南方熊楠にとっての熊野#03
南方熊楠の書いたものを読み続けても、彼から熊野古道という言葉を得るのは難しい。それにもかかわらず、彼は熊野の山々と川筋を、繰り返し、しかも体系的に横断している。その足取りは、断片的ではあるが日記の中に散見している。
https://www.minakata.org/guidancepublications/diary_s6-7/
明治三十七年、那智山での調査を終えた熊楠は、徒歩で田辺へ戻った。
この移動は一続きの紀行文としては書かれていない。那智での採集記録が数日分続いたあと、日付が進み、記録の舞台が突然田辺近郊へと切り替わる。その間に挟まるのは、峠、尾根、急坂、霧といった語彙である。大雲取越、小雲取越、潮見峠という名称が揃って現れることは少ないが、那智から田辺へ徒歩で抜ける現実的経路は限られている。彼が書いたものを日付と地名の対応関係をつなぎ直すことでしか見えないが、熊楠が熊野古道の中でも最も険しい縦断路を選び、歩いていることはよくわかる。
なぜその道を選んだのか? まますれば、これを彼の修験的な精神性によるものと解釈しそうだが、日記の文体から見る限り、その可能性は低い。苦行を誇示する記述も、宗教的高揚も見当たらない。・・となると残る説明は、調査効率である。
人の往来が少ない道は、人為的攪乱が少ない。伐採や踏圧の影響が弱く、自然状態に近い環境が保たれやすい。熊楠が関心を寄せていた菌類や粘菌は、まさにそのような場所で多様性を示す。険しい道を選ぶこと自体が、観測対象を豊かにする方法だった。
加えて、この道は那智と田辺という二つの拠点を、ほぼ直線的に結ぶ。彼にとって那智は、熊野三山の中でも環境条件が極端に集中する地点であり、比較の基準点であった。そこから田辺へ戻る過程で、条件がどのように緩和され、変質していくかを確認する。そのためには、環境変化が段階的に現れる縦断路が最適だった。
その選択理由に熊楠らしさがあると僕は思う。
彼はいつものように距離も、所要時間も、苦労話も書かない。日記の中心にあるのは、植物名と菌類名であり、その発生条件である。峠は眺望の対象ではなく、環境が切り替わる境界として現れる。尾根は風通しの記号であり、霧は湿度の指標である。古道は、歴史的遺構としてではなく、観測線として機能しているのだ。
数年後、四十一歳の熊楠は再び山へ入っている。この時の起点は田辺であり、進路は今日でいう中辺路に重なる。しかし日記には「中辺路」という語は出てこない。宿泊地の名前が日ごとに内陸へ移動し、やがて熊野川流域に達する。その地点で、記録の性質が変わる。川沿いの生物に関する記述が増え、水際の環境に注意が集中していく。
川湯から熊野川を舟で下った際、彼はカワウソを目撃した。
その記述は、動植物の観察が並ぶ段落の途中に、唐突に置かれる。
「舟中より川面を望むに、岸に近く黒き獣の水を割りて走るを見る。形状、動き、獺と認む。」
ここにも驚きは書かれない。珍しさも語られない。舟旅の情緒もない。川船は移動手段として説明されず、水辺環境の一部として処理される。熊楠にとって熊野川は景勝地ではなく、生態系の連続体である。
瀞峡を経て玉置山へ向かうと、日記は再び山の記録へ戻る。ここで彼は野宿をしている。
「玉置山中にて宿を取らず。夜、露深く、衣湿る。」
この一文も、特別扱いされない。野宿は冒険ではなく、調査を継続するための一条件にすぎない。高地性植物や菌類の記録の合間に、必要最低限の状況説明として差し込まれている。
玉置山を下った後、熊楠は本宮周辺で採集を行う。本宮という地名は日記に現れるが、社殿や儀礼についての記述はほとんどない。熊野川沿いの植生、社地周辺の環境条件が主な対象となる。信仰の中心地は、彼の記録の中では観測点の一つに還元されている。
こうした熊楠の残した熊野の原野を歩く話を読み漁りながら、僕は彼が熊野三山をどう捉えていたのかについて思いめぐらしてみた。
それは信仰の対象としての理解でも、郷土意識としての把握でもない。
彼自身がほとんど語らなかったために、かえって浮かび上がってくる、独特の距離感である。
まず明らかなのは、熊楠が熊野三山を一括した象徴として扱っていないという点である。三山という枠組みは、彼の文章の中では驚くほど影が薄い。那智、本宮、新宮という名は現れるが、それらを統合する概念としての「三山」は、説明対象にも評価対象にもなっていない。これは無関心ではない。むしろ、彼の関心が別の次元に置かれていたことを示している。
熊楠が最も多く足を運び、最も長く滞在し、最も多くの記録を残したのは那智である。だが那智は、滝の霊威や修験の場として語られない。彼の記録に現れる那智は、極端な湿潤環境が集中する地点であり、菌類や粘菌が異常な密度で出現する場所である。那智瀑布は信仰の中心ではなく、水量、飛沫、岩肌、日照条件が複合する特殊環境として暗黙に扱われている。那智は、熊楠にとって比較の起点だった。
そこから山を越え、本宮へ至る過程で、彼は熊野川流域を詳細に観察する。本宮もまた、日記の中では宗教的中枢として描かれない。社殿や儀礼は視界の外に置かれ、川と森の接点としての環境が前面に出る。本宮は、山地環境と水系環境が交差する地点であり、那智で得た極端な条件が、どのように緩和され、変質していくかを確認するための地点だったと読める。
新宮についても同様である。都市的要素や社勢の広がりに関心を示す記述は少なく、河口域としての性格、水辺環境の変化が暗黙の前提となる。三山は信仰の三極ではなく、環境条件の異なる三点として配置されている。
この見方を支えているのが、彼の記録方法である。熊楠は場所の意味を説明しない。場所が意味を持つとすれば、それは観測結果の差異としてである。那智でしか見られないもの、本宮で現れる変化、新宮で消えていく条件。それらが並置されることで、熊野という空間が立体的に浮かび上がる。
ここで重要なのは、熊楠が熊野三山を否定したり、相対化したりしているわけではない点である。彼は評価を留保している。信仰的意味づけを引き受けることも、拒否することもせず、ただ観測点として配置する。その態度は冷淡に見えるが、実際には徹底して誠実である。意味を与える前に、違いを確定しようとしている。
その結果、熊野三山は彼の中で、霊場でも制度でもなく、自然条件が極端に凝縮された三つの節点として再構成される。那智は極端、本宮は交差点、新宮は開口部。この配置は、彼が熊野古道の中でも最も険しい縦断路を選んだ理由とも重なる。三山を巡るためではなく、三点を結ぶ過程そのものを観測するために、彼は山を越え、川を下った。
熊楠にとって熊野三山とは、信仰の完成形ではない。自然がどのように条件を変えながら連続しているかを示す、思考のための配置図である。そのため彼は語らない。語らないことで、差異だけを残す。その沈黙の集積の中に、彼らしい視座が確実に表れていると思った

いいなと思ったら応援しよう!
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました