上司部下シリーズ/「任せているんだから」【第5話】逃げない「任せ方」
【これまでのあらすじ】
「任せている」 高瀬課長が信頼の証だと信じていたその言葉は、他部署からの激しい抗議で打ち砕かれた。村上の独断が招いた致命的なトラブル。 「なぜ一言、聞かなかったんだ」と責める高瀬に、村上は冷めた目で返す。「お忙しそうでしたから」。
部下が見ているのは、成果ではなく「関心」。 自分が守っていたのは部下ではなく、ただ自分の時間だったのではないか。背を向ける村上の背中に、高瀬は初めて「拒絶」という名の恐怖を感じた。
翌朝、高瀬はいつものように出社した。メールを開きかけて、手を止める。
(関心、か……)
社労士の言葉と、数日前の村上のあの無表情が頭から離れない。
高瀬は意を決して席を立ち、村上のデスクに向かった。
「村上、今……どんな感じ?」
精一杯の歩み寄りだった。だが、村上は画面から目を離さず、キーボードを叩く手を止めないまま答えた。
「……特に問題ないです。指示通りに進めていますから」
突き放すような、硬い声だった。
「そうか。何かあれば言ってくれ」高瀬はそれ以上何も言えず、自分の席に戻った。
(こんなものか。いや、あれだけ放置しておいて、急に歩み寄っても、拒絶されるのは当然だ……)
数日、同じように声をかけた。「順調か?」「困ってないか?」
返ってくるのはいつも同じ、壁のような「大丈夫です」の一言。
(声をかければいい、という問題じゃないんだな。一度壊れた『聞ける空気』は、挨拶程度では戻らない)
高瀬は、村上を会議室に呼んだ。村上はノートとペンだけを持ち、感情を消した顔で座った。
『また何かミスがありましたか?』と言いたげな視線が痛い。
高瀬は、努めて淡々と切り出した。
「村上、これまでの私のやり方が間違っていた。忙しさを理由に、君に判断の責任を押し付けすぎていた。……すまなかった」
村上の眉が、わずかに動いた。
「これからは、任せ方を変えたい。君の判断を尊重するのは変わらないが、放りっぱなしにはしない」
「この案件、節目節目で一度持ってきてくれ。 迷ったところを見せてくれればいい」
村上は、少し戸惑ったような顔をした。「……途中でも、ですか? 以前は『自分で判断して』と……」
「ああ。あれは私の判断ミスだった。途中で方向性を合わせる時間を、最初からスケジュールに組み込もう。君を一人で迷わせないための、私の仕事だ」
村上は、しばらく黙っていた。「……分かりました」
その日の午後、村上が作成途中の粗い資料を持ってきた。図は崩れ、他部署との調整事項が箇条書きになっただけのものだ。
高瀬は、それを見た。「ここ、どう考えてる?」
村上は、少し迷いながら答えた。他部署との優先順位。コストと現場の使い勝手の板挟み。かつて村上が一人で抱え、恐怖のなかで送信ボタンを押した、あの「軸」の迷いだった。
村上は、言葉にしながら、少しずつ整理されていくような顔をしていた。
「……そうか、ここで止まってたのか。ここは、使い勝手を優先していい。コストの超過分は、私が上と交渉する。この方向で進めてみてくれ」
高瀬がそう言うと、村上の顔から、わずかに緊張が抜けた。
大きな変化ではない。ただ、「判断の孤独」に、上司が足を踏み入れた。それだけだった。
ただ、それは簡単ではなかった。声をかける時間を作るためには、高瀬自身のやり方を変えなければならなかった。
会議の資料は事前に読み込んでおく。 返信を後回しにしていたメールを、朝一番に処理する。 自分が抱え込んでいた確認作業を、他のメンバーに振り分ける。
時間があればやろう、では一生変わらない。
時間は、待っていても来ない。自ら削り出すしかない。
うまくいかない日もあった。会議が長引いて、声をかけられないまま一日が終わることもあった。そんな日は、帰り際に一言だけ言うようにした。
「明日、少し話せるか」それだけでも、違う気がした。
それから、少しずつ変わっていった。毎日ではない。劇的でもない。でも、節目ごとに「一度見せてくれ」を繰り返すうちに、村上の言葉が少しずつ増えていった。
「……実は、ここで少し迷っていて」
その一言が出るまでに、時間がかかった。 でも、ついに出るようになった。
高瀬は最後まで聞き終え、短く言った。 「それでいいと思う。進めてみて」
村上は思った。 (聞いてもらえた。それだけで、なぜか前を向けた)
机の上に「判断待ち」として積み上がっていた資料の山が、少しずつ、確実に崩れていく。
小林は、キーボードを叩く手を止め、ふと顔を上げた。高瀬と村上の、あの淡々とした、でも温かいやり取りを見ていた。
(自分も、動けるかもしれない)
「仕切るな」という言葉に縛られ、静観を決めていた小林の心に、小さな灯がともった。
課の空気は、まだ理想には遠い。 冷え切った信頼が完全に溶けるには、まだ時間がかかるだろう。それでも、高瀬はもう一度村上に声をかけた。
「今どんな感じ?」
村上は、少しだけ間を置いて答えた。
「……ここ、少し迷ってます」
その声は、前よりずっと、軽やかだった。
机の上の資料が、次の工程へと動いていった。
完
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