裏メニュー【せりふ三題噺 / 青信号激辛カレー消印】
駆け抜ける景色は、冬の茶色から新緑に変わりつつあった。四月の風が、ガソリンとアスファルトの匂いと一緒に、太ももを震わせて立ちのぼってくる。
ようやく手に入れたバイクに跨って、あたしは妹からの電話を思い返していた。
「忍クン、私の職場のそばの店で働いてるんだって。」
別にあたしもあいつも、時計が止まったわけじゃあない。変わらず動いているのをあらためて意識させられたような、そんな季節。
世界は狭くて、嫌になる。いくら景色に緑が増えても、何者にでもなれると信じて疑わなかった日々は戻らない。
自由の二文字は、色あせていった。あたしの人生から、意外なほど早く。
忍とは、ちょっと変わった関係性だったかもしれない。間違いなく友達だけど、もう十年は会っていない。あたしはあたしで、初めて会ったとき以外は忍のことを格好いいと思わなかったし、あいつはあいつで、たぶんもっと胸の小さい女の方が好みだった。
忍は大学生で、あたしはあのころもう働いていた。曲を作るための部屋をあいつに提供する代わりに、あたしは妹の学費を出すために夜も働きに出ていた。
根本から違った。たとえばあたしはカードゲームで手札をもっと欲しがったけど、あいつは配られていないカードで勝負するのが許せない男だった。
あるとき、忍が近所で美味い店を教えてくれることになった。あたしが辛いものがダメなことを知っているのに、着いたのは激辛カレーで有名な店だった。当然、怒った。でも席に着いてから、あたし好みの裏メニューがあることを知らされた。
そんな、大事にされているようで、適当な関係だった。だからこそ男女の関係にはならなかったのかもしれない。忍はあたしが仕事から帰ると家にいて、ノートを開きながらギターを弾いたり、あたしが散らかした洗濯物を畳んだりしていた。妹とも仲は良かったと思うが、妹曰く忍はあたしとの方がよく喋ったそうだ。
なんだか、あいつらしいなと思う。
坂を下る景色の中で、人と車の流れが変わった。ふつふつというマフラーの排気音が耳を抜ける。
ギター、どんな音だったっけ。
このあたりからは、初めての道になる。今の妹の職場は、あたしの生活圏から少し離れている。
忍と連絡がつかなくなったのは、あのあとだった。彼も大学卒業を控えていたし、あたしもちょっとしたトラブルがあって勤務先が変わろうとしていたころ。
「一回くらい、なんか応募してみようよ。」
あの休日。あたしの書いた詞と、忍の曲で、合作でコンテストに応募しようという話になった。別にプロを目指していたわけじゃない。その後の人生の、ちょっとした語り草にしたかっただけだ。
「いいね、やってみよう。」
忍もそう言った。そのあとあたしのローライズをちらっと見て、尻を出すなと苦言を呈した。
それからあたしは最後の最後まで、歌詞の一行にこだわって直し続けた。忍はギターを鳴らして、妹はフレーズを口ずさんでいた。
でも、忍が応募フォームや郵送手続きが大の苦手だったなんて、そのときは知る由もなくて。結局あいつとあたしの間には、募集要項の「〇〇日まで消印有効」の赤い文字だけが残った。
歌詞の最後の一行。「私のともだち」というフレーズを入れるかどうかを、いつまでも決めかねていたあたしにも責任はあったと思う。
それっきり、会っていない。十年間。
喧嘩したわけでもないのに、生活環境が全員少しずつ移り変わって、メールもつながらなくなった。
信号待ちで、ヘルメットの中にエンジン音だけが響いてくる。妹が電話で言っていた、最後のセリフを思い出して、口元がゆるんだ。
「あ、お姉ちゃん。」
「なに。」
「忍クン、『謝っておいてくれ』って。」
「……なんのこと?」
出しても届かなかった封筒。連絡のつかなかった十年間。思い当たることはいくつもあった。けれどどれも、あたしからも、あいつからも、謝るようなことではない気がした。
「私にはよくわからないんだけど。」
妹はそう前置いて、言った。
「『カレーの店、悪かった』って。」
そっちかよ。
交差点の名前を見る。妹の職場を聞いて知った地名。忍の働く店も近い。小さな飲み屋で、楽器が置いてあると聞いていた。
青信号。クラッチを握って、一速に落とす。
右手をひねって、アクセルを開けた。車体が一度だけ沈んで、それから前へ出る。音が、景色に溶けていく。
今日だけは、行き先が決まっているのも悪くないと思えた。
※以下の企画に参加させていただきました。
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