64歳・剣崎宗一郎の知性が最新詐欺を完全論破する小説『パンドラ・ファイル』その15『捏造の過失(スコア・ループ)』第4章:マインドの「バグ」を解く
(第1章から読む)
「私の、せいじゃなかった……」
結衣は、ディスプレイに映し出された偽のシステムコードを見つめ、何度もその言葉を繰り返した。
だが、茨のような自責の念は、そう簡単に彼女の心から剥がれ落ちてはくれなかった。安堵の涙の裏側で、別の暗い後悔が鎌首をもたげる。
「でも……、相手が怪しいと気づくチャンスはあったはずです。それなのに、私は焦って、自分の貯金を自ら振り込んでしまった。やっぱり私が馬鹿だったんです。もっと警戒していれば、こんなことには……」
一度深く傷ついた「自尊心」は、論理的な事実を突きつけられただけでは完全には修復しない。結衣の心は今、「自分自身の愚かさ」という、もう一つの心理的なバグに囚われようとしていた。
剣崎は、そんな彼女の心の揺らぎを、すべて見透かしたように静かに頷いた。
「立花さん。その自己嫌悪こそが、彼ら詐欺グループが最も好む『心のバグ』の残滓です。……私の信頼する高名な心理学の専門家に、あなたのその疑問を解き明かしてもらいましょう。メティス、彼女に繋いでください」
『了解いたしました。回線を確立します』
メティスの知的な音声が響くと同時に、大型ディスプレイの右端に、一輪の深紅の薔薇を象った美しいアイコンが表示された。スピーカーから流れてきたのは、ノイズ混じりでありながら、驚くほど上品で、大人の包容力を感じさせる女性の音声だった。剣崎は彼女を『ローズ先生』と呼んだ。

『立花結衣さん、初めまして。ローズです。……あなたは今、自分を酷く責めていらっしゃいますね。でも、その必要はこれっぽっちもありませんわ』
ローズの声は、結衣の傷ついた心にそっと寄り添うように優しく、同時に恐ろしいほど冷徹に心理構造を見抜いていた。
『あなたが「自分は愚かだ」と後悔しているその心理すら、彼らのプログラムによって必然的に引き起こされた「認知のハッキング」の結果に過ぎないのです。彼らはあなたの二つの美しい美徳を悪用しました。一つは「自分の仕事に最後まで責任を持とうとする強い責任感」。もう一つは「他人に迷惑をかけたくないという誠実さ」よ』
「責任感と、誠実さ……?」
結衣は、濡れた瞳でスピーカーを見つめた。
『ええ。一般の人は、自分がミスをしたと言われれば、慌ててそれを正そうとするわ。彼らはその極めて健全な「良心」のスイッチをハッキングして、「送金」というコマンドに書き換えたの。さらに彼らは、心理学で言う「サンクコスト(埋没費用)効果」を巧妙に悪用しました。一度支払ってしまった十万円を取り戻したい、ここで諦めたらすべてが無駄になるという人間の心理的焦燥を、彼らは偽のシステム画面で一歩ずつ煽り立てたの。あの状況に置かれれば、どれほど警戒心の強い人でも、冷静な判断力を奪われてしまう。それは脳の防御本能のバグを突く、極めて周到な心理虐待(モラルハック)なのですわ』
ローズの優雅な分析は、結衣の胸に重くのしかかっていた「自己責任」という名前の鉛の塊を、静かに、そして確かに溶かしていった。
『結衣さん。あなたは決して愚かでも、欲に目が眩んだのでもありません。ただ、人一倍優しく、真面目だっただけ。その美しい良心を泥棒に利用されたからといって、あなたがあなた自身を嫌う理由には、決してなりませんのよ』
「私……真面目にやろうとしていただけ、だったんですね……」
結衣は、自分の頬を伝う涙を、今度はそっと手の甲で拭った。
誰かを頼ることもできず、暗闇の中で自分を責め続けていた日々。その呪縛が、ローズの言葉によって一枚、また一枚と剥がれていく。
彼女の瞳の奥に、先ほどまでの怯えではない、自分自身を取り戻したことによる、静かで強い光が宿り始めていた。

「……ローズ先生、ありがとうございました。私、ようやく自分の心にかかっていた霧が晴れたような気がします」
結衣は大型ディスプレイに向かって、深く頭を下げた。スピーカーの向こうの『ローズ』は、フッと上品な笑い声を響かせた。
『どういたしまして。あなたの誠実さは、これからは自分を守り、悪を討つための武器になさってください。……アクシオム(注:剣崎のPANDORA内での通称)、あとはあなたに任せますわ』
「ええ、ローズ。素晴らしいプロファイリングでした。メティス、回線を切断してください」
『了解いたしました。ローズ様との暗号化通話を切断します』
スピーカーの薔薇の光が消え、室内に静かな緊張感が戻った。
剣崎は、机の上に広げられていた結衣のスマートフォンの画面に視線を落とした。そこには「本日中に二十万円を送金しろ」という詐欺師からの最後通牒のメッセージが、不気味に明滅している。
「さて、立花さん。あなたを縛っていた『罪悪感のバグ』は消え去りました。ここからは、彼らがあなたに突きつけているその理不尽な要求を、そのまま彼ら自身に突き返す『デバッグ(反撃)』の作戦をお話ししましょう」
剣崎は立ち上がり、ガラス製のホワイトボードの前に立つと、黒いマーカーを手に取った。

「今回の詐欺の極めて悪質な点は、最初からあなたのリアルな口座には『一円も前払い金(十万円)を振り込んでいない』にもかかわらず、偽のサイト上でエラーを捏造し、あなたの本物の十万円を奪い取ったことです。彼らは現在、その十万円を自分たちのダミー口座(中継口座)にプールしたまま、さらにあなたから二十万円を搾り取ろうとしています」
「はい……。そのお金は、もう諦めるしかないんでしょうか」
「いいえ。アバカスの……いえ、私の知り合いのアナリストが、あなたが昨日振り込んだ『安全口座』の正確な位置を特定しました。そのお金を取り戻すための、法的に正しく最も確実な方法は、あなたの銀行を通じて行う『組み戻し』の申請です」
「組み戻し……ですか?」
「ええ。間違って送金した資金を、銀行公式のルートで元の口座へ差し戻す手続きです。しかし、あなたがただ銀行の窓口で組み戻しを申請するだけでは、詐欺師たちはすぐに気づいて、あなたの十万円を別の海外口座や暗号資産へ逃がしてしまいます。それどころか、あなたに対して激しい脅迫や嫌がらせを始めるでしょう。だからこそ、彼らには『完全に騙されたふり』を演じ続けて、彼らのシステムそのものを内部から自滅させる必要があるのです」
「騙された、ふり……?」
結衣が小首をかしげると、横にいた広瀬(Bit)が、キーボードを叩く手を止めてニヤリと笑った。
「そう。やつらは今、結衣が『信用スコアを100にするための二十万円』を必死に用意して振り込んでくるのを待ってる。だから、俺のプログラムを使って、その偽サイトのシステムに『結衣名義で二十万円の振込が完了した』っていう偽のシステムログ(毒データ)を、彼らの自動回収ボットに直接流し込んでやるんだよ」
「そんなことが、できるんですか?」
「俺にかかれば余裕。システムは結衣から二十万円を回収したと誤認して、自動的に『スコア100・出金承認』の処理に入る。彼らの自動プログラムが『出金(=結衣への全額返金のためのダミー手続き)』を実行したその瞬間、俺の仕掛けたプログラムが彼らの送金ルートを逆探知してジャックする。彼らが他にプールしていた犯罪収益口座の情報をすべて引きずり出して、銀行の不正検知システム(AML(アンチ・マネーロンダリング))と警察へ一斉通報して、彼らの口座を完全にロック(緊急凍結)させるんだ」
剣崎はホワイトボードのマーカーを置き、真剣な眼差しを結衣に向けた。
「この反撃のロジックを完成させるには、立花さん。あなた自身が、最後まで冷静に『騙されている被害者』を演じ、彼らに二十万円を振り込んだと思わせる必要があります。……少し怖いかもしれませんが、我々を信じて、協力していただけますか?」
結衣は、ぎゅっと自分の両手をデスクの上で握りしめた。
恐怖は、もうなかった。あるのは、自分の弱さを利用した卑劣な悪意に対する、静かで確固たる怒りと、自分を守ってくれるパンドラへの信頼だけだった。
「はい。やらせてください。私のお金も、他に騙されているかもしれない人たちのお金も……絶対に、取り戻したいです」
結衣は顔を上げ、剣崎を真っ直ぐに見つめ、力強く答えた。
彼女の小さな拳には、これから始まる「デバッグ」への強い決意が宿っていた。

(第5章へ続く)
