i【創作】
「IT・情報機器まわり」。
そんな雑な呼ばれ方をしていた業界だった。俺は、企業向けのシステムや、ネットワーク機器などを取り扱う会社で働いていた。
ラックマウント型のサーバ。自社で作った筐体に、某企業のボードを積んでアレンジした機器がヒットし、一時はかなり売り上げた。
機器を組み立てながら、いつも思っていた。自社サーバに割り振られるシリアル番号のことだ。
それは必ず「TI+数字8桁」という文字列で構成されていた。社名由来だから仕方ないとはいえ、二文字目の縦棒が大文字の"I"なのか、小文字の"L"なのかが見た目で判別できない。
ホームページでシリアルを入力すれば機器の型番や保証期間が確認できるようになっているが、サポート宛てにも「IかLかが分かりづらい」という意見は相当数あったようだ。
その紛らわしい文字列は、動作確認した機器を収めた箱にも印字されている。
それが、俺はいつも気になっていた。
その後、会社は大手に吸収合併された。社名が変わり、社用メールアドレスに使うドメインも変わることになったと聞いた。
そして、どの取引先でも聞いたことがないような肩書が与えられそうになったタイミングで。俺は、その企業を辞めてフリーランスになった。
勤務を続けても、どうせ長らく親しんだアットマークの向こう側は、もうない。独立の好機とばかりに、仕事用に新しいメールアドレスも作った。
* * *
身体は疲れているのに、日々の晩酌の時間は取れていた。付きまとっていたのは、目が回るというほどでもない、嫌な忙しさだった。
しかし、その知らせに気づけなかったのは、迂闊だった。
某雑誌社からの依頼は、FAXで来ていた。
かつて、IT関連の記事や解説を書いてほしいと依頼され執筆したことがあった。その仕事をきっかけに、雑誌社の担当者とは面識がある。
前の勤め先の名刺には趣味・特技の一文があって、担当者はそこを面白いと俺の名を覚えていてくれたそうだ。
思えば、最近巡ってくる仕事のほとんどは、前職のつてによるものだった。あの予定調和じみた紙の交換の儀式にも意味があったのだと、かつての勤め先に感謝せざるを得なかった。
誤算だったのは、その雑誌社に新しいアドレスを伝え損ねており、担当者側が持っていたアドレスが古かったことだ。古いアドレスは、以前の会社のもの。当然今の俺には、アクセスできない。
FAXの冒頭に、メールにお返事がなかったので、と記載があった。返信がなかったため、しびれを切らしてFAXで連絡をしてくれたということらしい。
メールを確認できなかったのだから当然だが、長い間、返事もせずに放置してしまっていた。
さらにFAXにも気づくのが遅れたものだから、記載された「四月号掲載のための執筆依頼の締切」は、とうの昔に過ぎている。
やれやれ、と思った。
今の仕事場、というより自宅にFAXがあるのは、前向きな選択ではなかった。ただ、捨てようとして忘れていた結果、使い続けているだけだった。
ほとんど使っておらず、たまに鳴ると「ああ、まだ生きていたんだな」と思う。吐き出されて床に落ちたメッセージも、さほどうれしくないものばかり。
紙が出ていることに気づかないまま、ようやく床を片付けていて見つけた。
締切の過ぎた、執筆依頼。
こんなところに来ていたのか、と思う。
雑誌社の名前だけでは、担当者の顔は思い出せなかった。依頼書に書かれた担当者のメールアドレスで、なんとなく記憶が結びつく。
名刺にも載せた覚えのない、自宅FAXの番号を相手が知っている理由も、遅れて思い出した。前の執筆依頼があったとき。あのときも、迷惑をかけたのだ。こちらの都合で、校閲用本文ゲラ刷りの送付が遅れて。
書いた文章より、そんなやりとりばかりが記憶に残っている。
メールで、返事をしよう。
かすれて、読みにくいFAXだった。これでは、スマホ撮影で画像にしてもOCRで正確に文字に起こせるかも怪しい。
コピー&ペーストもできない、その十数文字の文字列を、仕方なく手打ちでタイプした。
一文字ずつ。
d。l。a。……。
ここでの"l"は、小文字のLだ。
打ち終えて、ようやく送信する。期限の過ぎた依頼。コピペできないメールアドレス。
ざっとメール文面をチェックする。
忙しいのを理由に、丁重に断りを入れる内容の文面だった。迷って、また次回があれば是非お願いします、と添えた。
相変わらず、無視して返事を返せないほど身体が動かないわけでもない。そして、次の仕事につながるかもしれない関わりを自ら断つほど愚かでもなかった。
送信をクリックした後、受信ボックスにメールが一通来ていることに気づく。まさか、返事がそんなに早く来るわけもない。
Mail delivery failed.
したためたメールは、宛先不明で戻ってきた。
俺は頭を掻き、手打ちはこれだから、と再度FAXの紙を手元に引き戻した。一文字ずつ、画面と交互に見比べて間違いを探す。
間違いは、なかった。
どう見ても、FAXに記載の通りメールアドレスをタイプしてある。
* * *
ここまで来たら、意地でも返事をしてやろうと思った。
スマホで雑誌社の代表番号に直接電話をする。FAXに記載の数字はあっさりと通り、雑誌名と担当者名を伝えて取り次いでもらった。
担当者が出る。声を聞くと、より前の仕事での記憶が輪郭をもった。名刺代わりに、お世話になります、の言葉を交換する。
「あの、FAXでご依頼いただいた件なんですが。」
「ああ、届きましたか。よかった。」
「いやあ……気づくのが遅くなってしまって。」
大体の落ち度は、こちらにあった。新しいアドレスを伝えられていなかったのも、FAXに気づけなかったのも。
「締切、だいぶ過ぎちゃってますよね。すみません。……それで、メールでお返事しようとしたんですが、戻ってきてしまって。」
記憶の中の担当者が、眉をひそめる。
「おかしいですね。FAXに記載のメールアドレスは、間違っていないようですが。」
「そうですか? アットマークのあと、ディー、エル、エー……と続くアドレスですよね。」
「あ。二文字目は、エルじゃなくてアイになります。」
エルじゃなくて、アイ。
俺はもう一度FAXに顔を近づける。どう見ても、「l」であり、「i」には見えない。縦棒は、つながっている。しかし、よく見ると上部が少しくぼんでいるような気もした。
「……FAXの印字のせいですかね。」
先方からの声を聞いて、我に返る。釈然としないが、どうやらこれは、アイらしい。俺は目を何度かしばたたせたあと、電話に意識を戻した。
「……今からだと、四月号にはもう間に合いませんもんね。」
「いえ、構いませんよ。お引き受けいただけるなら、まだ次の号がありますので。」
担当者は少し間を置いて、言葉を続けた。
「受けていただけますか。」
一度床に落ちた依頼そのものは、まだ消えていなかった。
「……正しいメールアドレスへ、あらためてお返事します。」
そう言って、スマホを置いた。机の上にFAXを丁寧に置いて、ため息をひとつこぼす。
俺は、紙に残された「i」の部分だけをじっと見つめていた。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。