豆乳鍋【創作】
豆乳鍋はことことと煮えていた。白だしの香りが、豆乳と混ざる。食卓には、ぼくと妹の萌、お母さん、そしてよく知らない男の人がいた。
出来上がりが、にごってわからない。そんなに気にしなくても、食べられるのだろうとは思うけれど。
少なくともお母さんは、昔から気にした。牛肉はまだしも、豚肉とかしわはよく火を通さなきゃって、よく言ってた。
でも最近、よくご飯を一緒に食べることになったあの男の人は、そんなことはあまり気にしていないようだった。
「かしわ」が鶏肉のことだっていうことも、ぼくが教えてあげて知ったふうだった。
「へえ。こっちではそういう風に言うんだね。」
あの男の人は、そう言って、笑っていた。何がおかしいのかは、わからなかった。ぼくは、どんな人か知りたくて、その男の人にいろいろ質問した。
意外と物知りなだけでなく、小学生の間で流行っているものなんかも知っていて、侮れないと思った。
萌の方は、黙って箸を動かしていた。
* * *
「私のお父さんはひとりだけだもん!」
萌は、母に泣いてすがった。あの男の人が、帰ったあとだった。
ぼくは別に、そこまでカンショウ的にはならなかったけど、よその人が急に自分の家族になると言われて、戸惑う気持ちはよくわかった。
食卓には、豆乳のパックが出たままだった。
萌は豆乳鍋は食べるけれど、豆乳は飲まない。萌が豆乳のことを、「ニセモノの牛乳」と呼んでいたことを思い出す。
なんとなく、その言い分はわかる。ぼくは牛乳も豆乳も飲むけれど、血がつながっているから、考え方も似ているのかもしれない。
お母さんは萌を抱きしめて、困ったような顔を浮かべていた。
豆乳鍋は、この家でよく食べた「家族の味」だった。お父さんとお母さんが、ふたりで暮らしていたころからよく食べていたらしい。そこにぼくが生まれて、そのあと妹も生まれた。
その味を、知らない人と混ざって食べるのが、萌には耐えられなかったのかもしれない。
ぼくは、お母さんと妹を交互に見ながら、写真の中にいるお父さんを見つめていた。萌はかわいげのないところもある。けれど、お父さんはよく言っていた。
「春はお兄ちゃんなんだから、なにかあったら萌を守ってやってくれな」と。
「なにかあったら」の「なにか」は、いつのどんなことなんだろうと、ぼくは思い出すたびに考えてしまう。
* * *
お母さんの話し声がやんだ。電話を切ったらしい。なんとなくそのタイミングで、ぼくはトイレに向かった。
部屋に戻るとき、扉から出てくるお母さんとはち合わせた。
お母さんの顔は、どこか疲れていた。目を少し逸らしてから、小さな声で聞いた。
「……あの子は寝た?」
萌は、泣き疲れて眠っていた。
「……うん。」
お母さんは空になった豆乳のパックを片づけようとして、手に取った。ぼくはそれを見て、なんとなく言った。
「それさ。萌、ニセモノの牛乳って言ってた。」
お母さんは笑った。
「私も、子どものころそう思ってた。」
少しだけ笑って、それから続けた。
「でもね。豆乳って、別に牛乳の真似してるわけじゃないんだよ。」
「え?」
「大豆をしぼると、できるでしょう。あれはあれで、ちゃんとした豆のお乳。」
ぼくはお母さんから手渡されて、パックを見た。
「調製豆乳」。
そう書いてある。
「……だからね。」
そこまで言って、お母さんは続きを飲みこんだ。言わないほうがいいと思ったのかもしれない。ぼくも聞かなかった。
手に持った豆乳のパックを見ていた。
萌はそのままじゃ飲まないけど、鍋になるとちゃんと食べる。豆乳を好きになった、と言っていいかはわからないけど。
居間には、お父さんの写真がある。
豆乳鍋の匂いは、部屋からもう消えていた。
いいなと思ったら応援しよう!
書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。