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書けない時は、書けないことを書こうとしているだけなのかもしれない

 最近「どうやって、書くネタを見つけているのですか」と尋ねられることが増えた。

 思い起こせば、私は「書けないこと」で、悩んだことがほとんどない。では、なぜ私は書けるのか。そう自分に問い直したとき、ある事実に気づいた。

私は単に、「書きたくないこと」を避けてきただけなのだ、と。

 では、私にとっての「書きたくないこと」とは何だろう。過去の記憶を辿ってみる。

 ふと浮かび上がったのは、中学生の頃のバレンタインデーで起きた「忌まわしい事件」だ。

 勇気を出して好きな人にチョコを渡した、あの日。友人から「彼を交えて、一緒に遊ぼう」と誘われ、浮き立つ足取りで待ち合わせ場所へ向かった。

 けれど、そこで私を待っていたのは、彼と、その隣で誇らしげに微笑む「彼女」の姿だった。

 涙を浮かべる私に、友人たちは容赦なく「お前なんか相手にするわけないだろ」「汚い脚を見せるなよ」と追い打ちをかけ、指を差しては、笑い声を重ねていく━━これは、私がこれまで何度も忘れようとした辛い思い出だ。

 心の底に漬物石でも置いて、なかったことにしたかった。ショックのあまり翌日には茶色に髪を染め、ばっさり髪を切り落として「他の誰かになりたい」と必死に願ったあの頃の自分も、何もかも闇の底へ沈めてしまいたかった。

 これまで生きていく中で。一体どれほど強く、どれほど長く、そう願い続けてきたことだろうか。

 そんな辛いエピソードを、私が書けるはずがない。むしろ、書こうなどと一度たりとも思ったことがなかった。

 では、20年以上という歳月を経て、なぜあえてその傷を持ち込んで、noteに書こうとしたのか。

 その理由は、「書く人へのエール」というテーマで、この世に本を送り出したからだ。


 もしかしたら私は、心のどこかで「書けない人の気持ちに寄り添うには、自分も同じ場所に立たなければ」と思い込んでいたのかもしれない。

 けれど、その思い込みに頼るようにして、これまで蓋をしてきた「書けないもの」と向き合ってみようと決めた。

 避け続けてきた「苦い思い出」にそっと足を踏み入れ、「本当に書けないのか」を自分自身に問い直すことこそが、書けないと悩む誰かの痛みに、少しでも手を伸ばすことにつながるのではないか――ふと、そう思ったのだ。

 いざ指を動かすと、言葉は呆気ないほどするすると流れ、あっという間に書けてしまったのである。「書き終えた!」と達成感を覚えたのも束の間、直後に

「凄惨な過去をなぞってしまった……」
「可哀想な経験をした人と、周囲から認識される」

という事実に苛まれていく。その痛みは、あとから効いてくるボディブローのように、私の内側をじりじりと、容赦なく削り取っていった。

 おそらく私は、辛い出来事そのものを「書けない」のではなかった。むしろ、書き終えたあとに残る「辛い過去と向き合うこと」が、ただひたすらに怖かったのだ。だから書きたくなかったし、書けないと感じていたのだ。


 書けないとき、人はもしかすると「本当は書きたくないこと」を無理に言葉にしようとしているのではないか。心が拒んでいるのに、無理して閉じた心の扉をこじ開けようとしているのかもしれない。

 誰かの反応を得るために。コンテンツなど、消費されることもあれば、誰かの記憶に残り続けることもある。そんな思いで書いたところで、自分は本当に救われるのだろうか。読む人に喜ばれるのか。

 もし「書いて救われたい」と願うのなら、自分が何を書けば痛みが生まれ、どんな言葉が自分を癒すのかを知ることが大切だと思う。

 逆に、そうではないのなら、「書かない」という選択肢を選ぶのも有効な手段のひとつ。今の自分が無理なく書けるものを探し、楽しく書いていくことも、書く人にとっては大切な営みなのだ。

 それ以外にも、私には「書けなくなる」というより、むしろ「書くことが苦しくなる」時期がある。自慢と捉えず聞いていただけると有難いのだが、それは賞をいただいた瞬間など、自分にとっての「お祝い的な出来事」がある時だ。

 周囲の視線がいつもより明るくなる時は、同時に誰かの目線が鋭くなる。私の肩には不思議なほど力が入り、呼吸も浅くなる。

「今の私は注目されている。変なことは書けない」

 実は、人は思っているほど他人に強い関心を向けてはいない。その理由は、人は誰もが自分の人生を生きることで精一杯だからだ。それなのに。こういう時に限って、私は必要以上に自惚れ、自分を過大評価し、聞こえるはずのない誰かの声

「変なもの書いてんじゃねぇよ」

を勝手に妄想しては、人知れず震えてしまう。なぜなら、小心者だからだ。

 そんな自分の不安を、解くように書いてみよう――そう思って取りかかったのが、「現役ライターが完成度を気にせず、2日間の緩い日記を書いてみた」という日記だった。


 書きながらも、心のどこかでは人知れず怯えていた。こんな緩い日記をプロが書いて、もし周囲から「緩い日記なんか書いてんじゃねぇ」と嘲られたらどうしよう、と。

 けれど、届いたのは思いもよらない反応だった。

「お人柄がにじみ出ていて好きです」
「オフの顔が見えてお得な気分になりました」

 思いがけないほど優しい言葉に触れ、救われた気持ちになる。緩さを晒したはずなのに、むしろその緩さが、読んだ人の心にそっと触れたのだと知った瞬間、胸のつかえがとれた気がした。

 書けないなら、今の自分を受け入れる。無理に背伸びして書く必要はないし、書けない自分を抱きしめることもまた、書く行為の一部なのではないだろうか。

 むしろ、「書けない」という状態は、今の自分が求める水準に、まだ手が届かないだけのこと。それを受け止めることで、「書ける」人になるんじゃないかな。

 今日も、周りの目を気にしてドキドキ、そわそわしながら。それでも机に向かう。震える指先で、緩いエッセイをひとつ書いてみる。書けるかどうかではなく、まずは今の自分が「書けるもの」を出す。そんな譫言を心の内でぼそりと呟きながら、今日も私はnoteに「嫌われる覚悟」でエッセイを書いている。 

【完】


(所要時間 40分)
(文字数 2471文字)

「灯火杯 6th 2026 Spring」に参加します。

 先に申し上げておきます。

 審査員の方々の好みや、noteの読者が求めるテイストとは、正直なところ少しずれているかもしれません。

 その上で、私は「嘘を書きたくない」と思いました。審査員の皆様も含め、誰かに合わせて形を整えるより、いまの自分の視点で書くことを選びたかった。だから、あえてこのテイストにさせていただきました。

 今年の私は、「人の目線に立つこと」を課題としています。けれど現時点では、どうしても自分の視点から語ってしまうといいますか……。

 書けない人に向けた本を書いている以上、その声に耳を澄ませることが必要だとわかっているのに、人の気持ちに寄り添いきれない自分がいます。だからこそ、自分も当事者として「書けない」という感覚を言葉にしようと思い、今回の応募に踏み切りました。

 書けない人へのエールを自分なりにかみ砕いて、このエッセイを書きました。受け取っていただけたら、とても嬉しく思います。

#灯火杯

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