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秦氏の正体を追う! 法隆寺の怪異像から辿る、一万年の道


はじめに

以前の連載で、秦氏とアナトリア・ヒッタイトを結ぶ仮説に少しだけ触れた。今回はその続きを深掘りしていく。

舞台は紀元前7000年のメソポタミアに始まり、アナトリア高原、シルクロード、中央アジア、インド亜大陸を経て、六世紀の日本へと至る。主役は「秦」という一文字を千年以上背負い続けた、正体不明のエンジニア集団、秦氏である。

出発点は、現存する世界最古の木造建築、法隆寺だ。

第一章 法隆寺の怪異像と、メソポタミアの「トカゲ人間」

法隆寺の五重塔、初層の内陣には、釈迦の入滅などの場面を表した塑像群が安置されている。和銅4年(711年)ごろの作とされるこの国宝の中に、ネット上のオカルト界隈で長年語られてきた「異形の像」がある。
吊り上がった目、尖った口先。その人間離れした顔立ちは、いつしか「レプティリアン(爬虫類人)」というキーワードとともに語られるようになった。

もっとも、法隆寺が東西文化の交差点だったことは、何もオカルト的な話に限らない。
中門の柱に採用された「エンタシス」――中央がわずかに膨らむ、古代ギリシャ・パルテノン神殿ゆかりの建築様式は、日本国内では法隆寺以外にほとんど例を見ない。なぜこの様式が飛鳥の地に持ち込まれたのか?
その経路は今も明確にはわかっていない。
法隆寺という建物自体が、そもそも「東西文化のミステリー」を抱えた場所なのだ。

そのうえで、あの怪異な像を語るとき、必ずといっていいほど引き合いに出されるのが、もうひとつの「顔」である。

1919年、イラク南部のテル・アル・ウバイド遺跡。
発掘にあたった考古学者たちは、奇妙な小像をいくつも掘り当てた。
頭部が細長く変形し、目は吊り上がり、まるでトカゲのような相貌をしている。同じ顔立ちの赤子を抱いて乳を与える女性像まで見つかっている。
現在イラク博物館に所蔵されるこの像は、紀元前4000年ごろ、メソポタミア最古の文化のひとつ「ウバイド文化」の遺物だ。

この顔が何を表すのか学術的な説明は大きく二つに分かれる。一つは、
ウバイドの人々が信仰した蛇の精霊の象徴だとする説。
そして、人工的な頭蓋変形の表現だとする説だ。幼児のまだ柔らかい頭骨に布を巻きつけて意図的に変形させる風習は、実際にウバイド期の人骨からも確認されている。
米ペンシルベニア大学博物館は、この像について「セム・ヤペテ系の原初的な人々、あるいはシュメール以前の先住民の表現ではないか?」という見方を紹介しつつ、明確な結論は避けている。正体不明という点では、法隆寺の像とメソポタミアの像は、驚くほど似た運命をたどっている。

この手の像は、1919年の発見だけにとどまらない。
近年、クウェート北部の遺跡バーラ1で、同じく吊り上がった目と平たい鼻を持つ粘土像が出土しており、ワルシャワ大学地中海考古学センターの調査チームが報告書を発表している。ウバイド文化とアラビア半島との交流を示す資料として、今も現地調査が続けられている現役の研究テーマなのだ。

もちろん、こうした「爬虫類的な風貌」を異星人の記録とみなす、いわゆる古代宇宙飛行士説の解釈は、主流の考古学とは一線を画す。だが、7000年前のメソポタミアと飛鳥時代の日本という、時間も空間も隔たった二つの場所に酷似した「異形の顔」が残されている事実は、単なる偶然として片付けるにはあまりに出来すぎている。
この二点を結ぶ補助線として動画が示すのが、「秦氏」という渡来氏族の存在だ。

第二章 消えた民族「ハッティ人」と、稲荷の女神

秦氏の「秦」という文字を見て、多くの人は中国を統一した秦の始皇帝を思い浮かべるだろう。
秦氏自身も、平安時代の氏族名鑑『新撰姓氏録』のなかで始皇帝の末裔を名乗っている。
「秦」の語源は、始皇帝の秦(紀元前3世紀)よりさらに二千年近くさかのぼる、アナトリアのある民族名にあるという。その名は「ハッティ人」。

紀元前3千年紀(紀元前3000年代)の半ば、のちにヒッタイト帝国の中心地となるアナトリア半島中央部に、すでに王国や君公国を築いていた先住民たちがいた。
彼らの言語「ハッティ語」は系統不明で、印欧語族には属さない。
アッカド王サルゴンの時代(紀元前2350年頃)の粘土板にはすでに「ハッティの地」という呼称が現れ、以後1500年にわたって使われ続けたという記録が残る。

紀元前1900年頃、印欧語族に属する「ヒッタイト人」(彼らは自らを「ネサの言語を話す者」と呼んだ)が北方から移住してくると、ハッティ人は征服されたのか?同化したのか?それとも少数派として残ったのか?
今も学界に結論はない。ただ確かなのは、ヒッタイト帝国成立後もハッティ語が宗教儀礼の言語として生き続け、ハッティの神々の多くがそのままヒッタイトの信仰に取り込まれたという事実だ。

その神々のひとりに、風と大気を司る女神イナラシュ(イナラ)がいる。彼女は「イルヤンカ神話」の主役だ。嵐の神プルリヤシュが、海を支配する竜イルヤンカに敗れる。そこでイナラは一計を案じ、盛大な酒宴を開いてイルヤンカを泥酔させ、人間の勇者フパシヤシュに縛り上げさせて、嵐の神による逆転勝利を導く。嵐の神の娘が知略で竜を打ち倒すこの構図は、古代オリエント一帯に広く見られる「嵐(あるいは英雄)が蛇を退治する」神話類型の典型例であり、日本神話のスサノオによるヤマタノオロチ退治と驚くほど似た骨格を持っている。

動画は、このイナラの名こそが、秦氏の創建した伏見稲荷大社の「イナリ」の語源だという説がある。実のところ日本側の伝承では、「イナリ」の語源は「イネナリ(稲生り)」、すなわち稲が実る様子を表した言葉だというのが定説であり、主祭神・宇迦之御魂神の「ウカ」は「貴い食べ物」を意味するとされる。

だが同時に、伏見稲荷大社が和銅4年(711年)、奇しくも法隆寺の五重塔塑像とほぼ同時期に、山城国を本拠とした渡来氏族・秦氏によって創建されたことも、『日本民俗大辞典』などが指摘する史実だ。
稲荷信仰はもともと秦氏の氏神信仰であり、一族の勢力拡大とともに全国三万社ともいわれる規模にまで広まっていった。
その創建者たちが、遠い祖先の記憶として風の女神の名をどこかに響かせていたとしても、不思議はないのかもしれない。

第三章 鉄と馬の道 ヒッタイトの滅亡から秦の建国へ

紀元前1200年頃、東地中海世界を襲った謎の激動、いわゆる「青銅器時代の崩壊」によってヒッタイト帝国は瓦解する。
「海の民」の侵入、飢饉、内部崩壊、原因は諸説あるが、結果として鉄の精錬技術を独占していたヒッタイトの職人たちは各地に離散し、その技術は一気にオリエント世界全体へ広がっていった。

この技術がまず同じ印欧系の騎馬民族スキタイに伝わり、スキタイからさらに中国大陸西部、黄河上流域に広がる遊牧諸民族、中国側の史書が「西戎」と呼んだ人々へ渡っていったとされる。

この中継地点には、実在の考古学的な足跡がある。内モンゴル南部、陰山山脈と万里の長城に挟まれたオルドス地方には、紀元前6世紀から紀元前1世紀にかけて栄えた「オルドス青銅器文化」がある。ここから出土する青銅器には、南シベリアからモンゴル高原西部にかけて分布した遊牧民由来の意匠、すなわちスキタイに強い影響を与えた「動物文様」の様式が色濃く見られ、その担い手は歴史記録に残る狄(てき)、匈奴、そして西戎と関係づけられている。スキタイ美術そのものにも、後期ヒッタイトやアッシリア、ウラルトゥといった西アジア文明の影響が指摘されており、鉄器文化と動物意匠が、アナトリアから中央ユーラシアの草原地帯を経て中国西辺にまで連鎖的に広がっていった様子を、点と点としてではあるが確かに追うことができる。

ここで興味深いのは、中国史における「秦」の建国神話そのものが、まさにこの「西戎」の世界と分かちがたく結びついているという事実だ。
紀元前900年頃、甘粛省天水、現在も名馬の産地として知られる土地に暮らしていた非子という人物が、周王室のために馬の繁殖で功績を挙げ、褒美として「嬴」の姓と領地を与えられた。
これが秦という国の始まりである。中原諸国から「野蛮」と見下されながらも、代々の秦の君主は西戎と抗争と交流を繰り返して勢力を広げ、やがて戦国七雄の一角へとのし上がっていく。秦という国家は、その出自からして、中央アジアの遊牧文化と馬の技術を色濃く受け継いだ、辺境のハイブリッド国家だったのだ。

始皇帝の時代、その痕跡はさらに劇的な形で姿を現す。
2016年、始皇帝陵から出土した曲芸師の俑(雑技俑)を調査したウィーン大学のルーカス・ニッケル教授は、その写実的な造形に古代ギリシャ彫刻の影響を強く感じさせると発表した。始皇帝兵馬俑博物院の李秀珍研究員も、兵士俑やブロンズ製の水鳥像に同様の影響を認めている。ニッケル教授はさらに、「ギリシャの彫刻家が現地に滞在し、地元の職人を指導していたのではないか?」という可能性まで示唆した。アレクサンドロス大王が中央アジアにまでギリシャ文化をもたらしたのが紀元前4世紀後半、その死からおよそ60年後に始皇帝が生まれている。中国西部の遺跡からヨーロッパ人由来のDNAを持つ人骨が見つかっていることも、この仮説を後押しする材料としてしばしば引用される。もっともこの説には中国国内から強い反発もあり、決着した話ではない。だが「秦」という国家が、建国の瞬間から東西文化が交差する回廊の上に立っていたことだけは、動かしがたい事実として残る。

第四章 弓月君と月氏 秦氏渡来伝説の裏側

日本側の記録に目を移そう。『日本書紀』応神天皇14年の条には、百済からひとりの王族が来朝したという記事がある。名は弓月君(ゆづきのきみ)。百二十県ともいわれる大勢の民を率いての帰化を願い出るが、新羅の妨害でそれが叶わず、葛城襲津彦が救援に向かうも三年たっても戻らない。業を煮やした応神天皇はついに精鋭を派遣し、新羅を牽制することでようやく弓月君の民を渡来させる。これが秦氏渡来の由来譚である。

平安時代の『新撰姓氏録』は、この弓月君を秦の始皇帝三世の孫・孝武王の子、功満王(あるいは融通王)であると記す。もっとも現在の研究では、これは秦氏自身が権威づけのために後から借りてきた系譜だという見方が定説になっている。弓月君の出身地とされる「弓月国」についても、中国敦煌近郊とする説、そもそも新羅系の渡来人を百済系と偽って権威づけたとする説など諸説が入り乱れ、確定した答えはない。

「弓月」という名そのものに手がかりを求める、もうひとつの読み方がある。紀元前2世紀、中央アジアを疾走していた遊牧民族・月氏(げっし)。彼らは匈奴に敗れて西方バクトリアへと大移動し、大月氏国を築く。その配下にあった五つの諸侯のひとつ、クシャーナ族の首長クジュラ・カドフィセスが紀元1世紀半ば、他の諸侯を統合してクシャーナ朝を打ち立てた。パルティアと戦い、ガンダーラ地方のプルシャプラ(現ペシャワール)を都と定め、三代目のカニシカ王の時代には、アショーカ王以来の仏教の大保護者として知られるようになる。ギリシャ・ローマのヘレニズム文化とペルシャ、インド、中央アジアの様式が融合したガンダーラ美術が花開いたのも、この時代のことだ。

「弓月(ゆづき)」と「月氏(げっし)」音の響きに導かれるようにして、この中央アジアの一大帝国と、日本に渡来した謎の氏族とを結びつける。

第五章 蘇我氏、武内宿禰、そして呂不韋

秦氏と並んで飛鳥時代の権力を握った蘇我氏にも、実は出自をめぐる論争が古くから存在する。1971年、歴史学者・門脇禎二は、『日本書紀』応神天皇25年の条に登場する百済の高官「木満致(もくまち)」と、蘇我氏の祖とされる「蘇我満智宿禰」が同一人物ではないかという「蘇我氏渡来人説」を提唱し、学界に大きな議論を呼んだ。
もっとも年代の不整合や、名門氏族が自ら姓を捨てる不自然さなど問題点も多く指摘され、現在ではこの説は否定的に見られている。『古事記』『日本書紀』が公式に記す蘇我氏の祖は、あくまで武内宿禰(たけのうちのすくね)である。

この武内宿禰こそ、日本古代史でも屈指の謎めいた人物だ。
第12代景行天皇から第16代仁徳天皇まで、実に5代の天皇に仕えたとされ、単純計算では300年前後、史料によっては330年とも360年ともいわれる寿命を生きたことになる。神功皇后の三韓征伐を補佐し、幼い応神天皇を反乱から守り抜いたとされるこの人物は、もはや一人の人間というより、複数世代にわたる「忠臣」たちの事績が統合された象徴的存在だと考える研究者も少なくない。蘇我氏だけでなく葛城氏、巨勢氏、平群氏など、飛鳥時代に権勢を誇った有力氏族の多くが、揃って武内宿禰を共通の祖と仰いでいる。

この「複数世代にわたって王朝の実権を握り続けた影の重臣」という構図を、秦の宮廷に実在した呂不韋(りょふい)という人物と重ね合わせる。
趙の邯鄲で富を築いた商人だった呂不韋は、人質だった秦の王子・子楚(のちの荘襄王)に目をつけて全財産を投じて即位を後押しし、自らは秦の丞相にまで上り詰めた。『史記』は、彼が献上した愛妾が後に始皇帝を産んだと記しており、そこから「始皇帝の実の父は呂不韋ではないか」という有名な憶測が古来語り継がれてきた。晩年は自ら編纂させた大著『呂氏春秋』を都の門に掲げ、「一字でも直せる者には千金を与える」と豪語したという逸話でも知られるが、最終的には嫪毐(ろうあい)の乱への関与を疑われて失脚し、自死に追い込まれている。

武内宿禰と呂不韋、時代も国も異なるこの二人を直接結びつける証拠はどこにもない。だが「王家の血脈にまで影響を及ぼしかねないほどの、絶大な権力を持つ長寿の重臣」という役回りの相似は、見過ごせない符合として提示されている。

第六章 仏教という踏み絵 丁未の乱の遠い反響

日本に仏教が公式にもたらされたのは、『日本書紀』によれば欽明天皇13年(552年)、あるいは『上宮聖徳法王帝説』によれば538年、百済の聖明王が仏像と経典を献上したことに始まるとされる。
いずれの年であっても、そこから物語は最後、日本古代史上最大の政変のひとつ、587年の丁未の乱(ていびのらん)へと収斂していく。仏教の受容をめぐって、崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋(もののべのもりや)が激突したこの内乱に、当時13、4歳だった聖徳太子(厩戸皇子)は蘇我方として参陣し、自ら彫った四天王像を掲げて蘇我軍を鼓舞したと伝えられる。物部守屋を射殺したのは迹見首赤檮という舎人で、勝利した蘇我馬子は誓い通り四天王寺を建立、これ以降、日本における仏教文化は飛鳥文化として大きく花開いていく。

蘇我氏の語源を古代インドの「シュンガ朝」に、物部氏を、シュンガ朝に滅ぼされたマウリヤ朝の武人階級に求める。実際の歴史を確認すると、確かに興味深い相似形が浮かび上がる。仏教の大保護者アショーカ王のもとで最盛期を迎えたマウリヤ朝は、彼の死後急速に弱体化し、紀元前180年頃、将軍プシャミトラ・シュンガが最後の王ブリハドラタを閲兵式の最中に暗殺してシュンガ朝を樹立した。仏典の伝承によれば、プシャミトラは仏教教団を弾圧し、バラモン教の復興に努めたとされる(考古学的には彼の宮廷にも仏教徒がいたことが分かっており、弾圧の実態については異論もある)。

国家の中枢で、外来の新しい信仰(仏教)を奉じる勢力と、土着の伝統的信仰を守ろうとする勢力とが激突し、前者が勝利することで新しい文化が花開くこの構図は、770年ほど後の日本列島で、蘇我氏と物部氏の間に繰り広げられた争いと、驚くほど同じ輪郭を描いている。「物部」の最後の当主の名が、たまたま「守屋(もりや)」であったという史実も、この符合に一役買っている。この音の響きに、滅ぼされたマウリヤ(Maurya)の残響を聞き取っているのだろう。

おわりに 一万年の旅の終着点

ウバイドの粘土から法隆寺の塑像へ。ハッティの神々から稲荷の祭壇へ。ヒッタイトの鉄から秦の剣へ。月氏の草原からクシャーナの仏塔へ。呂不韋の権謀から武内宿禰の忠義へ。マウリヤの滅亡から丁未の乱へ、単一の民族や国家の物語ではなく、7000年という途方もない時間をかけて、技術と信仰と血脈が幾度となく混ざり合いながら東へ運ばれていった、巨大な人類の移動劇だ。

聖徳太子が秦氏や蘇我氏と手を組んだ理由は、単なる政治的打算だけではなかったのかもしれない。彼らが背負っていたのは、アナトリアの製鉄技術に始まり、ヘレニズムの美意識とガンダーラの仏教思想を経由して磨き上げられた、当時最先端の「技術と寛容の思想」だった。
そう考えると、飛鳥の地で結ばれた同盟の意味も、また違って見えてくる。

もちろん、ここで語られた道筋の多くは確定した史実ではなく、音の類似や年代の符合を手がかりに紡がれた、ひとつの「読み方」にすぎない。だが、法隆寺の片隅に今も残る、あの異形の顔を見上げるときそこに、名も残さず東へ渡っていった、遠い祖先たちの足音を聞き取ってしまうのは、私だけではないはずだ。

信じるか信じないかはあなた次第。

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