ポケットのシール【創作】
私は中高一貫の私立に通っていた。その卒業式の日にもらった賞状は、もうどこにあるのか思い出せない。
丸めて押し入れのどこかに入れた気もするし、引っ越しの段ボールに紛れたままかもしれない。皆勤特別賞、と墨の濃い字で書かれていたことだけは覚えている。
それは中高六年間、無欠席だった生徒に贈られる賞だった。
受賞者の数はクラスでひとりいるかどうか、くらい。
就活のときの履歴書にも書いたし、人からは「すごいね」「頑張ったね」と褒められた。
でも私は、最初からそれを狙っていたわけじゃなかった。
母に言われたのだ。
「休むときは自分で学校に連絡しなさいね」と。
私は電話が嫌いだった。
受話器の向こうで名前を名乗ることも、休みますと言うことも、理由を聞かれるかもしれないことも全部嫌だった。
だから、少し熱があっても行った。お腹が痛くて辛い日も。
行けば、電話をしなくて済んだから。
六年間休まなかったのは、ただの結果だった。偉いことをした感じは正直ないし、意識して積み上げていった感覚もなかった。
皆勤特別賞の賞品でもらった万年筆は、たぶんもうない。引っ越しのとき、インクが固まっているのを見て捨てた気がする。
* * *
大学を出て、幼稚園で働くようになった。
すると、百円ショップがより身近な店になった。
画用紙、折り紙、毛糸にビーズ。プラスチックの飾りに、コルクのボード。
大きい店ほど助かった。年度の変わり目や行事前は、必要なものがいつのまにか消える。
運動会の前には赤白帽のゴムがなくなるし、クリスマス会の前には金色の折り紙がなくなった。
店内で、同業と思しき客を見かけることも多い。早い者勝ちだった。
勤務が終わったあとに、家で工作することにも慣れた。はさみとのりを机に広げて、動画を流したまま手を動かす。私の場合は、趣味の延長みたいなものだと思えば耐えられた。
でも、こういうのを「当たり前」にしている社会は、たぶん少し間違っている。無理をしたことが、そのまま美談に成り代わる仕組み。
休まなかったこととか、持ち帰った仕事とか。そういうもの。
私は明日の私のために、仕方なく手を動かしていた。
* * *
ある日、百円ショップでシールを見つけた。
動物の顔がついた、小さくて丸いシールが何百枚も入っているセットだった。
かわいかった。私はたまに、自分が好きなものに出会って仕事だということを一瞬忘れることがある。
何かに使える気がして、三袋買った。
翌週、思いつきで参加カードを作った。行事の練習や活動に参加できた子に、一枚ずつ貼ることを説明した。
できたところに、好きな動物を選んで貼る。
うさぎ、くま、ぞう。
子どもたちは喜んだ。パンダのシールばかりを欲しがる子。とにかく種類を集めたい子。いろんな子がいた。
今まで後ろで見ているだけだった子が、自分から輪に入るようになった。きっかけは「シールがほしいから」だったかもしれない。でも、理由はなんでもよかった。
参加できたことが大事だった。
ほかの先生にも聞かれた。
「これ、真似していい?」
もちろんです、と答えた。
隣のクラスの先生が真似して、そのうち年少のクラスにも広がった。気づけばそれは、園全体に広がっていた。
やりたいことが仕組みになって、他へ広がる。それがなんだか、くすぐったかった。
カードを首から下げて歩く子もいたし、シールで埋まった台紙を、誇らしそうに見せてくる子もいた。
いいことだと思っていた。
* * *
けれど、困ったことが起きた。
ある日、園を休んだ子がいた。
翌日、その子は空白のままのマスを見て泣いた。昨日もらえるはずだったシールがない。熱心に参加してくれていた子で、その一枚がないだけだった。
私は、代わりに貼ってあげようか迷った。
でも昨日は参加していない。
ルールが曖昧になる、と思ってやめた。その子は机に顔を伏せていつまでも泣いていた。
涙と鼻水がカードについて、シールの端が少しふやけた。
* * *
後日、その子のお母さんと話す機会があった。
彼女は申し訳なさそうな顔をしていた。
「責めるわけじゃないんです。」
お母さんはそう、最初に言った。
「家の事情で休ませたんです。でも、あの子、すごく気にしていて。休んだ日も、シールがもらえないって、ずっと言っていて……。」
まともな人だった。だから余計につらかった。
私は、謝った。
そのあと職員会議で話し合いがあった。シールを楽しみにして登園を渋らなくなった子もいた反面、休んだときの落差が大きい、という話になった。
そうして、シールの制度はなくなった。
なくなるのは早かった。始まるときより、ずっと簡単だった。
* * *
余ったシールは机の引き出しに入っている。動物たちが透明な袋の中で笑っている。
帰り道、いつもの百円ショップに寄った。かごを持ったけれど、何も入れなかった。レジ横まで行って、そのままかごを戻す。
外に出ると、スマホが震えた。信号待ちのタイミングだった。
通知は、健康アプリからだ。
──今日中に記録してください。連続記録がリセットされます!
画面の上に、数字が出ていた。
連続三百六十四日。
私は立ち止まった。
ログインすればいいだけだった。タップするのに、一秒もかからない。
そうすれば数字は続いていく。
でも、続けて何になるんだろうと思った。健康になりたいんだろうか。数字が消えるのが怖いだけなんだろうか。
わからない。
こんなに毎日続けているのに。
信号が変わって、鳥の声をした音が鳴る。人が数人、前を流れていく。
私はスマホを握ったまま動かなかった。どん、と肩をおじさんにぶつけられて、一瞬身体がよろめく。でも、私の視線はそのままだった。
スマホをしまうとき、上着のポケットの底で何かに触れる。いつ入ったのかわからない丸いシールが一枚あった。
少しだけへこんでいて、動物の顔が歪んでいた。私はそれを戻そうと、しわの部分を伸ばすように押した。
青が点滅して消えかけているのに、私はまだ渡れなかった。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。