上司部下シリーズ/小さなズルが職場を割っていく【第1話】3分の遅れと、押されないカード
東条テクノロジーの品質管理課では、出荷判定の段取りがある。
始業の数分が、地味に痛い。
準備が1分遅れれば、ライン全体が1分止まる。
それを、全員が身に染みて知っている。
だから、8時55分には全員が揃う。
それが、この課の暗黙のルールだった。
誰かに命じられたわけではない。
でも、全員がそうしてきた。
8時58分。
篠原は検査台の前で、確認表に日付を打った。
いつもの動作。
いつもの時間。
周囲も、同じように準備を進めている。
誰も急いでいるわけではない。でも、無駄な動きもない。
9時。始業。
全員が持ち場についた。
今日も、滞りなく始まる……はずだった。
9時3分。
ドアが開いて、沢村が入ってくる。
「おはようございまーす。すみません、電車が…」
笑いながら席に着く。
息を切らしているわけではない。
焦っている様子もない。
篠原は、反射的に時計を見た。
9時3分。
沢村は、タイムカードの前を通り過ぎた。
押さなかった。
篠原は見た。でも、言えない。
(言ったら、面倒になる。『細かい人』って思われる)
沢村はすでにパソコンを立ち上げ、何事もなかったかのように平然と画面を見つめていた。
沢村は、時計を見た。
(まだ3分。まあ、このくらいなら…)そう思った。
以前も、似たようなことはあった。そのときも、何も言われなかった。
タイムカードの前を通り過ぎながら、(あとで書けばいいか)と、自然に考えていた。
悪いことをしている感覚は、なかった。
むしろ、「これくらいで騒ぐ方が、職場の空気が悪くなる」と思っていた。
10時前、沢村が田中課長のデスクに寄った。
「課長、今日、打刻忘れたんで、手書きで『9時』って書いときますね」
軽い口調だった。まるで、落ちていた消しゴムを拾い上げるような軽やかさで。
田中は、沢村の顔を見なかった。
書類に目を落としたまま、「あ、……うん」とだけ言った。
その返事は、蚊の鳴くような声だった。
それは承認ではない。でも、否定でもない。
篠原の耳には、その「うん」が岩のように重く響いた。
(遅れてるのに。嘘をついてるのに。9時で通るんだ)
田中は、心の中で自分に言い訳をしていた。
(3分だ。注意して不機嫌になられたら、今日の出荷作業が滞る)
(ここで波風を立てるより、やり過ごす方が賢い判断だ……)
それは、管理職としての「判断」を放棄した、ただの先送りだった。
昼休み、給湯室で先輩が言った。
「篠原さん、沢村のこと、気になってる?」
篠原は、少し驚いた。
「……みんな、気づいてるんですか」
「まあね。でも、課長が何も言わないから」
先輩は肩をすくめた。
「言ったら、こっちが悪者になるでしょ」
篠原は、その日の午後、いつもより確認作業が増えた。
検査記録を二度見る。
サンプルのロット番号を三度確認する。
ふと、背筋が寒くなった。
(沢村さんは、時間に嘘をついた。もし検査でミスが出たとき、彼は本当のことを言うんだろうか)
(時間を書き換えるように、検査結果の数値さえも書き換えたりしないだろうか)
篠原は、自分が疑心暗鬼になっていることに気づいていた。 でも、止められなかった。
「時間にルーズ」なのは個人のマナーの問題だと思っていた。
だが、そうではない。
正確さが命の「品質管理」において、事実を書き換えることを許容する空気が、この課に流れ始めている。
それに、私は8時55分に来て、準備をしている。
沢村さんは9時3分に来て、9時で通る。
守ってる私が、馬鹿みたい。
篠原は、毎朝6時半に起きる。7時20分の電車に乗る。それでやっと、8時55分に間に合う。
沢村は、どの電車に乗っているんだろう。
遅延があったなら、なぜ毎日なんだろう。
そして、そんなことを考える自分が、
嫌だった。
その日の夕方、別のメンバーが小さくつぶやいた。
「沢村さん、また遅刻だったね」
誰に向けた言葉でもない。ただ、確認するように。
篠原は、何も返さなかった。
返せば、愚痴になる。
愚痴になれば、自分が文句を言う人になる。
だから、黙っていた。
でも、心の中では、はっきり思っていた。
(このままで、いいわけがない)
翌朝も、沢村は9時2分に来た。
その次の日は、9時5分。
そして、タイムカードは毎回9時と手書きされた。
課長は、何も言わない。
篠原は、少しずつ、何かが壊れていくのを感じていた。
それは、機械でも、製品でもない。
現場の、信頼だった。
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