歯ブラシが、二本ある理由
洗面台に、歯ブラシが二本並んでいる。
一本は夫の。
もう一本は、私のだった。
いつからこうなったのか、
もう思い出せない。
でも、何本もの歯ブラシを、
何人分も買っていた時期があったことは、
覚えている。
会う人が変わるたび、
ポーチの中身を入れ替えた。
誰の家にも、何も残さないように。
それが、ある日、一本だけになった。
恋人が、一人に決まったからだった。
何人もの相手と、同時にLINEをした。
誰と何を話したか、
忘れないようにメモをした。
予定を調整して、会う人を選んで、
会わない理由も、考え続けていた。
恋人ができた。
穏やかな人だった。
何を話しても、驚かない。
何を話さなくても、追いかけてこない。
選ばれた。
そのはずなのに、
どこか、力が抜けていくのを感じていた。
一人に決まった瞬間、
LINEをする相手が、いなくなった。
スケジュールを、調整する必要もなくなった。
急に、手も、時間も、空いた。
その空いた時間に、彼が入ってきた。
出会いはマッチングアプリだった。
話が合って、気づけば毎晩、電話をしていた。
恋人との電話は、私を落ち着かせた。
彼との電話は、私を眠れなくさせた。
切ったあとも、頭の中に声が残った。
布団の中で、通話時間を何度も確かめた。
二時間四十三分。三時間十二分。
会議中、スマートフォンが震えると、
指先だけが冷たくなった。
トイレに立って、そっと画面を開いた。
既読がつくまでの時間を数えた。
ついたのに、返事が来ない時間も、数えた。
眠れないことを、
好きな証拠だと思っていた。
彼は東京に住んで会社に勤めながら、実家のある栃木でも会社を経営していた。
私は新潟にいた。
地図で測ると、間には、どちらの街でもない場所があった。
そこまで、彼は高速で二時間。
私は、高速で三時間かけて向かった。
会うためだけに、
何もない場所で落ち合った。
「まなちゃんは、電話の方がよく喋るね」
「見られてるから」
毎晩話していたのに、
目の前に立つと、初めて会う人だった。
「今度、家に行きたい」
東京まで、新幹線で二時間近くかかる。
それでも、会いたい方が勝った。
彼はすぐに答えなかった。
「人が入ってくるの、嫌なんだよね」
声は、どこまでも入れてくれるのに、
現実の私は、玄関の手前にも立てなかった。
代わりに、彼が気に入っているブランドの店へついていった。
デニムを選ぶ彼を、
少し離れた場所で見ていた。
彼の東京を、
一つずつ渡されている気がした。
でも部屋だけは、渡してくれなかった。
ある日、彼が言った。
「今からなら、新潟行けるな」
栃木から、数時間。
仕事帰りとは思えないくらい、
身軽な鞄一つで、彼は来た。
海鮮丼を食べて、車の窓を開けて、
潮の匂いを浴びた。
空は、もう暗くなっていた。
「今日、帰る?」
彼は、すぐに答えなかった。
部屋は、取っていなかった。
帰るつもりだったのか、
泊まるつもりだったのか、
自分でも決めていなかったのかもしれない。
スマートフォンで、
空いている部屋を探し始めた。
出てきたのは、
シングルの部屋だけだった。
ベッドの上で、私は言った。
「私たち、そういう運命なんだよ」
彼は、少し黙ったあと、首を横に振った。
「それだけは、だめだよ」
「運命だからって思ったら、
そこで終わっちゃう」
「ちゃんと選んで、ここまで来たんだから」
その夜、隣で彼はよく眠っていた。
私は、ずっと眠れなかった。
選べなかった人間だと、思って生きてきた。
必要とされる方へ行って。
それを、運命と呼んできた。
彼はそれを、そうじゃないと言った。
腹が立った。
新潟に来たのは、その一度きりだった。
一年で、彼と会えたのは、五回だけだった。
五回のために、何十時間も、電話をしていた。
声だけは、毎晩、そこにあった。
でも部屋には、一度も入れてもらえなかった。
東京へ帰ってからも、
毎晩のように電話は続いた。
でも、恋人の家に、
少しずつ荷物が増えていった。
化粧水を置いた。
部屋着を置いた。
「もう、うちから通っていいよ」
その一言だけだった。
引っ越しの日、段ボールは三つだった。
恋人はもともと、荷物の少ない人だった。
クローゼットは、
気づけば私のものでほとんど埋まっていた。
夜、荷解きをしながら、
彼が淹れてくれたお茶を飲んだ。
特別な日のはずなのに、
いつもと同じ静かさだった。
それが、何より安心だった。
恋人は、私の過去を、あまり聞かなかった。
聞かれなかった分だけ、
話さずに済んだことがある。
休日は、洗濯物を並んで干した。
何度やっても、
私が畳んだものだけ、角が揃わなかった。
恋人は、何も言わない。
ただ、もう一枚、自分のシャツを畳み始める。
その隣で、私も畳み直す。
同じ部屋で、同じだけの時間をかけて、
それだけのことをしていた。
彼からの電話は、まだ続いていた。
ただ、鳴ってから出るまでの時間が、
少しずつ延びていった。
一回目では出ない。
二回目で出る。
「今、忙しかった」
それで済んだ。
その夜は、いつもより早く眠れた。
自分でも、少し驚いた。
ある夜。
ソファで、なんとなくスマートフォンを触っていた。
画面に、
彼の名前が表示された。
指が止まる。
音は鳴らさなかった。
とっさに、サイレントにしていた。
恋人は隣で、ニュースを見ている。
時々、画面に目をやる。
時々、ハイボールを飲む。
こちらを見ることは、なかった。
画面の中で、彼の名前だけが光っていた。
私は、それをただ見つめていた。
やがて、光が消えた。
部屋は、また静かになった。
誰にも、気づかれていなかった。
いつも出ていた電話に、
私は初めて、出なかった。
顔を上げると、
恋人は変わらず、テレビを見ていた。
朝、「食べるよ」と呼んでくれること。
仕事を終えて、帰る場所があること。
何も言わなくても、そこにいてくれること。
翌朝、化粧をする前に、通話履歴を開いた。
二時間四十三分。
三時間十二分。
数えきれない夜の記録が、
並んでいた。
消したことは、一度もなかった。
今日、初めて消そうと思った。
一件ずつ、消していく。
最後に、彼の名前だけが残った。
しばらく、その文字を見ていた。
消す。
画面が白くなって、また元に戻った。
それだけのことだった。
それだけのことなのに、
指先が、少し重かった。
あれから、
何度も同じ朝を重ねてきた。
支度を終えて、玄関の扉を閉める。
鍵をかける音が、いつもより大きく響いた。
夫はもう、車に乗っていた。
助手席のドアを開ける。
当たり前みたいに、シートベルトを締める。
あの日、
「私たち、そういう運命なんだよ」
と言った私に、
「ちゃんと選んで、ここまで来たんだから」
と言った人がいた。
「行こうか」
いつもと同じ、静かな声だった。
窓の外を、見慣れた景色が流れていく。
恋愛、夫婦、そして自分がどう作られてきたのか。
その続きを、ここに置いています。
