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アメリカ世:1946年2月10日(日)

中学生を動員 少年ゲリラ部隊「護郷隊」組織した隊長
沖縄戦を戦った第6海兵師団は今

(2/10/1946、ザ・デイリー・オキナワンより)

日本軍大尉、名護付近で降伏
「襲撃の噂」の真相

沖縄:
日本軍降伏後も沖縄で潜伏していた残留兵の中で最も狂信的とされた村上大尉(村上治夫隊長)は、現在、日本の米軍当局へ移送されるのを待つ捕虜となっている。
この日本軍将校は名護近くの森林の断崖地帯に部下とともに潜伏し抵抗を続けていたが、1月5日、山中の隠れ家で米軍部隊と接触し終結した。
村上大尉はその際、民間人として沖縄に残ることを許可してほしいと求めた。
日本の陸軍士官学校・陸軍中野学校出身の村上は、1944年秋、沖縄で半軍事的少年ゲリラ組織「護郷隊」を編成した。
しかし実際の戦闘では、彼自身の認めるところによれば、700人の部下は「効果的に戦えなかった」という。
村上は日系の巡察兵に対し、降伏交渉団の指揮官が中佐であれば降伏するが、それ以下の階級には応じないと伝えていた。
そのため、銀の樫葉章をつけたゲイル・M・ポッター大尉が交渉団を率い、降伏は円滑に進んだ。
また彼は沖縄に残る希望のほか、丘陵地に残された日本兵の遺体に日本式の埋葬を行うことを求めた。
捕獲部隊には、第24歩兵連隊の将校ローゼンクイスト中尉とミッチ中尉の指揮下にある協力的な日本人捕虜も含まれていた。
村上は、クリスマス期に沖縄で広まった「日本軍残党が島内施設を攻撃準備している」という噂の原因となった人物。

【参考】護郷隊

(沖縄大百科事典より)

沖縄戦元隊員証言、護郷隊少年兵が互いに制裁

(6/22/2015、琉球新報

映画「沖縄スパイ戦史」(2018、三上智恵・大矢英代監督)


「沖縄アルバム」シリーズ
大宮神社(泡瀬飛行場近く)

泡瀬飛行場の防波堤近くにある大宮神社は、沖縄のあまり知られていない信仰の場の一つである。
祀られている大宮の女神は古い仏教系の神格だが、神社の建物自体は比較的新しいコンクリート造である。
建物前の2本のコンクリート柱は、砲撃が始まる以前は灯籠柱だった。
小さな大宮の像は、現在は破壊された門の奥に安置されている。
参拝者は門のアーチの下で立ち止まり、そこから拝礼した。
大きな木はガジュマルで、島で最も美しい樹木の一つである。
(写真:フランク・ポルシャティス技術兵)


オキナワ・ユニバーシティの学生がショー
オキナワ・ユニバーシティ(キャンプ・ブーン=Camp Boone、現宜野湾市=に設置された米軍教育機関)の最初の学期の終了は金曜日の夜、演劇に関わる卒業生たちが歌と踊りの公演で鬱積した感情を発散することによって祝われた。彼らはこの作品を「The Last Word(最後の言葉)」と呼んでいる。
教員のY3c H・ザレツキーとプロのカール・マイズは、ヴォードヴィル風の作品のために多くの出演者を集めた。舞台装置は使わず、衣装も最小限であったが、それがかえって新鮮な効果を生んだ。非公式な形で上演されたこの公演では、いくつかの印象的な歌が披露された。
その中には、GM2c ファイバー・マックギーが新入生を優しく慰める歌「Let the Rest of the World Go By」があり、またアベル・コスタ伍長は「Jumpin’ Jive」で観客を楽しませた。
コスタはピアニストのボブ・クリストファーとアルトサックスのウェズリー・フェイギンとともに演奏し、滑らかなインストゥルメンタル・トリオを構成した。
個人演目では ジミー・ショート軍曹のタップダンスが特筆される。彼の縄跳びダンスは観客に障害物コース訓練の時代を思い出させた。
素材そのものは改良の余地があったかもしれないが、マックス・ホリンガーはジュークボックスと恋に落ちる水兵役を見事に演じ、プロのような出来栄えだった。ホリンガーは映写技術にも精通している。
各レビューに必ず一つはある大規模な演目として、ジーグフェルド・フォリーズ風のフィナーレが盛り込まれた。そこではマギーが「A Pretty Girl Is Like a Melody」を情感豊かに歌い、小柄なダンサーたちの旋回によってそのイメージが表現された。
ダンサーには ボブ・ホワイト、H・リンゼイ、レナード・ヘア、ホリンガー、そして 「ショーピース」ザレツキーが参加し、学生たちはこの場面に大いに熱狂した。
一方、J・コッテン軍曹はピアノで進行を支え、演奏の腕前も優れていた。
フィナーレでは、A.A.J.ルロー中尉の指揮によるオキナワ・ユニバーシティ・グリークラブが登場し、バランスの取れた合唱を披露した。
こうして、古いキャンプ・ブーンの由緒ある校舎を離れる前夜、オキナワ・ユニバーシティの学生たちは仲間同士で慰め合うかのように「The Last Word」を歌い上げた。それは親しみ深い別れの歌でもあった。
このショーは今夜、第8海兵隊地区で最後の上演を迎える。

キャンプ・ブーン(左下)

(ウィキペディアより)

https://mickmc.tripod.com/do-10Feb46.html

(2/10/1946、シカゴ・トリビューンより)
やることがない海兵隊員、戦闘訓練
中国駐留の歴戦兵、戦闘技能を再習得へ

(ジョセフ・ハースト特派員)
中国・青島、2月9日:
第6海兵師団の兵士たち(その多くは沖縄戦に参加し、現在は除隊点数を数えながら日々を過ごしている)は、先週火曜日から上級新兵訓練を開始した。訓練期間は6カ月の予定。
最近師団に配属された多数の未経験の補充兵にとって、この訓練の多くは新しいものとなる。しかし、民間生活への復帰を望む予備役の歴戦兵にとっては、除隊を待つ間の時間つぶし程度の意味しか持たないだろう。
野外演習後の8月3日に終了予定とされたこの訓練期間を命じる指令では、訓練の目的は「北中国における占領任務継続のため師団を高い効率状態に維持すること」、そして「平時の海兵隊勤務、あるいは民間生活において各自が果たす役割に備えさせること」であると述べられている。

ほとんど任務なし
この命令により兵士たちは、銃の手入れと使用法、射撃下での前進方法、銃剣戦闘、柔道、個人衛生と野戦衛生、密集隊形教練、そして海外派遣前に多くの者が受けた各種訓練を再び行うことになる。
実際、この訓練は平時・戦時を問わず行われる海兵隊の慣例に従うものだが、この地域で命じられたのは、事務職の兵士を除けば多くの海兵隊員に特定の任務がほとんどないためだと考えられている。現在、山東省での日本軍武装解除の責任を中国政府が全面的に引き受けたため、日本人の送還を「支援」するために必要な海兵隊員は比較的少数となっている。

倉庫引き渡し
海兵隊は、中国側に58棟の倉庫を引き渡した。そこには日本の食糧1万トン以上、3,000丁の小銃、10万発の弾薬が保管されていた。これにより海兵隊はこれら倉庫の警備任務から解放された。
送還業務を手伝っている兵士の多くはトラック運転手で、市外の収容所から港まで日本人を輸送している。
6カ月の訓練命令と同時に司令部は、1,190人(うち100人以上は50点に達し11月1日以来除隊資格を得ている兵士)が帰国輸送を待つため待機任務に就いたと発表した。
これによりA・F・ハワード少将(師団長)が定員割れまで兵力を削減する許可を得たのではないかとの噂が広まった。

【参考】第6海兵師団

(沖縄大百科事典より)

(「これが沖縄戦だ : 写真記録」大田昌秀編著、琉球新報、 1977、国会図書館)

沖縄および日本本土などへの上陸戦を行うために編成された。前身は1944年5月に編成された第1海兵臨時旅団。第1海兵臨時旅団(第4、第22海兵連隊基幹)は1944年7月にグアムの戦いに投入されており、その後1944年9月にガダルカナル島で第29海兵連隊を加え、3個歩兵連隊基幹の師団編制としたものである。この師団は、アメリカ国外で編成された唯一の海兵隊師団。
師団は1945年4月1日に第3水陸両用軍団の一部として、沖縄本島に上陸、4月下旬までは本島北部で戦闘を行った。その後、南部へも投入されシュガーローフの戦いにも加わっている。沖縄戦終了後の7月にグアム島へ後退し、再編成を行っている。ダウンフォール作戦の一環であるコロネット作戦(1946年4月予定)において、九十九里浜に上陸する計画となっていた。その前に日本が降伏し、戦争が終結したため、第4海兵連隊は東京へ送られ占領任務に、他の部隊は中国の青島に送られ、降伏した日本軍将兵の受け入れ任務にあたった。その後、師団は1946年4月に中国にて解隊。
(ウィキペディアより)

・沖縄芸能連盟結成
(琉球大学「年表沖縄・1945-1946より)

https://u-ryukyu.repo.nii.ac.jp/record/2004137/files/No76p67.pdf

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