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日本100名城【No.37 一乗谷城】信長がすべてを焼き尽くした復讐の跡地へ

先日永平寺をとりあげたので、https://note.com/mimoza_y/n/nd8f9311166d2?sub_rt=share_pw

(同じ福井ということで)、以前福井を訪れた際に入城した日本100名城【No.37一乗谷城】🏯について
今回は信長視点から見た"一乗谷の戦い"と共に紹介したいと思います!


山奥にひっそりと佇むかつて越前の地で栄華を極めた朝倉氏のシンボル一乗谷の【唐門】です。

唐門の前に広がる大パノラマの芝生広場は圧巻!

実はこの【唐門】は朝倉氏の時代のものではなく、江戸時代の中期に建てられたものだそうです。当時の本物の門や屋敷は、信長の焼き打ちによってすべて燃えてしまいました。
信長によって徹底的に破壊された一乗谷ですが、のちに豊臣秀吉の手によって、最後の当主朝倉義景の菩提を弔う為、一乗谷の館跡に【松雪院】という寺院を建立させました。
その松雪院の山門として江戸時代中期に建てられたものが、現在の唐門です。

この門の奥には朝倉氏の当主が暮らしていた巨大な豪邸
【朝倉館】がありました。
当時この唐門の前の広大な芝生のスペースは、お屋敷の玄関口にあたる広場やお堀の一部だったそうです。
唐門の前の川には金魚が沢山いて
現在はとっても穏やかな風景でした

【一乗谷朝倉氏遺跡】は今は緑豊かで静かな美しい場所ですが、かつてここは織田信長によって3日3晩焼き尽くされ、文字通り「灰燼に帰した」悲劇の舞台でした。
信長にとって、この一乗谷の戦い(朝倉氏滅亡)は単なる領土拡大ではありませんでした。それは心から信頼してた義弟・浅井長政の裏切りへの激しい復讐だったのではないでしょうか。

朝倉氏の館跡へと続く、一乗谷の遺構。

一乗谷を流れる川と館跡へ続く橋。
当時はここを織田軍が怒涛の勢いで
攻めてきたのかもしれません

もともと信長は、戦国第一の美女と評された最愛の妹・お市を浅井長政に嫁がせ、自身の名から一字【長】を与えるほど長政を家族として深く信頼していました。だからこそ、朝倉攻めの最中に長政が背後を突いた(金ヶ崎の退き口)際に、信長は「浅井はれっきとした縁戚であり、その上 北近江一帯支配を許してるのだから不足があるはずがない」誤報だと思い直前まで信じなかったといいます。しかし事実と知り「やむをえぬ」と言い放ち越前から撤退します(信長公記より)。
九死に一生を得て京へ逃げ帰った信長のプライドは、この裏切りによって完全に粉砕され、激しい怒りと憎しみへと変わったのかもしれません。1573年8月、チャンスを掴んだ信長は豪雨の中を猛追撃。朝倉軍を壊滅させ、一乗谷へ乱入して朝倉氏を滅ぼしました。

信長の焼き打ちを耐え抜き、現代に蘇った
【復原町並み】

武家屋敷や町屋
一乗谷は、朝倉氏の城下町として京都に負けないくらい
華やかな文化が栄えていました。
その為、おしゃれな着物を仕立てる染物屋さんも大繁盛していたそうです。

信長は朝倉を滅ぼしたその足で、すぐさま長政の籠る小谷城へ攻め込み、長政を容赦なく自害に追い込みました。その怒りの凄まじさを物語るのが、翌年の1574(天正2)年の正月、岐阜にて他国衆が退出した後信長のお馬廻り衆だけで酒宴が行われました。
その際に信長は去年討ち取った、朝倉義景、浅井久政、浅井長政の首(頭蓋骨)を金箔で装飾したものを膳に置き、これを肴にして酒宴し、皆が謡をうたい遊び興じたと信長公記に記されてます。
現代の感覚だと身震いするほど怖いエピソードですが、実は当時の価値観では、敵将の髑髏を美しく飾ることは「戦い抜いた名将への敬意」や「死者への供養」の意味もあったという説もあるそうです。
ただ残酷に見せしめるだけでなく、誰よりも愛し、実力を認めていた義弟・長政たちだからこそ、あえて金ピカにして正月の特等席に招いたのかもしれません。または「裏切れば身内でもこうなる」という見せしめだったのかもしれません。
現在の穏やかで緑豊かで美しい一乗谷の景色には当時の信長の凄まじい執念と、歴史の荒波に消えていった朝倉・浅井の儚さも感じられてなんとも言えない気持ちになりました。


参考資料:信長公記/日本100名城に行こう!公式本

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