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写真芸術に対する問いと現時点での仮説

25/2/16追記)購入件数が80件を超えてました!ありがとうございます

2年生最後の講評や重なっていた仕事を終え、ひと息つくことができるようになった。思えば旅から帰ってきてからは、講評に出す年間制作につきっきりで、旅先で考えた取り組みや企画なんかは、全て先延ばしにしてしまった。こういう時、自分が自分として生まれなければ、もう少し幸せだっただろうかと、無い世界に情景を見る。何はともあれ、ある程度良い形で最後の講評を終えることはできたし、新たな問いが発生したのだから、この期間も無駄じゃなかったと思える程度の余裕はある。取り急ぎ問題なのは、その"問い"が脳に靄をかけ続けているということだ。

"問い"から作品が生まれることは明白ですが、その作品を作る行為、作られたものにすら問いを投げかけている時が最近です。批評家やキュレーターの批評やレビュー、写真家の作品をこの2年間でよく見るようになりました。真面目な同級生に比べたら数は少ないですが、それまではアカデミックな芸術の話や批評に触れる機会がなかったので、脳に新しい問いや指針が生まれることになりました。その問いや指針が生まれ続ける中で、写真を作品としてまとめ上げ、評価を頂く場所へ発表であったり、講評のような機会での批評を受けると、写真を用いた表現が、アートシーンやアカデミックな場で"作品"、または"良い作品"として認められることの難しさ、それに付随する不可解さを感じることがあります。決定的に音楽や絵画、詩とも違うその基準に、今まで写真芸術をロクに見てこなかった自分は疑問を覚えたのです。普段であればこんなこと、自分の中で仮説を作っておいて置けるのですが、こればかりは、より巨大な知識を持たれる方に、納得のいく答えを出すためのヒントが生まれないかと思い、この場にしたためています。

高一の頃に作った学校教育に対する反抗の写真(全然良くないですね)
思い出アルバムの延長線でしかない写真だってある

写真作品が良いとされる時の条件

 "現代写真における良い作品の条件"という命題に脳が左右されています。とはいえ、書き出せば書き出すほど例外や自己欺瞞のようなものが生まれて、純度の高い言葉が出てきません。そこには"色がフィルムライク"だとか、"中判っぽい"とかの言葉は無く、所謂"社会性"であったり、"エンパワメント"であったり、"メディウムを写真にした必然性"が重視されているように思えます。私はそこに、"写真"が個人のアルバムから作品に、映像や絵画などに代替されない芸術に変わる境界線があるという仮説を持っています。第八芸術とでも言えば、大袈裟ですが伝わるでしょうか。要は他のメディウムに代替され辛い役割やビジュアル、コンテクストを持つことが、写真が"作品"となる条件なのではないか、という話です。(既存意識へのカウンターという側面が芸術には付き纏うので、必ず例外はありますが)

逆説的に言えば、その要素が作品に介在していなければ、良い作品とは言えないということになります。こう二元論で片付けてしまえば、物議を醸しこのnoteの売上は伸びると思いますが、その手には乗りません。これについては後半記すとして、まずは上記の条件を満たしていない写真が、なぜ良い作品にならないのか、仮説から見ていただきたいと思います。

 さて、まずはこれらの条件を満たしていない写真といえば、日常のスナップや友達と遊びに行った時の写真をただまとめて、後付けで「私はこういう人間で〜」「写真とは〜」のようなステートメントやポエムを添えるものでしょうか。自分で言ってて耳が痛くなってきます。具体例を交えて、これらの条件について説明します。

ななしきが昔作った黒歴史作品から見る、質の悪い作品になる要因

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