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なぜ「姨捨」という地名が残ったのか? 姥捨山を追うと、千曲市の月にたどり着いた【長野県千曲市】

夜の山道を、若い男が歩いています。

背には、年老いた女性を背負っています。

女性は、自分がどこへ連れて行かれるのか、すでに知っています。

山へ、捨てられるためです。

山の稜線の向こうに、大きな満月が昇っています。

冷たく、少し不気味にも見える光です。

背負われた女性の影が、月明かりの中で、長く伸びています。

男の足音だけが、山道に響いています。

「姥捨山」という言葉を、聞いたことがあると思います。

現代でも、高齢者自身が、冗談まじりに口にすることがあるほど、よく知られた言葉です。

そして、驚くことに、長野県千曲市には、今も「姨捨」という地名が実在します。

その近くには、古くから姨捨山と結び付けられてきた、冠着山という山もあります。

棚田が広がり、駅があり、寺があり、地図の上に、はっきりとその名前が記されています。

高速道路のパーキングエリアにも、「姨捨」の看板が立っています。

その名前を、初めて目にする人は、少し足を止めてしまうかもしれません。

老人を、山へ捨てる場所。

その言葉だけが、独り歩きしてきたような地名です。

では、ここは本当に、老人を山へ捨てていた場所なのでしょうか。

こんにちは。

『耳で旅する日本』へようこそ。

このチャンネルでは、日本各地の風景や歴史、

そして、その土地が今の姿になった理由を、

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今日は、長野県千曲市、姨捨を訪ねます。

「姥捨山」と聞いて、多くの人が思い浮かべるのは、こういうイメージだと思います。

六十歳になれば、老人を山へ捨てる。

殿様が、そう命じた。

飢えの中で、口減らしのために、老人を山へ連れていく。

後世の昔話や文学作品を通じて、多くの人が、こうしたイメージを抱いてきました。

そうした積み重ねもあって、「姥捨山」という言葉には、実際に起きた歴史的な出来事であるかのような、重みが宿っています。

けれど、その重みと、実際に千曲市で何が起きたのかは、いったん切り離して考える必要があります。

千曲市、そして姨捨が含まれる更級という地域について、記録を探してみます。

一定の年齢に達した高齢者を山へ遺棄することを定めた行政文書。

領主が棄老を命じたという記録。

村の掟として、そうした慣習があったことを示す史料。

集団的な遺棄をうかがわせる、考古学的な痕跡。

現在確認できる公的資料や古典・研究案内の範囲では、そうした制度や慣習を裏付ける確かな史料は、見当たりません。

ただし、ここで急いで、「だから、一人も捨てられたことはなかった」と言い切ることも、正確ではありません。

正確に言えるのは、こういうことです。

千曲市・姨捨において、高齢者を山へ遺棄する制度や慣習があったことを示す確かな史料は、確認できない。

史料が残っていないことと、個々の出来事が絶対に一度もなかったこと、このふたつは、別の話です。

この土地には、まだ答えが出ていない部分が、残されています。

日本各地には、姥捨てにまつわる昔話が、いくつもの型で伝わっています。

そのひとつを、紹介します。

老いた者を、山へ連れていく場面から始まる話です。

背に負われながら、その老人は、道々、木の枝を折っていきます。

なぜそんなことをするのか、と聞かれ、老人はこう答えます。

「お前が、帰り道に迷わないように」

自分を捨てようとしている、その子のことを、それでも案じてしまう。

そういう感情だけを、静かに描いた話です。

ただし、この話は、このあと触れる平安時代の物語、その内容そのものではありません。

後の時代に、広く語り継がれた民話の、ひとつの型として、伝わっているものです。

棄老を命じる支配者、老人を隠して養う子、そして老人の知恵で難題を解く。

こうした要素を持つ昔話が、各地に伝わっています。

灰の縄は、その代表的な難題のひとつです。

縄を塩水に浸してから焼き、燃えたあとに残る塩の形で、縄の姿を示す。

常人には解きにくい、そういう難題を、隠れて生きていた老人が解いてみせる、という筋です。

似た型の話は、他にもあります。

蛇の見分け方や、木の根元と先端の見分け方など、老人の知恵が難題を解く筋立ては、各地の説話に見られます。

これらは、千曲市に固有の史実ではなく、日本各地に広く伝わった昔話の、共通した型として、整理しておく必要があります。

昔話は、昔話として。

千曲市の歴史は、千曲市の歴史として。

このふたつを、混同しないことが、大切です。

ここで、平安時代に成立したとされる『大和物語』百五十六段に、触れておきます。

物語の中心にいるのは、老いた母親ではありません。

男を、実の親のように育てた、伯母です。

「姨」という漢字も、伯母や叔母を意味する字です。

男の妻は、この伯母を疎ましく思うようになり、男に、伯母を捨てるよう、言い続けます。

とうとう男は、伯母を背負い、山へ入っていきます。

月の明るい夜のことでした。

高い山の峰まで登り、そこに伯母を置いて、里へ戻ろうとします。

帰宅した男は、山の上に、明るく出た月を見ます。

長年、親のように寄り添ってくれた伯母を思い、男は悲しみに沈みます。

伯母への長年の思いと、山に出た明るい月が重なって、男は山へ引き返します。

物語のあらすじは、ここまでです。

この物語では、伯母への後悔と、月が、強く結び付いています。

なぜ、姥捨ての物語に、これほど月が深く入り込んでいるのでしょうか。

月は、この物語の中で、単なる背景ではありません。

この違和感を、いったん、そのまま持っておいてください。

『大和物語』より、さらに古い文献を、たどってみます。

たどり着くのは、西暦九百五年ごろに成立したとされる『古今和歌集』です。

この歌集には、すでに、更級、姨捨山、月を結びつけた、詠み人知らずの歌が収められています。

こういう歌です。

「わが心 慰めかねつ 更級や 姨捨山に 照る月を見て」

自分の心が、どうしても慰められない。更級の、姨捨山に照る月を見ていると。

そういう意味の歌です。

老人を捨てるという行為への言及は、この歌の中には、どこにもありません。

あるのは、月を見て、心が慰められない、という感情だけです。

ここで、注目してほしいことがあります。

現存する文献をたどっていくと、姨捨山を月の名所として詠んだ、この歌のほうが、棄老の物語をはっきりと描いた『大和物語』よりも、先に確認できるのです。

老人を捨てた制度の記録を探していました。

けれど、調べるほど、別のものに繰り返し出会います。

月です。

老人を捨てた制度の記録を探す中で、繰り返し出会うのは、姨捨の月を見上げ、詠み、描いた人々の言葉でした。

ここから、この旅の目的地が、変わります。

姥捨山の真偽を検証する旅ではなく、千曲市を、月から旅する旅へと。

姨捨の棚田は、善光寺平に向かって、大きく開いた斜面に広がっています。

斜面に立つと、眼下には千曲川と、善光寺平の広がりが見えます。

遠くには、善光寺のある長野の市街地の明かりも、望むことができます。

視界を遮るものが、ほとんどありません。

対岸には、鏡台山という山があります。

この山は、中秋の名月のころ、満月が山頂付近から昇るように見えることが、名前の由来とされています。

月を鏡に見立て、その鏡を置く台となる山、という意味です。

実は、千曲市だからといって、月そのものが物理的に特別に大きくなったり、明るくなったりするわけではありません。

特別なのは、月を見るための条件が、この一点に、いくつも重なっていることです。

月が昇ってくる、山の稜線。

善光寺平へ向かって、大きく開けた視界。

平地から棚田までの、はっきりとした高低差。

水をたたえた田んぼの水面。

そして、それを見上げる人が、実際に立つ位置。

姨捨では、月の昇る山、善光寺平へ開く眺望、棚田の水面が重なり合います。

こうした条件が、この土地ならではの月見の景観を、形づくってきました。

かつて歌枕として知られた姨捨の眺望に、現在は高速道路からも近づくことができます。

この一帯を通る高速道路には、今も「姨捨」の名を冠したパーキングエリアがあり、善光寺平を見渡す夜景の名所として知られています。

ここで、少し時間を早送りしてみます。

「千年前から、同じ棚田に、同じ月が映っていた」という考え方は、正確ではありません。

平安時代の歌に、現在のように斜面を広く覆う棚田の姿が描かれているわけではありません。

現在に近い棚田景観は、戦国期から江戸期、さらに近代へと、水利と開田が進む中で、形づくられていきます。

平安時代、歌に詠まれていたのは、山と空の月を中心とした景観だったと考えられます。

そこから、時代が戦国、そして江戸へと移るあいだに、人がこの斜面に、少しずつ手を入れていきます。

斜面を切り開き、石を積んで畦を作り、沢の水を引き、ため池を築き、水路を通していきます。

斜面はきつく、平地の田んぼのように、まっすぐな畦を引くことはできません。

地形に沿って、曲がりくねった畦が、等高線のように連なっていきます。

一枚一枚の田んぼは、決して広くありません。

急な斜面に、無理なく水を張れるだけの、小さな田んぼが、幾重にも連なっていきます。

戦国期から江戸期にかけて水田開発が進み、ため池や水路の整備によって、斜面の水田は次第に広がっていきました。

江戸時代以降、大池や水路の整備によって水田は大きく広がり、近代にかけて、現在に近い棚田景観が形づくられていきます。

すると、月は、空だけでなく、田んぼの水面にも、姿を現すようになります。

つまり、人がこの土地に住み続け、耕し続けたことによって、月の名所そのものの姿が、少しずつ変わっていったのです。

水を張ったばかりの田んぼは、鏡のように、空をそのまま映し出します。

水を張る春から初夏には、水面が空を映します。

稲が育つ夏から収穫期へ向かうにつれ、水面の見え方は、変わっていきます。

水の張られていない冬の田んぼには、月は映りません。

一年のうち、月が水面に映る季節は、限られています。

鏡台山の稜線から昇る中秋の名月と、水を張った田に映る田毎の月は、必ずしも、同じ季節の、同じ瞬間の景観ではありません。

それでも、山にかかる月と、水面に映る月、そのどちらもが、この土地の月見の文化を形づくってきました。

これは、単なる農業の歴史ではありません。

人が土地を変え、その結果、月の見え方まで変わっていった。

そういう、ひとつながりの物語です。

「田毎の月」という言葉についても、触れておきます。

文化庁の解説によれば、現存資料では、一五七八年制作の狂言本『木賊』に、「田毎の月」という表現が、初めて確認されます。

少なくとも十六世紀後半には、姨捨と、水田に映る月を結び付ける表現が、確認できるということです。

ただし、棚田のすべてに、同時に、完全な満月が映る、というわけではありません。

水田の高さや向き、見る人の位置によって、月影の見え方は、変わります。

旅人は、場所を変えるたびに、違う月影に出会うのかもしれません。

後の時代、歌川広重は「信濃更科田毎月鏡台山」という作品で、数多くの水田に月を描きました。

これは、ある一瞬の実景をそのまま写した絵というより、「田毎の月」という景観の魅力を、数多くの月影として、視覚化した表現と見ることができます。

広重は、田毎の月という景観イメージを、浮世絵として残しました。

平安の歌人が見上げた、山と空の月。

そこに、人が斜面を拓き、水を引いたことで生まれた、田毎の月。

このふたつは、同じ土地の、同じ月見の文化が、時間をかけて育ってきた、ひとつながりの姿だと言えます。

姨捨の月は、時代が変わっても、人を呼び続けます。

芭蕉は、門人の越人とともに信濃を旅し、姨捨の月を見て、『更科紀行』を著しました。

このときの旅は、後に紀行文としてまとめられ、姨捨の月は、俳諧の世界でも、特別な場所として語られるようになっていきます。

江戸時代を通じて、姨捨は、月見の地として、さらに広く知られていきます。

その中で、歌川広重が、田毎の月の景色を、浮世絵として描きます。

時代が下り、この地に鉄道が通ります。

姨捨駅が生まれます。

鉄道が通ると、姨捨は、善光寺平を望む車窓の名所としても知られるようになります。

歌に詠まれた姨捨の景色を、今度は、列車の窓から眺める旅人が現れました。

時代とともに、姨捨へ近づく手段は、変わりました。

その中で、姨捨駅、長楽寺、四十八枚田と呼ばれる棚田、そして鏡台山は、形を変えながらも、現在まで、月見の景観を支えています。

長楽寺の境内には、芭蕉に関わる碑をはじめ、姨捨の月見文化を伝える歌碑・句碑が残されています。

観光地として整えられた場所というより、千年以上にわたって、人が月を見に訪れ続けてきたことの、積み重ねそのものが、この場所に残っている、と言ったほうが近いかもしれません。

現在、姨捨の景観は、国の名勝に指定され、棚田は重要文化的景観に選ばれています。

そして千曲市は、日本遺産「月の都 千曲」として、この月の文化を伝えています。

平安時代には、歌に詠まれた月でした。

江戸時代には、人々がわざわざ見に来る月になります。

そして鉄道が通ると、姨捨は、車窓の名所としても知られるようになります。

今、その景色は、文化財として守られています。

姨捨の月は、その時々の人の関わり方を映しながら、姿を変えつつ、受け継がれてきました。

中秋の名月のころには、「信州さらしな・おばすて観月祭」など、月にちなんだ催しが開かれます。

一方で、棚田オーナー制度などを通じて、現在も、棚田そのものを守る取り組みが続けられています。

棚田を維持していくためには、水路の管理や、畦の補修など、地道な手入れが欠かせません。

その手入れを担っているのは、今もこの土地に暮らし、田畑を耕し続けている人たちです。

平安の月見の記憶と、現代の観光のあいだには、棚田を耕し、水を守り、景観を受け継いできた、多くの人の営みがあります。

老人を山へ捨てたという、恐ろしい記録を探して、この土地に入りました。

けれど、最後に立っているのは、千年以上にわたって、人々が月を見上げ続けてきた場所です。

姥捨山という、恐ろしい名前を追ってきたはずなのに、たどり着いた先にあったのは、月を見上げ続けてきた人々の、静かな記録でした。

最後に、もう一度、冒頭の物語に戻ります。

『大和物語』の中で、男は、伯母を山に置いて、里へ下ります。

けれど、月を見ます。

そして、山へ引き返します。

ここで、ひとつの問いが残ります。

姨捨山という名と物語が結び付いたから、この月は、これほど有名になったのでしょうか。

それとも。

すでに月の名所として意識されていたからこそ、伯母を置き去りにできなくなる物語が、この土地に結び付いたのでしょうか。

因果関係は、分かりません。

だからこそ、これは、問いのまま、残しておきます。

姥捨山という名前だけを頼りに、この土地へ入りました。

老人を捨てていた制度を示す確かな記録は、確認できません。

けれど、この土地の月を見上げた人々の言葉は、千年以上にわたって、残っています。

夜、姨捨駅のホームからは、善光寺平の夜景を見渡せます。

時期と条件が合えば、その向こうの鏡台山の稜線に昇る月を、眺めることもできます。

冒頭で山道を照らしていた、あの月と、同じ月です。


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