アメリカ世:1946年9月18日(水)
社説「沖縄ってどこ?」
琉球列島貿易庁設置に関する布告(10月25日設立)
農村復興計画予算1500万円許可
( 9/18/1946、シカゴ・トリビューンより)
社説:「沖縄はどこにあるのか?」
フォート・ベニングの歩兵学校を訪問した際、英国帝国参謀総長のバーナード・モントゴメリー元帥は、無反動砲の実演を見学した。実演を担当した米陸軍の曹長は、これらの兵器が沖縄で大きな戦果を挙げたと説明した。
「沖縄?」とモントゴメリーは言った。「それはどこにあるんだ?」
沖縄は、太平洋戦役において米軍が征服した、琉球列島にある日本の重武装の島である、と彼に説明された。
沖縄について何も知らないふりをすることで、モントゴメリーは、北アフリカやヨーロッパで戦闘が行われていた当時、日本との戦争が進行中だったことさえ知らなかった、単なる無知な人物だという印象を米国民に与えることになるだろう。
しかし、そう結論づけるのは間違いである。モントゴメリーは沖縄がどこにあるかをよく知っている。自分がそれを聞いたこともないというふりは、英国人が自分たちより下位の人々に対してよく用いる、相手が行ったことを取るに足りないものとして扱うための英国流のやり方にすぎない。
沖縄は太平洋戦争で最も多大な犠牲を払った戦場だった。米陸軍第10軍は島を攻略するため82日間戦わなければならなかった。日本兵9万人を殺さなければならなかった。米軍自身の損害は、戦死1万1,260人、負傷3万3,308人に達した。米軍の指揮官サイモン・ボリバー・バックナー中将もこの戦闘で戦死した。
沖縄が陥落すると、日本の敗北は決定的なものとなった。この島は、日本をすでにB-29によって打ち砕かれた状態に追い込んだ艦隊と航空部隊にとって、前進攻撃基地を提供した。日本人はこの事実を認識し、降伏した。
モントゴメリーがこうした事実を知らないはずはない。彼が知らないふりをするのは、米国が単独で成し遂げた対日勝利を、侮辱的な但し書きによって取るに足りないものにしたいからである。彼は米国民に、太平洋戦争など重要ではなく、歴史には彼が参加したアフリカとヨーロッパの戦役だけが記録されるのだと思わせたいのである。しかし、米国の兵器が決定的な役割を果たしたことと比べれば、彼が参加した戦役など取るに足りないものだった。
モントゴメリーは、陸軍省とアイゼンハワー将軍(参謀総長)の公式の客として、ここ米国に来ている。このような立場のもとで、米軍の功績について軽蔑的な発言をすることが許されるなら、アイゼンハワーは戦争全体を指揮した人物であり、英国の利益のために米国民と米軍を引き続き働かせる目的で、今や米国にいるのだという印象を与えることになる。
彼の振る舞いは到着した瞬間から傲慢で不快なものだった。大統領との会見で、彼は英国陸軍が1814年にホワイトハウスを焼き払ったことを指摘された。
彼は、もし賠償金がまだ必要だと考えられているなら、それをレンドリースの精算の一部として扱うべきだ、と軽蔑的に示唆した。
フォート・レヴンワースの指揮幕僚学校を訪問した際には、士官学生たちに「次の戦争」で英国が彼らに期待することについて講義している間、米国人記者を部屋から退去させた。彼が秘密を守ることに固執したのは、米国民に対してだけではなく、新聞記者は士官、特に称号を持つ英国士官よりも当然下位の存在だという英国人の見方を示すためでもあった。陸軍は、国民とその報道機関に対するこの大きな侮辱を彼がやり遂げるのを許した。
モントゴメリーは、今回の訪米の目的が英語を話す諸国民の間に「友愛」を確立することであると認めている。言い換えれば、米国を英国の意のままにし、英国とともに、当然ながら英国が主導権を握って芝居を進めることである。また、米軍の訓練と英国の訓練・方式を「調整」するために来たとも認めている。つまり、米軍を英国陸軍の植民地的補助軍に仕立てるためである。
この計画は彼の気に入るように進展している。英国の軍務は急速に、米国の軍務の単なる付属物になりつつある。英国の統合参謀総長たちは、ワシントンに居座り、英国代表に米国の軍事政策に発言権を与えることになる。米国の空母1隻、巡洋艦3隻、駆逐艦7隻が、英国の指揮下で地中海に展開している。
一方、オーストリアの米軍司令官の職を終えて帰国したマーク・クラーク将軍は、米国が東ヨーロッパに「橋頭堡」を維持すると発表した。そこでは英国とロシアの間で起こるかもしれない紛争のただ中に、米軍が駐留している。
クラークはイタリアの将軍としては大した人物ではなく、ラピド川の惨事がそれを示した。しかしウィーンでは、ボストンにおける英国のゲイジ将軍のように、人々を支配する役割を演じることが許されている。彼と他の将軍たちは、欧州で半ば王のような地位にあり、再び米国人のもとへ帰ることになるのを考えなければならない。
第一次世界大戦でパーシング将軍が米遠征軍を指揮していたとき、彼と兵士たちは自分たちをジョージ・ワシントンの後継者と考え、外国の支配を甘んじて受け入れることはなかった。パーシングは、米国の指揮下にある米軍として戦うべきだと主張し、実際にそうしたのである。
この国におけるモントゴメリーの振る舞いは、誰からも非難されるべきである。モントゴメリーは米軍最高司令部の後援のもとで自分の計画を推進しており、最高司令部と結んでいる取り決めは、議会と行政府を脇に置いている。英国の軍事代表者と米軍指導部との間で、秘密の同盟が形を成しつつある。それは政府や国民に何の相談もなく、私的な取引によって締結されつつある。
士官階級と士官政党が米国に現れたのは、これが初めてである。もしそれが一種の私的政府として成立し、外国との取引を自ら行うことが許されるなら、米国は軍事独裁への道を歩むことになるだろう。


【参考】アメリカ世: 1946年9月15日
https://note.com/minamihanashima/n/nb15580f62d8f
沖縄民政府
軍民連絡会議(午前9時〜)
志喜屋知事:
大島・先島・沖縄の貿易委員は、軍政府で任命されたい。
軍政府:
沖縄の委員は知事が任命する。
大島・先島は軍政府から各隊長宛通知した。
志喜屋知事:
俸給は本日支払ふ様で有難う存じます。
軍政府:
係将校が交代した為め遅延した。
志喜屋知事:
クリスマスカードは勉強して居ます。
軍政府:
今度から来年のカードも考へておく様にせよ。
◎職員(文化部の絵書きの人々)は工業部に移さなくてもよい。
志喜屋知事:
絵具が不足を来す様ですが。
軍政府:
カードの模写する値段はP・Xで二円程度。
工業部では一円五、六十銭程だらう。
カードの書いた値段は十五円程。紙代は取らない。
志喜屋知事:
翻訳部、大島の残員の増俸に対しお礼を述ぶ。
真珠の件につきては水産部の係の人が軍政府に呼ばれて行った。
軍政府:
真珠の見込がなければ知事は止めてもよい。
志喜屋知事:
日本時代に二、三回試験やったが失敗した。而し米人がやれば有望でないかと思ふ。
軍政府:
米人が個人的興味を以て仕事を成さんとする者があれば止めさす。沖縄人のためなら事業を興してよい。

臨時部長会議(午後2時〜)
部長住宅は抽選により決定す。
22山城部長 12平田部長 10仲村部長 33比嘉永部長 15安谷屋工業部長 27大宜見部長 32護得久部長 5糸数部長 48比嘉秀部長 28前門部長 44玉城部長 24當銘部長 30当山部長49島袋官房長 29松岡部長。
以上決定す。

(沖縄県公文書館より)
・クレイグ副長官、琉球貿易庁設置に関する指令を出す
・農村復興計画予算千五百万円許可

(「沖縄大観」沖縄朝日新聞社編、日本通信社、1953、国会図書館より)
琉球列島貿易庁設置設置に関する件
一、琉球列島内の貿易を促進し且つ全貿易運営上の適切なる方策を確立するため茲に琉球列島貿易庁を設置すべし。
(中略)
米国軍政府副長官
米国陸軍大佐 ウィリアム・エイチ・クレーグ

(沖縄県公文書館「沖縄民政府当時の軍指令及び一般文書1946年諮詢委員会から沖縄民政府まで文書及びメモ」より)

(沖縄県公文書館「対米国民政府往復文書 1946年受領文書」より)
琉球列島貿易庁
1946年(昭和21)10月25日,米国軍政府指令第14号「琉球列島貿易庁」によって設立された米国軍政府の直轄官庁。

農村復興計画予算1500万円許可される
(沖縄大百科事典別巻より)


当時としては全く破天荒ともいうべき「農村復興計画予算一千五百万円」が軍政府によって承認され、直ちに実施に移されたのであります。
一千五百万円といっても、今では建売住宅一戸の値段にも及びませんが賃銀制実施と同時に軍政府から令達された民政府予算の総額が一億何千万という数字に過ぎなかったことを考えるとその一割に当る資金が追加割当てされたわけで、その意義が如何に大きなものであったかは、琉球政府発行の「行政記録」にその年の重要事項の一つとして「九月十八日農村復興計画予算一千五百万円許可さる。予算に関係ある部は農務・工務・工業・公衆衛生の四部」と特記されていることからも知られます。殊に、この予算に関係ある部の名前が列記されているのを見ると、当時、この予算の令達によって、はじめて本格的な復興事業の推進を手がけることになった民政府関係者の喜びと満々たる意欲の程が窺われて興味深いものがあります。
(「師父志喜屋孝信」志喜屋孝信先生遺徳顕彰事業期成会編、
1983、国会図書館より)
沖縄民政府官房翻訳課を部に昇格、部長に比嘉秀平を任命
(「比嘉秀平伝 : 琉球政府草創期の回想」比嘉秀平氏伝記刊行実行委員会、1983、国会図書館より)
【八重山の部】日本から九〇〇名引揚帰還
(沖縄県公文書館「行政記録」より)
