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ベートーヴェンが敬愛した作曲家---ある鎮魂曲を巡って


《英雄》とケルビーニのハ短調レクイエム

来る2026年9月のバッハ・コレギウム・ジャパン定期演奏会は鈴木優人指揮によるベートーヴェン交響曲シリーズとして第3番《英雄》とケルビーニのハ短調レクイエムが演奏される。

ケルビーニのハ短調レクイエムを偏愛する私にとって、実演を聴ける千載一遇のチャンスであり万難を排して出向くつもりであるが、そもそもこの定期のプログラミングは絶妙である。
チラシに「ナポレオンに絶望した男。ナポレオンに反発した男。」とあるように、ベートーヴェンとケルビーニはフランスの英雄/独裁者のナポレオンという共通点があるのだ。

「ある日彼(ベートーヴェン)は言った。『もし私がパリに行ったら、あなたがたの皇帝に挨拶する義務はあるだろうか』。拝謁を命ぜられなければ、義務はないだろう、と私が断言すると、『では、命ずるとお思いですか』---『皇帝があなたの重要さを理解すれば、命ずることはまちがいありません。しかし、ケルビーニの場合でおわかりのように、皇帝は音楽をあまりご存知ではありません』---この質問から私が考えたのは、ナポレオンからなんらかの礼遇でも受ければ、彼はうれしがるだろう、ということであった」

アレグザンダー・ウィーロック・セイヤー「ベートーヴェンの生涯」上巻1809年の項〜
ドゥ・トレモン男爵(フランスの役人、音楽愛好家)の回顧録からの引用

しかし、それ以上にこの二人は同時代の作曲家として実際に交流のあった仲であり、個人的なやりとりに始まり本業の作曲に関しても双方で評価する関係にあった。ここではアレグザンダー・ウィーロック・セイヤーが残した偉業「ベートーヴェンの生涯」からこの二人の交流を紐解いてみたいと思う。

セイヤー「ベートーヴェンの生涯」上下巻(1971/75年 音楽之友社)

1805年ウィーン

「ごたごたしたスケッチ帳を、《レオノーレ》の秩序ある美しい総譜にととのえていく仕事は---彼(ベートーヴェン)がシンドラーに語ったところによると、輝かしい夏の日々に、シェーンブルンの木陰に腰かけながら労作したのであるが---そういう生活が妨げられたといえば、ケルビーニと最初に会ったときのことぐらいである。七月のあるとき---というのは、巨匠ケルビーニがヴィーンに到着したのは、この七月の五日以後」

アレグザンダー・ウィーロック・セイヤー「ベートーヴェンの生涯」上巻1805年の項〜
シンドラーへの聞き取りを交えたセイヤーの記述

ルイジ・ケルビーニはベートーヴェンより10歳年上の先輩作曲家であり、得意としたオペラ作品は1800年初頭のウィーンを席巻していた。セイヤーは1803年の出来事として宮廷劇場が相次いでケルビーニのオペラを舞台に掛けていたことを記している。

「三月二十三日にシカネーダーは、パリでなかなか好評を博していた、新しいオペラを上演した。それは「ケルビーニという人」が作曲した《ロドイスカ》という名前の作であった」
「宮廷劇場のほうも、同じ作曲家のもとに使いを出し、別のオペラ総譜を得て、《危険な日々(水運び人》という題の作を、八月十四日に上演する準備を進めた」
「宮廷劇場は、この新しい作曲家ケルビーニの作品中から《メデーア》を選んで、十一月六日に上演」

アレグザンダー・ウィーロック・セイヤー「ベートーヴェンの生涯」上巻1803年の項〜
セイヤーの記述
ケルビーニ:歌劇《ロドイスカ》
マリエッラ・デヴィーア
リッカルド・ムーティ指揮 ミラノ・スカラ座管弦楽団&合唱団(1991 SONY)
ケルビーニ:歌劇《メデア》
シルヴィア・シャシュ
ガルデッリ指揮ブタペスト交響楽団(1978 HUNGAROTON)

ウィーン楽壇を騒がせている先輩に対して、ベートーヴェンはライバル心を燃やしていたようで歌劇《レオノーレ》の初演に向けて勤しんでいた。

ケルビーニ自身の領域で対抗しようとする野心が、ベートーヴェンによるこの作の並みならぬ真価を、充分に説明するのであるが、またオペラ作曲の練習や経験に不足していることが、この作にいろいろの欠陥があることの説明になるのである

アレグザンダー・ウィーロック・セイヤー「ベートーヴェンの生涯」上巻1803年の項〜
セイヤーの記述

そこへケルビーノがウィーンのベートーヴェン宅に表敬訪問したのは歌劇《レオノーレ》初演された1805年の夏であった。

ケルビーニとベートーヴェンとフォーグラーは、ゾンライトナーの家に集まった。フォーグラーを先頭に、それぞれが続けざまに演奏し、とかくするうちに一同は食卓についた。ベートーヴェンはケルビーニに対し、あふれるばかりの注目と敬意を向けていた。

アレグザンダー・ウィーロック・セイヤー「ベートーヴェンの生涯」上巻1805年の項〜
グリルバルツァーがヤーンに宛てた通信から

先輩作曲家が見た楽聖


ルイージ・ケルビーニ(パリ音楽院院長時の肖像か?)

ケルビーニの音楽には、ベートーヴェンも二十年後に、自分が受けた消し難い印象を告白している

アレグザンダー・ウィーロック・セイヤー「ベートーヴェンの生涯」上巻1803年の項〜
セイヤーの記述

(1825年9月4日)昼食の席では、シュレジンガーの提案により、一同はゲーテとケルビーニの健康を願って乾杯した。
ケルビーニのために乾杯した際、ベートーヴェンが在世人のうちとりわけ賛美を寄せていたこの作曲家の彫像のことをもちだし、ベートーヴェンの好奇心をみたす機会とした。「ケルビーニはこのところ、レジォン・ドヌール勲章に加えて、政府から男爵の称号を授けられました。あの人はそれをほしがったわけでもないので、彼の才能が顕彰された証拠なのです」

アレグザンダー・ウィーロック・セイヤー「ベートーヴェンの生涯」下巻1825年の項〜
パリの出版社モーリツ・シュレージンガーからの聞き取り?

ある日ポッターは、「あなたご自身は別として、在世する最大の作曲家はだれですか」と尋ねた。ベートーヴェンはほんのしばらく迷ったふうにみえたが、それから大声で、「ケルビーニ」と言った。

アレグザンダー・ウィーロック・セイヤー「ベートーヴェンの生涯」下巻1817年の項〜
ベートーヴェンと面会したチプリアーニ・ポッター(イギリス人。ロンドンの王立音楽アカデミーの校長、指揮者、ピアニスト、作曲家)からの聞き取り

ベートーヴェンは1800年代初頭からケルビーニへの敬愛を周囲に漏らしていたことは、セイヤーの聞き取りから伺うことができる。
上掲の1817年発言、ケルビーニを指名しているのは楽聖の評価として最大級なのは言うまでもないだろう。

ではケルビーニはベートーヴェンに対してどのように評価していたのだろう。

カールが伯父に、ケルビーニをめぐる次のような意味の挿話を話したのも、この前後のことであった(シュレージンガーの訪問)つまり、なぜ四重奏曲を作曲しないのかと聞かれたとき、ケルビーニはこう答えたというのである。「もしベートーヴェンが四重奏曲を一つも書かなかったとしたら、自分は四重奏曲をいくつか作曲したことだろう。そんなことで、私はかけないのだよ」

アレグザンダー・ウィーロック・セイヤー「ベートーヴェンの生涯」下巻1825年の項〜
甥のカール・ベートーヴェンからの聞き取り?
実際にはケルビーニは6つの弦楽四重奏曲を残している。
ルイジ・ケルビーニ:弦楽四重奏曲全集(1-6番)
ハウスムジーク・ロンドン(CPO 2003)

一方でベートーヴェンの演奏や振る舞いについてこのような事を語っている。

「簡潔を旨とするケルビーニは、ベートーヴェンのピアノフォルテ演奏の性格を、ただ一語で『粗雑だ』と言った。」
「「ベートーヴェンがコップやコーヒー茶碗などのようなものを扱う場合の不器用さについて、いろいろ言ったわけであるが、これについて巨匠ケルビーニは寸評を加えていわく、『やはり粗雑なのさ---トゥジュール・ブリュスク』」

アレグザンダー・ウィーロック・セイヤー「ベートーヴェンの生涯」上巻1805-6年の項〜
1841年にクラーマーやケルビーニと話し合ったシンドラーの記録

「ベートーヴェンに会う機会を得ようと心にきめ、彼宛の手紙をくれるように、ケルビーニに頼んだ。その答は、『ハイドンへならお書きしましょう。あのりっぱな方は、あなたを歓迎するでしょうが、ベートーヴェンには書きたくありませんね。私が推挙する方に会うのを、彼が断ったとあっては、私の責任ですからね。あの男は無作法な熊だ』

アレグザンダー・ウィーロック・セイヤー「ベートーヴェンの生涯」上巻1809年の項〜
ドゥ・トレモン男爵(フランスの役人、音楽愛好家)の回顧録から

また1805年の7月の初対面でも双方の思いにすれ違いがあったようである。
ベートーヴェン側は上述の通り歓待したとあるが、ケルビーニは違ったようである。

「ケルビーニがのちのちチェルニーに不満を述べたことによると、ベートーヴェンは一八〇五年に、ケルビーニを親しく招待はしなかった」

アレグザンダー・ウィーロック・セイヤー「ベートーヴェンの生涯」上巻1805年の項〜
チェルニーのヤーンに語った証言

ここから読み取れるのは、ベートーヴェンのやや粗暴な性格とは合わなかったようだが、その才能は高く評価していたようである。
以下の記述は、剽窃家として今や名高いシンドラーも信憑性を疑っているのだが、1825年(初対面から20年そしてベートーヴェン死去の2年前)のケルビーニの発言を敢えて挙げておこう。

(9月4日にベートーヴェンを訪ねた際に)ケルビーニがパリ音楽院で門下生たちに、「これまで在世したり、これからも在世する最も偉大な音楽精神の所有者は、ベートーヴェンとモーツァルトだ」と述べた

アレグザンダー・ウィーロック・セイヤー「ベートーヴェンの生涯」下巻1825年の項〜
会話帳からの引用?
シンドラーはそんな発言があったのかと疑念を余白に記す(セイヤー註)

死の別れ、そして葬送

2024年、ベートーヴェン研究で名高い大崎滋生氏の新著「史料で読み解くベートーヴェン」(春秋社)が刊行された。

大崎滋生《史料で読み解くベートーヴェン》(2024 春秋社)

氏は常に新たな視点で刺激的なベートーヴェン像を提示してきたが、今回の著でも例えば《英雄》交響曲の真意に関して、史料の読み直しによって従来のイメージを覆してしまった!
ご存知《英雄》交響曲はナポレオンに捧げるべく書いた曲だが、1804年の皇帝戴冠の報を聞いて「あの男も所詮は平凡な人間に過ぎなかったのだ」と言って自筆スコアの表紙を破ったという弟子の作曲家リースの証言によって、世の人はナポレオンに対して絶望したと受け止めた。

しかし大崎氏の説によると、ベートーヴェンはナポレオンの皇帝戴冠を否定しておらず(リース証言の信憑性を疑う)、表紙の文字を抹消した筆写清書譜(現存)は初演前の試演とその場所を提供してくれたロブコヴィッツ候爵に配慮して慌てて抹消したものであり、1806年ナポレオン賛美として《英雄》の出版を企画したが、ナポレオン軍ウィーン占領下(ウィーンにとってナポレオンは敵)を考慮して出版はナポレオンに関して言及なしで出版。そしてそのまま作曲家は死を迎えて「言及なしのスコア」は世に広められたが、不確かな証言と文字が抹消された楽譜が一人歩きして、図らずもベートーヴェンの真意は隠されたままになった。
ということは「ナポレオンに絶望してなかった」ことになる。

ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調《英雄》筆写清書譜の表紙
「ポナパルト」の字と献辞の字がかき消されている。

《英雄》の呼び名は、ナポレオンを想定した交響曲と承知しながらも「独裁の否定」も帯びているという後世の誤解?とベートーヴェンが死ぬまで心の中にあった「英雄称揚」という真逆のダブルミーニングを帯びることになるのか?

仮に大崎氏の説に沿うならば、両作曲家のナポレオンに対する感情は異なるものだったのだろう。ベートーヴェンは政治的な関心が強かったように思えるが、ケルビーニの場合はナポレオンの音楽に関する趣味の相違があったのである。

ナポレオンが第一執政になる以前、彼はケルビーニと親しい間柄だった。軍人と作曲家は同じボックス席に座り、ケルビーニの作曲したオペラを聴いていた。優雅で官能的なイタリア風の音楽を好むナポレオンは、ケルビーニの方を向いてこう言った。「親愛なるケルビーニよ、あなたは確かに優れた音楽家だ。しかし、正直なところあなたの音楽はあまりにも騒々しく複雑すぎて私にはさっぱり理解できない」と。これに対し、ケルビーニはこう答えた。「親愛なる将軍よ、あなたは確かに優れた軍人だ。しかし、音楽に関しては私の音楽をあなたの理解に合わせて調整する必要はないと私は考えている。その点についてはどうかお許しいただきたい」この高慢な返答が、二人の疎遠の始まりとなった。

ジョージ・T・フェリス著「偉大なイタリアとフランスの作曲家」〜



ともあれ、ベートーヴェンはケルビーニを敬愛し続けたのである。

ヨーゼフシュタット劇場の隣にある料理店にそなえつけられた音楽時計が、ケルビーニの《メデア》序曲を奏するのに耳をかたむけるのが、ベートーヴェンの楽しみであった。

アレグザンダー・ウィーロック・セイヤー「ベートーヴェンの生涯」下巻1822年の項〜
シンドラーからの聞き取り(当時左耳はかろうじて聴ける状態だった)


そしてケルビーニもベートーヴェンの才能を認めていた。

1825年11月29日にベートーヴェンは楽友協会の理事会により、同協会の名誉会員15人中の1人に選出された。その理事会にはケルビーニ、スポンティーニ、シュポーア、カーテル、ヴァイグルがいた。

アレグザンダー・ウィーロック・セイヤー「ベートーヴェンの生涯」下巻1825年の項〜
セイヤーの記述

だがベートーヴェンの体は次第に病魔に蝕まれていた。
いかなる偶然なのか、彼にも《レクイエム》の作曲が舞い込んでくるのである。

1820年代の初め頃に、(シュパンツィク四重奏団の有力なパトロンの一人でもあった)ヴォルフマイヤーは自分のためにベートーヴェンがレクイエムを作曲をしてくれないかと依頼し、謝礼の前金として1000フロリンを支払った。

アレグザンダー・ウィーロック・セイヤー「ベートーヴェンの生涯」下巻1826年の項〜
セイヤーの記述

当初は《レクイエム》の作曲に否定だったベートーヴェンだったが、1826年の回顧としてシュパンツィク四重奏団の奏者ホルツは以下のような思い出を語っている。

ホルツの言によると、ベートーヴェンは(レクイエムを)作曲したいと固く決心し、この件に話がふれると、死者のためのミサとしては、モーツァルトよりケルビーニの作のほうが気に入っていると語ったそうである。ベートーヴェンの言葉として、レクイエムというのは死者の記念であるから、終末のトランペットとか、審判の日の喧噪などないほうがよい、とのことであった。

アレグザンダー・ウィーロック・セイヤー「ベートーヴェンの生涯」下巻1826年の項〜
ホルツからの聞き取り

ベートーヴェンは「もしレクイエムを書けと言われたら、ケルビーニの曲だけを手本にしただろう」といったという

井上太郎「レクイエムの歴史 死と音楽との対話」(2013 河出書房新社)より
マーティン・パールマン指揮 ケルビーニ:ハ短調レクイエム パールマン自身のライナノーツより
共に同様の記述あり。ただし両者とも上記発言の出典を明らかにしていない。
ルイジ・ケルビーニ:ハ短調レクイエム他
マーティン・パールマン指揮、ボストン・バロック(TELARC 2007)

ケルビーニのハ短調レクイエムはナポレオンが倒れて王政復古がなされた1816年ルイ18世の命により、革命に倒れたルイ16世の追悼式典のために作曲された。この作品は「19世紀のパレストリーナ」と呼ばれるように中世ルネサンス期への傾倒が見られるが、一方で「怒りの日」では銅鑼が鳴り響きトランペットは威嚇的に吹奏するなどベートーヴェンの感想とは異なる「喧騒」はある。
何よりもこれは王政を懐かしむ挽歌であり、かつて革命を支持していたベートーヴェンには苦々しく思う作品であるはずだ。
しかし彼は作品を正当に認めた。

モーツァルトのレクイエムよりケルビーニのそれを高く評価した。そして彼に続くベルリオーズ、シューマン、ブラームスといった大作曲家もこれを高く評価したことを考慮すると、ベートーヴェンの「発見」は敬意以上に作品を見極めた目があったということである。


ベートーヴェンとケルビーニは、1825年11月開催のウィーン楽友協会の理事会にケルビーニが出席していたとすれば、それが今生の別れとなったのだろうか。

ベートーヴェンは1827年3月26日に死去。
彼の葬儀は29日にウィーンの三位一体教会(現存)にて壮大に執り行われた。そしてそこから1週間後の4月5日、再びベートーベンを悼む儀式が行われた。


4月5日にはカール教会で重ねて儀式が行われ、ケルビーニの《レクイエム》が演奏された。

アレグザンダー・ウィーロック・セイヤー「ベートーヴェンの生涯」下巻1827年の項〜
セイヤーの記述



ベートーヴェン没後200年を前にした2026年9月にて。了


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