半分【創作】
フェンスは思ったより低かった。
先に登ったのは紗苗だ。華麗な着地に、ポイントをあげたくなる。向こう側で、小さく手を振っている。明るすぎない月の光が、彼女の身体を半分照らす。
「やっこ、早く。」
私も鞄を投げてから、フェンスをよじ登る。靴の裏がこすれて、乾いた声で金網が鳴いた。
夜の学校は、昼と形が同じなのに、別の場所みたいだった。窓は黒くて、廊下の電気も消えている。
私たちは話すとき、思わず声をひそめた。
ここでは木と建物に阻まれて、月の光は陰の向こうに追いやられていた。街灯を映して、プールの水はちらちらと細かく光っている。
「思ってたより、きれいかも。」
「ちょっと。見るだけじゃなかったの。」
私が言うと、紗苗は肩をすくめた。
「せっかく来たんだから。」
一緒に靴を脱ぐ。私はスカートの裾を少しだけ持ち上げた。少し離れて並び、コンクリートの縁に座る。外の空気は生ぬるいのに、足先を水につけると、思ったより冷たかった。
しばらくふたりとも黙っていた。水の匂いがする。塩素の、いつもの匂い。
「来年だよね。」
水面を見たまま、紗苗が言った。
「男子、来るの。」
私は紗苗の横顔を見ながら、うなずいた。
学校が統合される。今の女子校は、来年から共学になる。先生は「いい変化です」みたいなことを言っていた。実際、喜んでいる子たちもいた。
でも、私と紗苗は……。それを聞いたとき。
──ああ。中学生活も、これで終わりか。
と、そう思った。思うだけの、理由があった。
私は家庭環境で。紗苗は小学校時代の交友関係で。
「なんかさ。」
紗苗が足で水をかき回す。
「とられちゃう感じ。」
少しだけ反響して重なる声。
「学校。」
彼女の足元で広がる波は、私に届く前に消えた。私は少し考えてから言う。
「半分も。とられちゃうんだね。」
言ってから、変な言い方だと思った。でも紗苗は笑わなかった。
「だね。」
しばらくしてから言った。プールを見た。昼間ここで泳ぐとき、いつも女子しかいなかった。声も、笑い方も、全部同じ種類のものだった。
来年からは違う。きっと違う。
混ざる。違うものが。今までに、なかったものが。
「男子と一緒なんてさ。」
紗苗が言う。
「もうここで……泳ぎたくないよ。」
私はうなずいた。理由は、うまく言えないけど。でも、なんとなく分かる。足はもう、冷たさに慣れて感覚がなくなっていた。
紗苗が立ち上がった。
「入ろ。」
「服のまま?」
「どうせ怒られるんだし。」
それもそうか、と思った。
ふたりで端に立つ。水面が静かに揺れている。
「せーの。」
同時に飛び込んだ。水は冷たくて、息が止まった。ひと潜りして、上がる。
夜のプールは音が変だった。水の音だけが大きく響く。紗苗が笑っている。
「やば。さむ!」
水の中は静かだった。耳がくぐもって、外の音が遠くなる。
私は腕を伸ばして、水をかく。重くなったスカートが足にまとわりついて、不格好な泳ぎだった。どうせ、今は誰にも見られていない。
次に私は、背泳ぎの格好で浮いた。空は暗くて、星はあまり見えない。スイミングに通っていたときの、高い天井を思い出していた。
このプールも、来年から半分になる。
そう思うと、急に変な気持ちになった。別にもともと、誰かのものだったわけじゃないのに。
でも、ここはずっと、女子だけだった。それが普通だった。
水の上で、紗苗が言う。
「やっこ。」
「うん?」
浮いたまま、言葉を交わす。
「……また来年、プール来よう。」
「泳ぐの? 男子いるよ。」
「だから。夜に、やってきてさ。」
紗苗は立っていた。少し深めのところで、顔だけ出して。彼女は、プール脇の小さな建物を見ている。昼間はいつも、ポンプの音がそこから聞こえていた。
「あそこの機械室、普段は鍵かかってんだけど、なんとかしてさ。
──ここの水、抜いてやろうよ。」
怒られるだけじゃすまなそうなこと言う。優等生ぶるのに疲れていた私は、「それもいいかもね」と笑った。
足をゆっくり動かすと、水が静かに割れる。来年、ここで泳ぐことは、たぶんもう──。
私はもう一度、水の中に潜る。目を開けると、プールの底の白い線がまっすぐ伸びていた。
ここはまだ、女子だけのプールだった。
※以下は関連作品になります。
いいなと思ったら応援しよう!
書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。