藤原不比等の真相〜藤原氏の始祖は、天智天皇の隠し子だったのか⁈〜
前回、持統天皇がアマテラス信仰と伊勢神宮を通じて、自らの皇統に「神」としての権威を与えていったことを見てきた。
そして、この持統天皇のもとにもう一人あまりにも異例な出世を遂げた男がいる。
藤原不比等(ふじわらのふひと)。
中臣鎌足の子として生まれ、後に藤原氏を日本史上最強の一族へと押し上げた人物である。
だが、この不比等の出生については、平安時代から伝わる由緒正しい史料の数々が、驚くべき「秘密」を書き記しているとされている。不比等は鎌足の実子ではなく、天智天皇の隠し子だったというのだ。
■ 一介の官人から、日本最高権力者へ あまりに異例な出世
不比等は659年、鎌足の次男として生まれたとされる。
689年、裁判を司る下級官人として政界にデビューするが、そこからの躍進は凄まじいものだった。
持統天皇からの絶大な信任を得て急速に台頭し、大宝律令の編纂を主導。
平城京への遷都も彼が主唱したとされる。娘の宮子(みやこ)を文武天皇の夫人とし、生まれた首皇子(おびとのみこ、後の聖武天皇)の外祖父となり、さらに別の娘・光明子(こうみょうし)をもその首皇子の妃とすることで、皇室と二重の姻戚関係を築き上げた。草壁皇子・持統・文武・元明・元正と、実に4代の天皇に仕えたとされる。
一豪族の子にすぎないはずの人物が、なぜこれほどまでの権力を、これほどの速さで掌握できたのか。この疑問こそが、不比等の出自をめぐる古くからの憶測の出発点となっている。
■ 『大鏡』が記す、あまりに大胆な「出生の秘密」
平安時代に成立した歴史物語『大鏡(おおかがみ)』には、次のような伝承が記されているとされる。
天智天皇は鎌足をたいそう気に入り、自らが寵愛していた女御(にょうご)を鎌足に下げ渡した。
ところが、この女御はすでに天智天皇の子を身ごもっていた。
天皇は鎌足にこう約束したという。「生まれた子が男ならばそなたの子とせよ。女であれば朕が引き取ろう」。
そして、生まれたのは男の子だった。
約束どおりその子は鎌足の子として育てられた。
それが、後の藤原不比等である、と『大鏡』は伝えているとされる。
さらに、驚くべきことにこの逸話は『大鏡』一書だけの特殊な記述ではない。『興福寺縁起』『公卿補任(くぎょうぶにん)』『帝王編年記』『尊卑分脈』といった、複数の由緒ある史料に、同様の「天智天皇皇胤説(てんじてんのうこういんせつ)」が記録されているとされている。
■ 傍証とされる、いくつもの「不自然な点」
この説を補強する材料として、しばしば次のような点が指摘される。
▶ 不比等の「育ての家」
尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)によれば、幼い不比等は山科の田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ)という人物のもとで養育され、「史(ふひと)」という名も、この人物にちなむとされている。この田辺氏は、百済系の渡来人だったと伝えられており、中臣・藤原の本家ではなく、あえて外部の家で育てられたという点に、不自然さを見る向きもある。
▶ 兄・定恵(じょうえ)にも囁かれる、同様の噂
不比等の兄である定恵もまた、実は孝徳天皇(こうとくてんのう)の落胤だったのではないかという、よく似た構造の説が存在する。定恵が出家して僧侶の道を歩んだのは、孝徳天皇が政争に敗れて失脚したことと無関係ではない、とも囁かれている。もし本当に鎌足が、時の権力者から「わけあり」の子を預かり養育するという役回りを担っていたのだとすれば、不比等の出生譚もにわかに現実味を帯びてくる。
▶ 藤原の姓を継いだのは、不比等ただ一人
669年、鎌足は死の間際に「藤原」の姓を天智天皇から賜ったが、698年、この藤原朝臣の姓は鎌足の子の中で不比等にのみ継承するという決定がなされたとされている。他の兄弟には認められなかったこの特別扱いも、不比等の出自の特殊性を物語っているのではないか、とも言われている。
■ もしこれが真実なら 「外戚政治」ではなく「本家」だった
もし、この「天智天皇皇胤説」が事実であるならば藤原氏の権力構造そのものの見え方が、根底から変わってくる。
これまでの記事で見てきたように、蘇我氏も、そして不比等以降の藤原氏本流も、娘を天皇に嫁がせることで「外戚」として権力を握るという手法を用いてきた。しかし、もし不比等自身が天智天皇の実の子であったとすれば、彼は単なる外戚ではない。皇統の血そのものを、隠れた形で受け継いだ当事者だったということになる。
娘たちを次々と皇室に嫁がせ、孫を天皇の座に就かせた不比等の情熱は、単なる権力欲というより、「本来自分が受け継ぐべきだった血脈を、正しい場所へと戻す」執念だったのかもしれない。そんな読み方もできてしまう。
■ まとめ なぜこれほど多くの史料が、同じ「秘密」を語るのか
もちろん、今日(こんにち)の歴史学において、この「不比等=天智皇胤説」は史実として広く認められたものではなく、信頼性に乏しい伝承とされている。実際、多くの信頼できる史書も「信用しがたい」と注記している。
しかし、一つの伝説が偶然生まれたにしては、あまりに多くの独立した史料が、繰り返しこの同じ「秘密」を書き記している点は見過ごせない。
平安貴族たちの間で、藤原氏の権力の源泉について、公式の記録とは異なる「もう一つの物語」が、ひそかに語り継がれていたことだけは確かなようだ。
蘇我氏、物部氏、中臣鎌足、天武天皇、そして持統天皇、本シリーズで辿ってきたすべての人物に、大陸や半島、あるいは皇統そのものにまつわる「隠された正体」の影がちらついていた。その系譜の最後に立つ藤原不比等もまた、同じ影を背負っていたのだとしたら。日本という国の権力の物語は、私たちが思う以上に、血と血が絡み合う一本の糸で繋がっているのかもしれない。
信じるか信じないかは、あなた次第。
▶ 次回予告
不比等の死後、彼の4人の息子たち「藤原四兄弟」は、最大の政敵であった長屋王(ながやおう、天武天皇の孫)を策略によって自害へと追い込む。「長屋王の変」である。だが、その8年後、4兄弟は揃って天然痘によってこの世を去った。これは偶然だったのか、それとも‥‥。
次回は、藤原氏の権力に影を落とした「長屋王の呪い」に迫ります。
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