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時間を受け継ぐ。

​母の実家は、享保年間に建立された寺である。

そこに代々伝わっていたという菓子器が、今、私の手元にある。

​色絵の仁清写しと思われる。おそらく江戸時代のものだろう。きちんと鑑定してもらったわけではないので、いつ作られ、いつ母の実家にやってきたのか、正確な歴史はわからない。

​祖父が亡くなり、遺品を整理したとき、母はこの器を持ち帰った。

「これだけは絶対に持ち帰る。価値があるものだから」

母の言う「価値」が、骨董としての評価だったのか、代々寺に伝わってきた時間の重みだったのかは、今となってはわからない。あるいは、その両方だったのかもしれない。

​それから長い間、その器は実家の棚に飾られていた。

​やがて母が亡くなった。

今度は私が、実家に残されたその器を見つめ、「これは絶対に持って帰ろう」と思った。

​この器が古美術の市場でどれほどの価値を持つのか、私にはわからない。ただ、母が祖父の遺品の中から「これだけは」と選んだものを、そのまま誰もいなくなる実家に残しておきたくなかった。母が大切だと思ったものだから、私が引き継ぎたい。そう思ったのだ。

​母はこの器に何かの価値を見つけた。

そして私は、「代々受け継がれたもの」であることに価値を感じている。

​こうしてその器は、母の実家である寺から母へ、母から私へと渡ってきた。

​私の元へやってきてから、私はこの器を「使う」ことにした。

実家ではずっと飾られていたけれど、これは本来、器なのだ。だったら、私はお菓子を盛ろう。

​自分で作った練り切りを乗せ、お茶を点てる。

お菓子を乗せた菓子器とお茶を畳の上に並べ、静かに眺めていると、不思議な気持ちにとらわれる。

​この器には、昔どんなお菓子が盛られていたのだろう。
どんな人が、どんな表情で使っていたのだろうか
祝いの席だったのか、それとも、今日のような何でもない日の午後だったのか。

​何もわからない。
けれど、この器が私の生まれるずっと前から誰かの時間の中にあったのだと思うと、いつものお茶の時間が、少しだけ深く、濃密になる気がする。

​私が古い器に惹かれるのは、きっとこういうところなのだ。

きらきらとした分かりやすい贅沢とは違う。
古い器を一つ出し、自分で作ったお菓子を載せ、お茶を飲む。そして、器の向こう側にある「見知らぬ時間」に思いを馳せる。それだけで、わずか十五分のお茶の時間が、百年分の時間を含んだような豊かなものになる。

​私にとっては、それで十分に贅沢なのだ。

​もちろん、古い器だから割るのが怖い気持ちはある。手を滑らせるかもしれない。何かの拍子にぶつけてしまうかもしれない。

​それでも、私は使う。

大切に、大切に使って、もしもいつか割れてしまったなら、そのときは仕方がないと思っている。どんなものにも、いつか終わりは来るのだから。

​最後が来ないように箱の奥へしまっておくより、最後が来るその日まで、この器を「器」として全うさせてあげたい。菓子器なのだから、美味しいお菓子を盛りたいのだ。

​だから、この文章を残しておくことにした。

​いつか器そのものが形を失う日が来ても、こんな器があったこと。先祖代々伝わっていたこと。祖父が亡くなったとき、母が「これだけは」と抱えて帰ったこと。母が亡くなったとき、私もまた「これは絶対に」と持ち帰ったこと。そして私が、自分で作った和菓子をそこに盛ったこと。

​その記憶を、記録として留めておきたかった。

​器は何も語らない。自分がかつてどこにいたのかも、誰に使われ、どれほど愛されていたのかも話してはくれない。だからこそ、いま私がこの器をどう使っているのかを書いておこうと思う。

​何でもない今日という日も、私はこの器にお菓子を盛る。

いつか最後が来る、その日まで。

​大切にしまっておくのではなく、大切に使う。

それが、私なりのこの器の受け継ぎ方なのだ。

​#エッセイ #器のある暮らし #古道具のある暮らし #手作り和菓子 #おうちカフェ #受け継ぐもの #ライフスタイル

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