古事記・日本書紀の真相〜天武天皇はなぜ「歴史」を書き換えたのか⁈
これまで3回にわたり、飛鳥時代の権力者たちに隠された「もう一つの正体」を追ってきた。
蘇我氏と物部氏に眠る古代インド王朝の因縁。
中臣鎌足に隠された百済王子という顔。
そして壬申の乱を制した天武天皇自身に囁かれる、新羅王族の血。
もし、これらの仮説の一つでも真実だったとしたら、そこには大きな矛盾が生まれる。なぜなら、これらすべての「秘密」を闇に葬ることができる、唯一無二の立場にいた人物こそが、他でもない天武天皇だったからだ。
そう、彼こそが日本という国の「公式の歴史書」 『古事記』と『日本書紀』の編纂を命じた、まさにその人物なのである。
■ 681年、天武天皇が下した「歴史編纂」の勅命
壬申の乱を制し、絶対的な権力を手にした天武天皇。
晩年にあたる681年(天武10年)、彼は川島皇子(かわしまのみこ)や忍壁皇子(おさかべのみこ)ら12人に対し、ある重大な勅命を下す。
「帝紀(ていき=歴代天皇の系譜)」および「上古諸事(じょうこしょじ=古い時代の様々な出来事)」を記録し、編纂せよ、というものだ。これが、のちに40年近い年月をかけて720年に完成する『日本書紀』の、記念すべき出発点となった。
ほぼ同時期、天武天皇はもう一つの編纂事業にも着手している。舎人(とねり)である稗田阿礼(ひえだのあれ)という人物に、帝紀と旧辞(きゅうじ=各氏族に伝わる神話や伝承)を「誦み習わせ(よみならわせ)」たのだ。これが後年、太安万侶(おおのやすまろ)の手によって書き記され、712年に『古事記』として完成することになる。
■ 「帝紀・旧辞の乱れ」 正されたのは、本当に"誤り"だったのか
なぜ天武天皇は、これほど大規模な国家事業として「歴史編纂」にこだわったのか。その理由は、『古事記』の序文に天武天皇自身の言葉として記されている。
要約するとこうだ。
「諸家に伝わる帝紀・旧辞には、すでに真実と異なる、多くの偽りが加えられていると聞く。今この誤りを正しておかなければ、その正しい意味は失われてしまうだろう。帝紀・旧辞は国家の根幹であり、天皇による統治の礎である。ゆえに、偽りを削り、真実を定めて、後世に伝えたい」。
一見すると、これは実に真っ当な国家事業の理念に聞こえる。だが、ここで一つ、冷静に考えてみたい。
何が「偽り」で、何が「真実」であるかを最終的に決定したのは、誰だったのか?
当時、蘇我・物部・中臣(藤原)といった有力氏族は、それぞれ自分たちに都合の良い系譜や伝承を伝えていたとされる。天武天皇はこれを「乱れ」「虚偽」と断じ、一つの「正史」へと統合しようとした。しかしその「正史」を最終的に取りまとめたのは、他ならぬ天武天皇自身の意向であり、彼の血を引く皇統だったのである。
■ 二つの書物、二つの読者 『古事記』と『日本書紀』の使い分け
さらに興味深いのは、天武天皇が同時に二つの異なる歴史書の編纂を進めていたという事実だ。
『古事記』は、和文体(倭語)で記された、いわば皇室・貴族という「身内」に向けた物語である。一方の『日本書紀』は、当時の東アジアの共通言語であった漢文で記され、複数の編者による大規模な編纂体制のもと、唐や新羅にも通用する「国家の公式文書」として設計された。
つまり、天武天皇は国内向けの物語と、対外向けの物語を、明確に使い分けていたことになる。国内には皇統の神聖さと正統性を印象づけ、対外には唐に劣らぬ由緒ある文明国であることを示す。これは非常に高度な、政治的メディア戦略だったと言えるだろう。
もしこの時代、皇統や有力氏族の系譜に、大陸や半島との生々しい関わりが数多く存在していたとしたらそれを「正史」としてそのまま両方の読者に開示することは、果たして得策だっただろうか?
■ もし天武自身に「消したい過去」があったとしたら
ここで、前回までの仮説を思い出してほしい。
もし天武天皇が本当に、皇極天皇の最初の結婚で生まれた「異父兄弟」であり、新羅の王族に連なる血を引いていたのだとしたら?
天智天皇という「正統な系譜」を持つ兄と、出自に複雑な事情を抱えた自分自身。その天武天皇が、皇統の系譜を最終的に取りまとめる「編纂責任者」の座についていたという事実は、あまりに示唆的ではないだろうか?
さらに言えば、蘇我・物部・中臣といった有力氏族の系譜にまつわる大陸・半島とのつながりも、この編纂事業を通じて、大きく整理されたはずである。「乱れた偽りを正す」という大義名分のもと、都合の悪い伝承が静かに削られ、あるいは神話的な物語へと書き換えられていったとしても、今となっては誰にも証明することはできない。
■ 「一書に曰く」 消しきれなかった、もう一つの伝承
もっとも、天武天皇とその後継者たちが、すべての痕跡を完全に消し去ったわけではなさそうだ。
その証拠に、『日本書紀』の神代の部分には、「一書に曰く(あるふみにいわく)」という形で、本文とは異なる複数の異伝が、あえて併記されている箇所が数多く存在する。一つの出来事について、まったく違う登場人物や展開が語られる異伝が、堂々と併記されているのだ。
これは、編纂者たちが本当は複数の相容れない伝承の存在を知っていながら、それでもなお、あえて一つを「本文」として選び取ったことの、何よりの証拠と言えるかもしれない。選ばれなかった伝承たちは、こうして「一書」という注釈の中に、ひっそりと生き残ることになった。
■ まとめ 「日本の物語」は、誰のために書かれたのか
丁未の乱、乙巳の変、壬申の乱。
ここまで見てきた飛鳥時代の権力闘争の裏には、大陸や半島に連なる、生々しい人間たちの野望と血脈が渦巻いていたのかもしれない。
そして、その渦の中心にいた天武天皇こそが、最終的に「日本という国の物語」を一冊の書物として完成させる、最後の決定権を握っていた。もちろん、これらはあくまで在野の歴史研究から生まれた仮説の域を出るものではなく、学界の定説ではない。
だが一つだけ確かなことがある。
私たちが「日本の伝統的な神話」として親しんでいる物語は、天地開闢から続く悠久の記録である以前に、7世紀という、生々しい政治の季節に生きた人々によって、たしかに"編集"された書物なのだということだ。
信じるか信じないかは、あなた次第。
▶ 次回予告
天武天皇の崩御後、この歴史編纂事業を引き継いだのは、彼の皇后であり、後継者となった持統天皇(じとうてんのう)だった。
彼女はなぜ、伊勢神宮とアマテラスの権威を、これほどまでに強く整えていったのか?
次回は、皇統の正統性を「神」の物語として完成させた、もう一人の立役者に迫ります。
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