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【富田林市】3年連続開催の天忠(誅)組河内勢慰霊祭、年ごとに規模拡大し伝統的な夏祭の形成過程を感じた

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幕末の魁(さきがけ)ともいわれた天誅組。主な戦いの舞台となった奈良県五條市には、大きな資料館もあります。その天誅組に参加したグループの中に、河内勢がいました。今でも富田林の水郡(にごり)邸や河内長野の油屋跡など、天誅組ゆかりの場所がいくつか残っています。そして天誅組河内勢のリーダー水郡善之祐をはじめ、辻幾之助、森元伝兵衛、田中楠之助らが、元治元年7月20日(1864年8月21日)に処刑されました。
富田林市史(外部リンク)には次のような記述があります。

七月二〇日、禁門の変の混乱に乗じて、自首して縛についた者らを中心に一四名、河内勢では水郡善之祐・辻幾之助・森元伝兵衛・田中楠之助、それに加え平野国臣ら生野の変の関係者などあわせて三三名が処刑された。火が堀川以西に及んだ場合に斬るとの訓令を無視しての暴挙であり、いちいち処刑するのは煩わしいので獄舎の外から長槍で突き、あたるに任せて刺殺したともいわれる。

富田林市史(天誅組の河内勢)

それからずいぶん時を経て、2023年に天忠(誅)組の慰霊祭を地元の有志により初めて行いました。
「誅」ではなく「忠」の字を使っているのは、その方が正しいという有志の方々の見解のためです。今回の記事も慰霊祭に関する部分に関してのみ「天忠組」という表記とします。

場所は富田林の錦織神社の境内入口、鳥居をくぐって右手に画像のような境内のレイアウトがありますが、その場所から見て左手にあるのが天誅組記念碑です。

2023年 数名の有志が集まって行われた小さな慰霊祭

2023年7月20日に初めての慰霊祭が行われました。当日たまたま近くにあるすばるホールで別の取材があったのですが、ちょうどその取材の時間の前に慰霊祭が行われると聞いたので立ち寄りました。

この時は、数名の有志が集まって行われた小さな慰霊祭でした。始めることが大事ということで、行われたのです。

慰霊碑の前には祭壇が備えられており、1863年の決起から160年を記念して行われました。

天忠組と書かれた日本酒が置いてあります。これは五條酒造が発売した日本酒です。  

2023年7月20日は木曜日でした。平日ですが慰霊祭は「その日」にしないと意味がないということ。また急遽開催が決まり、かつ午前中に行われたために参列者は10名もいませんでした。
ちなみに慰霊碑には次の詩歌が刻まれています。

花と咲き 花と散りにし人々の 若き命を誰が惜しまざる

こちらは慰霊碑の裏側です。1963(昭和38)年11月3日に天誅組の百年祭を記念して建てられたもの。当時の大阪府知事や顕彰会長の名が刻まれています。

天誅組100年祭を記念したものなので、2023年のものについては、厳密には60年ぶりに行われた慰霊祭となります。以下に刻まれている文章を引用しましょう。

文久三年八月十七日 天誅組河内勢六十余人は、中山忠光卿を盟主と皇軍の先鋒として甲田水郡邸を出発し 同日長野三日市を経て観心寺の後村上天皇陵を拝し大楠公首塚の前で結盟を誓い 千早峠を越えて大和に入り 五条代官を屠りてその所領 天朝直轄の御地御民と宣言し 討幕の第一声を挙げた 然るに翌十八日に突如として京師に政変起り 廟議一変し却て迋徒として追討せられることとなる 然れども少しも之に屈せず 至誠の必す天朝に達することもあるべきを確信し 兵を十津川郷に募り 吉野の山野を血汐にそめて孤軍奮闘し、遂に刀折れ矢尽きて 僅か四十日にして九月二十四日 或は鷲家口に戦死し 或は紀州竜神に捕らえられて 翌元治元年七月二十日京都に於て斬首された 実に明治維新の魁として花と咲き花と散った人々である爾来百年の星霜を経た今日 我国未曽有の繁栄の礎を築いた天誅組河内勢の遺勲は永久に忘れてはならない 頃日河内精神を提唱してその郷風を振作せんとする我等同人先賢の事蹟を顕彰し 茲に建碑したる所以を誌す
昭和三十八年十一月三日   水郡庸皓撰 伏井岩太郎書

顕彰碑の左側にある石碑には、天誅組河内勢の志士の名前が刻まれています。甲田村の水郡善之祐以下、富田林村、長野村、新家村など、志士が所属していた当時の村名と名前が刻まれています。

こちらには顕彰碑を建てるために寄付をした人と世話人の名前が刻まれています。

この人たちが60年ほど前に寄付で記念碑を建てたことから、このように慰霊祭が行われたわけですね。

和田佐市碑

顕彰碑の左側に、水郡善之祐の従者として天忠組に参加した和田佐市の碑があります。ちなみにこれは、1910(明治43)年に水郡善之祐の子で天忠組の生き残り、水郡長義(英太郎)によって建立されたとのこと。

富田林の郷土・歴史の研究をされている喜志在住の尻谷廣海さんが発起人となり、藤井寺から天誅(忠)組記念館・伴林光平(ともばやし みつひら:天誅組の記録係を務めた幕末の国学者)先生顕彰館館長の草村克彦氏らにより行われた慰霊祭。こういうことを行い、それを後世に伝えることが大事なんだと感じました。しかし、翌年、さらに翌年と、どんどん慰霊祭がパワーアップするとはこの時は全く予測していませんでした。

2024年 出席者が増え、和太鼓の奉納も始まった慰霊祭

そして翌年2024年の天忠組の慰霊祭です。前回の急遽決まったものではなく、あらかじめ準備が行われていることで、チラシまで作成されました。そしてこの年からは和太鼓の奉納が行われるようになったのです。

数名の有志が集まっていた2023年と違い、明らかに人が集まっているのがわかります。2024年7月20日が土曜日になったことも大きかったのでしょう。

そして和太鼓喜和塾や和太鼓極といった面々も参加しています。

慰霊碑の前には和太鼓が並べられていました。

和太鼓の奉納が始まりました。まずは喜和塾から

途中から和太鼓極が参加しました。

このあと順番に慰霊碑に頭を下げます。

和太鼓のメンバーも慰霊碑に頭を下げます。

こうして昨年の慰霊祭は無事に終わりました。

最後に記念撮影が行われました。和太鼓の奉納などがあるだけで随分印象の変わった慰霊祭になったと思いました。

2025年 錦織神社の宮司による本格的な慰霊祭 そして境内では夏祭の雰囲気も

そして今年の慰霊祭です。昨年もにぎやかになってよかったと思いましたが、今年はそれをはるかに上回るスケールになっていて本当に驚きました。

大きな違いは、錦織神社の宮司が慰霊祭を執り行うことになったからです。

鳥居をくぐったところから人の多さに驚きました。

そして、慰霊祭には多くの来賓の方の姿もあり、多くの人がスーツ姿です。昨年までの主に私服の面々が集まった慰霊祭とは大きく様相を変えていました。

そして、昨年は和太鼓の奉納だけでしたが、今年は和太鼓以外の奉納供養が行われるようになっていました。それも慰霊碑の前ではなく、奥にある錦織神社の拝殿前、秋に地車が宮入する場所で行われたのです。

そして集まっている人も昨年の数倍はあったと感じます。

尻谷さんの司会により慰霊祭が行われます。

宮司が祝詞を奏上します。

喜和塾のメンバーによる和太鼓の奉納が行われました。

いちばん右に写ってるのが、前河内長野市長の島田智明衆議院議員

この日は、天忠組河内勢の子孫の方や美具久留御魂神社や靖国神社の関係者、議員の方々など多方面で活躍している来賓の姿がありました。ここまでくると、楠木正成の命日前後の日曜日に観心寺で行われている楠公祭の雰囲気に近づいてきているような気すらします。

この後順番に慰霊碑に玉串を捧げます。宮司による正式なスタイルで行われました。子孫の方からスタートし、その後は議員さんや企業・団体関係者など来賓の方々と続きます。

にわかで天忠組河内勢を演じる予定となっているメンバーや

和太鼓のメンバー

そして、だんじり囃子のちきちん会のメンバーなどが順番に慰霊碑に頭を下げ、玉串を捧げました。

こうして30分の時間をかけて無事に慰霊祭が終わりました。

この後は、会場を奥の神社拝殿前に移動していきます。

拝殿前にはステージが始まります。ここでは司会者などはなく、あらかじめ決められた順番に奉納供養が行われます。

最初はちきちん会のだんじり囃子からスタートしました

動画も少し撮りました。

最初から素晴らしいパフォーマンスでした。

奉納供養ということですが、厳格な慰霊祭と違い、みんなで集まって楽しもうという趣旨で行われました。160年前に志半ばでこの世を去った天忠組河内勢の面々もそのほうが嬉しいのではという気がしました。

次に、再び喜和塾による奉納です。

さらに、和太鼓極による奉納です。

花火をイメージして叩かれた和太鼓のパフォーマンスでした。

気が付けばすっかり暗くなっています。

もうひとつ動画を撮りました。

こちらはソロの和太鼓です。とても繊細でかつ大胆な和太鼓に思わず身震いを感じました。

実はこの後もまだまだ続くのですが、残念ながら時間切れとなってしまいました。

ということで、まだ途中ですが、一足早く引き上げました。

先祖から伝えられた歴史ある夏祭が誕生する経緯を見た3年間

今年の慰霊祭のチラシ

専門家ではありませんが個人的に感じたことを書きます。2023年から始まった慰霊祭が毎年パワーアップする姿を見て感じたのは、もしかしたら夏祭や秋まつりなど、昔の村人が祭を始めたのはこんな感じからスタートしてそして発展していったのかなという気でした。当時の村人のなかに発起人がいて、それに賛同した人たちで年々盛り上がって、やがて恒例の祭りとなって代々伝わっていったのではということです。
夏祭や秋まつりが神社で行われ、楽しい側面がありながらも、しっかりと神事も行われていることから、そのように感じたのでした。

であれば天忠組慰霊祭も錦織神社の夏祭りとして続いていく可能性もあるかなと、むしろそうなってほしい気すらしました。発起人の志を継いだ後継者が無事に育てば、40年ほど後の200年を記念した慰霊祭にまで続き、大いに盛り上がるかなという気がしました。

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