彷徨える都の真相〜聖武天皇は、何から逃げていたのか⁈〜
前回、無実の罪で自害に追い込まれた長屋王の「祟り」が、藤原四兄弟を次々と病死させたという噂について解説した。
都を覆ったこの恐怖と混乱の中心にいたのが、時の天皇・聖武天皇(しょうむてんのう)である。
そして、四兄弟の死からわずか3年後、聖武天皇は突如、都を捨てて彷徨い始める。わずか5年の間に、都は実に4度も移された。
この異常な行動の裏に、いったい何があったのか。
そしてその彷徨の果てに完成した、あの巨大な大仏には、どんな意味が込められていたのか。
■ 740年、藤原広嗣の乱 恐怖の始まり
長屋王の変、藤原四兄弟の相次ぐ病死。
こうした混乱がひと段落ついたかに見えた740年(天平12年)、新たな衝撃が都を襲う。
藤原四兄弟の一人・宇合の子である藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が、九州の大宰府で反乱を起こしたのだ。
政権を批判し兵を挙げた広嗣の乱は、最終的に鎮圧され広嗣は処刑される。だが、この報告を受けた聖武天皇は、まるで何かに突き動かされるように平城京を離れて東国への行幸を始めた。
そして、そのまま平城京に戻ることなく山城国の恭仁(くに)の地に、新たな都の造営を命じるのである。
■ 平城京を捨てた男 5年で4度の遷都
ここから聖武天皇の行動は、常軌を逸したものになっていく。
740年、恭仁京(くにきょう)に遷都。742年には、恭仁京の造営がまだ終わらぬうちから、近江国甲賀郡に紫香楽宮(しがらきのみや)の造営を並行して開始する。744年、今度は恭仁京から難波宮(なにわのみや)へと都を移す。この時、聖武天皇は官人たちに恭仁と難波のどちらを都とすべきか意見を募ったが、官人181名が恭仁を、153名が難波を支持し、恭仁の住民に至ってはほぼ全員が恭仁への残留を望んだと『続日本紀』は伝えている。それでも聖武天皇は、難波への遷都を強行した。
745年、都はさらに紫香楽へと移される。
平城京→恭仁京→難波宮→紫香楽宮、そして最終的にまた平城京へ。
わずか5年の間に、都はめまぐるしく4度も場所を変えたのである。この時代は後世、「彷徨える都(さまよえるみやこ)」と呼ばれることになる。
■ 「理由はよくわかっていない」 古代史最大の謎
なぜ聖武天皇は、これほどまでに都を転々とさせたのか。
実はこの問いに対する明確な答えは、現代の歴史学においても出ていない。多くの研究者が「理由はよくわかっていない」と率直に認めており、古代史最大の謎の一つに数えられているほどだ。
複数の都を並立させる「複都制」を目指していたとする説、木津川の水運や難波の外交拠点としての機能を重視したとする説など、政治的・実務的な理由を挙げる見方もある。
だが、それと同時に長屋王の祟りへの恐怖、疫病や反乱で有力な重臣たちを次々に失った精神的動揺、そうした「目に見えない何か」から逃れようとした結果ではないか、とする見方も根強く語られている。
■ 紫香楽宮で発せられた「大仏造立の詔」
この彷徨の最中の743年(天平15年)10月15日、聖武天皇は紫香楽宮において、日本史に残る一つの詔を発する。「大仏造立の詔(だいぶつぞうりゅうのみことのり)」である。
その内容を意訳すると、こうなる。
「自分は徳の薄い身でありながら、この地位を受け継いだ。すべての人々とともに救われることを願っている。天下の富も権勢も、すべて自分が持っている。この富と権勢をもってすれば、大仏を造ること自体は容易い。しかし、それでは人々の心からの信心には至らない。ゆえに、たとえ一本の草、一握りの土であっても、心から協力したいと願う者があれば、その志のままに任せよ」。
権力ずくで民を動員するのではなく、あくまで人々の自発的な信仰心によって、国家的な大事業を成し遂げたい。聖武天皇はそう宣言したのである。
この時代、疫病も反乱も天変地異も、すべては為政者の不徳に対する天からの咎めだと考えられていた。
ならば、これほどまでの災いを鎮めるためには、生半可な事業では意味がない。国家の総力を挙げた、前例のない規模の祈りが必要だったのかもしれない。
■ 山火事、そして大地震 「祟り」は紫香楽宮までも追いかけた
だが、大仏建立という一大決心をもってしても、災いは聖武天皇を許さなかった。
745年正月、紫香楽宮が正式に新京と定められた直後から、周辺で山火事が相次いで発生する。当時、原因不明の火災は「神仏の祟り」と考えられていた。天皇の徳を示すため、聖武天皇は4月27日に大赦と租税免除を発表するが、そのまさに同じ日、美濃国を震源とする大地震が紫香楽宮を襲う。余震は5月に入っても続いたと伝えられ、造立中だった大仏にも被害が及んだ可能性が指摘されている。
当時、天変地異もまた天皇の不徳への戒めと考えられていたことを思えば、この地震は人々の目に、紫香楽での新京建設そのものへの「否」と映ったに違いない。結局、聖武天皇はわずか4〜5ヶ月で紫香楽を放棄し、平城京へと帰還することを決断する。
■ すべては平城京へそして東大寺大仏の完成
746年、大仏建立の事業は、故郷である平城京の地、現在の東大寺で再開される。5年にわたる彷徨の末、聖武天皇はようやく安住の地を平城京に見出したのだ。
そして、752年(天平勝宝4年)ついに大仏開眼供養が盛大に執り行われる。インドから渡来した高僧・菩提僊那(ぼだいせんな)が導師を務め、唐や新羅からの使節も参列するという、国家の威信をかけた一大式典だった。
長屋王の変から実に23年、藤原四兄弟の死から15年の歳月を経て、聖武天皇はようやく、この巨大な祈りの形を完成させたのである。
■ まとめ 彷徨の果てにあったもの
政治的な打算だったのか、それとも目に見えない恐怖からの逃走だったのか。聖武天皇を突き動かした本当の理由は、今もなお歴史の闇の中にある。
だが、5年間さまよい続けた末にたどり着いた結論が、権力による強制ではなく、人々の自発的な祈りを結集させるという大仏建立の理念だったことは、示唆に富んでいるように思える。長屋王の祟り、疫病、反乱、地震、あらゆる災いを経験した末に、聖武天皇が求めたのは、より大きな権力ではなく、より大きな「祈りの器」だったのかもしれない。
信じるか信じないかは、あなた次第。
▶ 次回予告
聖武天皇の娘であり、大仏開眼を見届けた孝謙天皇(こうけんてんのう)。
彼女は晩年一人の僧侶を寵愛し、その僧侶に皇位を譲ろうとしたとまで言われている。
日本史上最大の疑獄事件ともいわれる「道鏡事件」である。
次回は、天皇の座を脅かした怪僧・道鏡の知られざる野望に迫ります。
#都市伝説 #日本史 #聖武天皇 #彷徨える都 #東大寺 #大仏建立 #紫香楽宮 #恭仁京 #難波宮 #奈良時代 #オカルト #陰謀論 #古代史の謎 #歴史の闇 #note
