アメリカ世:1946年9月16日(月)
キャンプからの捕虜送還順調
教員職名を変更
沖縄民政府
軍民連絡会議(午後2時〜)
軍政府:
キャンプからの送還は順調に行はれて居る。
建設隊へ車一台遣すこと(泡瀬の上側)。
キャンプ(久場崎)の浴場は囲しても道側では行けない。奥の方に作る。
◎沖縄の将来の首都は沖縄人のよいと思ふ所がよい。
知事から申請する様にせよ。
◎羽地村長が金曜日の午後クレーグ副長官を訪ねて来たが軍政府へ申出たいことは知事を通してやる様にと云った。
東風平の移動地区は爆発物を除去して後に。熱田のテント及カンセットに住民が居るが彼等を出す様にせよ。該家屋は隔離用である。
志喜屋知事:
クリスマスカードにつき細い計画を立てたが絵具が不足しさうである。

(沖縄県公文書館より)
教員職名変更
中等学校上席教諭を教頭、教諭を教官、教諭心得を教官補、初等学校訓導を教官、助教を教官補に。
(沖縄大百科事典より)
【参考】戦後教育への発足(1946年)
あらまし
一九四六年三月三十一日無試験検定を行い、同日教員の配置が行われた。ここにようやく戦後の教育は形を整えて発足するようになつた。
実際教育に当つては、日常使用する白墨や生徒児童の学習ノート等がほとんどなく、あつても高価であるために、教師児童ともに、入手困難で教授学習に大支障を来した。特に困つたのは、教科書がほとんどないということであつた。
戦争中焼かれたり、散つたりして、児童の手には数科書はなく学校もわずかに残つた教科書で授業をすすめた。

(「琉球史料 : 自一九四五年至一九五五年 第3集」1988、国会図書館より)
https://dl.ndl.go.jp/pid/13198899/1/17
