壬申の乱の真相〜天武天皇に秘められた「新羅王族」という出自〜
前回、大化の改新の陰の立役者・中臣鎌足に隠された「百済王子」という正体について解説した。
祖国を失った王子が、海を渡って日本の歴史そのものを塗り替えたのかもしれない。
そんな壮大な仮説である。
その鎌足とともに蘇我氏を倒した中大兄皇子は、後に即位して天智天皇となる。だが、天智天皇の崩御からわずか半年後、日本古代史上最大の内乱が勃発する。「壬申の乱(じんしんのらん)」である。
そして、この内乱に勝利し即位した天武天皇。実はこの人物の出自にも、教科書には載らない衝撃の仮説が存在するとされている。
天武天皇もまた、朝鮮半島に連なる血筋を引いていた可能性があるというのだ。
■ 壬申の乱――日本古代史上最大の内乱
671年12月、天智天皇が46歳で崩御した。
後継者として太政大臣に任じられていたのは、天皇の子・大友皇子(おおとものおうじ)。
しかし、天智天皇の弟であり有力な皇位継承候補でもあった大海人皇子(おおあまのおうじ)は、政争を避けるためか出家を申し出て、吉野へと下っていた。
天智天皇の崩御からおよそ半年後の672年6月、大海人皇子はついに吉野で挙兵する。伊賀・伊勢・美濃と各地の豪族を味方につけながら軍勢を拡大し、7月22日の瀬田橋(せたはし)の戦いで近江朝廷軍を撃破。翌23日、大友皇子は自害し、乱は終結した。
わずか1ヶ月余りこの内乱は、古代日本において反乱者側が勝利した唯一の例とされ、後世「壬申の乱」と呼ばれることになる。勝者・大海人皇子は翌673年、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)にて即位した。これが天武天皇である。
■ 天武天皇「年齢不詳」という、あまりに異常な事態
ここで一つ、奇妙な事実がある。歴代天皇の多くは『日本書紀』にその生年が記されているが、天武天皇に限っては、生年がどこにも記されていないのだ。
この不自然な空白に、1974年、作家の佐々克明(さっさかつあき)氏が着目した。天智天皇と天武天皇、この二人の年齢を史料から丹念に読み解くと、通説とは逆に、弟であるはずの天武天皇の方が、兄・天智天皇よりも年上だった可能性があるというのである。
もし、これが事実なら『日本書紀』が伝える「天智と天武は兄弟」という記述そのものが、何らかの事情を隠すための創作だったことになる。
この指摘をきっかけに、在野の歴史研究家たちの間で、天武天皇の出自をめぐる様々な仮説が語られるようになったとされている。
■ 「異父兄弟」説――皇極天皇の知られざる最初の結婚
年齢逆転説を唱える論者の間で有力視されているのが、「漢皇子(あやのみこ)」説である。小林惠子(こばやしやすこ)氏ら
天智・天武の母とされる皇極天皇(こうぎょくてんのう)は、実は舒明天皇(じょめいてんのう)に嫁ぐ以前、高向王(たかむくのおおきみ、用明天皇の孫)という人物と最初の結婚をしていたとされる。そしてこの高向王との間に生まれたのが「漢皇子」だった。
その後、皇極天皇は舒明天皇と再婚し、その間に生まれた子が、のちの天智天皇である。
つまり、この説によれば天智と天武は同じ母を持ちながらも父親が異なる異父兄弟であり、しかも先に生まれた「漢皇子」こそが、後の大海人皇子=天武天皇の正体だったということになる。これなら、天武天皇の方が年上でありながら『日本書紀』上では「弟」とされている矛盾にも、一応の説明がつくというわけだ。
■ なぜ天武は、即位後に「親新羅」路線へと舵を切ったのか
この説をさらに補強するとされているのが、天武天皇の外交方針の激変である。
前回見た通り、天智天皇(中大兄皇子)は百済復興のために大軍を派遣し、白村江で唐・新羅連合軍に大敗した、根っからの「親百済」派だった。ところが天武天皇の代になると、朝廷の外交姿勢は一変する。唐へは使者を送らない一方、新羅とは在位中だけで14回以上も使者を交わし、文化的な交流を積極的に進めたと伝えられている。
なぜ、白村江で新羅と死闘を演じた国の後継者が、これほどまで急激に「親新羅」路線へと転換できたのか?
これは天武天皇自身のルーツが関係しているのではないかとも言われている。
作家の佐々克明氏は、天武天皇の正体を新羅の皇族「金多遂(きんたすい)」であったと推測した。また、先述の高向王の一族が、渡来系氏族・東漢氏(やまとのあやうじ)を通じて新羅系の血筋につながっていたとする説も存在する。つまり、天武天皇が国内向けには日本古来の神々を重んじつつ、外交においては新羅との融和を選んだ背景には、血筋のうえでも新羅と深い縁があったからではないか、というわけだ。
■ 天智暗殺説と、壬申の乱の知られざる構図
ここまでの仮説を総合すると、壬申の乱という内乱そのものの見え方が変わってくる。
もし、天武天皇が本当に新羅に連なる血筋を持っていたとすれば、根っからの親百済派であった天智天皇との間には、単なる皇位継承をめぐる対立を超えた、深い路線対立が存在していた可能性がある。在野の研究者の一部は、この対立の延長線上に、天智天皇の死そのものにも不審な点があったのではないかという、大胆な推測すら語っている。
もちろん、『日本書紀』は天智天皇の死を病没と記しており、暗殺を示す確たる証拠は存在しない。しかし、白村江の敗戦によって国防体制の立て直しを迫られ、近江への遷都という強引な政策で豪族や民衆の不満を買っていた天智朝の末期は、それ自体が非常に不安定な政治状況にあったとされている。
そう考えると、壬申の乱とは単なる兄弟間の皇位争いではなく、朝鮮半島情勢の縮図が日本列島に持ち込まれた、いわば「代理戦争」だったのかもしれない。百済系の近江朝廷と、新羅に近い大海人皇子陣営その激突の結果、日本の歴史の主導権は後者の手に渡ったことになる。
■ まとめ――「天皇」という称号に隠された謎
もちろん、この「天武天皇=異父兄弟説」「新羅王族説」は、学界で広く支持された定説ではなく、あくまで在野の歴史研究から生まれた仮説の域を出ない。だが、『日本書紀』が天武天皇の生年という基本情報すら記していないという事実は、紛れもない史実である。
なぜ正史はこれほどまでに、時の天皇の出自について沈黙を貫いたのか。もしかするとその沈黙こそが、天武天皇という人物が背負っていた、語られざる物語の存在を静かに物語っているのかもしれない。
信じるか信じないかは、あなた次第。
▶ 次回予告
壬申の乱を制した天武天皇は、即位後まもなく、国家の威信をかけた一大事業を命じる。それが『古事記』『日本書紀』の編纂だった。
なぜ天武はこれほどまでに「正史」の編纂にこだわったのか。
もし天武自身に「消し去りたい過去」があったのだとしたら⁈
次回は日本という国の「公式な物語」そのものに隠された編纂の真意に迫ります。
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