野という場所を通して貫かれている。そこにこそ、熊楠にとっての熊野神社の核心があると僕は思う。

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白石誠 無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました