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読書メモ:『ニーナ・シモンのガム』―モノに思いが宿るとき

ニーナ・シモンという名前に惹かれ、何も考えずに飛びついた――ウォーレン・エリス著『ニーナ・シモンのガム』(佐藤 澄子 訳/2ndLap)。読み始めて戸惑った。実は、シモンに焦点が当てられているわけではなく、著者ウォーレン・エリスの思いを詰め込んだ、唯一無二のガムをめぐる物語。副題にあるとおり、「失われたものと見つかったものをめぐる回想」である。

ことの発端は、1999年にロンドンで開催されたメルティング・フェスティバル。シモンが口から取り出してピアノに押し付けたガムを、コンサート直後にエリスが取りに駆け寄り、やはりシモンが使ったタオルにくるんで保存したという。しかも20年間も! なんだこりゃ感(いい意味で)半端ない。著者の熱い思いに触れ、また、ガムの行く末が気になって、どんどん読み進められる。

共に音楽活動を行っていたニック・ケイヴが、自身の「ストレンジャー・ザン・カインドネス(Stranger Than Kindness)」展(2020年、デンマーク王立図書館で開催)に何か展示するものはないか?とエリスに聞いたことをきっかけに、ガムをめぐる物語が動き始める。それまで誰も知らなかったガムの存在が静かに、でも確実に、公になっていく。その過程でエリスは、音楽をつくっているときと同じ感覚を味わったという。「アイデアに命が吹き込まれ、つくった者の手を離れて意味を持って生き始める」のだ。<エリスのガム>は、やがて<みんなのガム>に、「聖なる遺物」になった。

写真もたっぷり載っている。拳を高く突き上げたシモンの姿、ガム入りタオルを保存したタワーレコードの黄色いビニール袋、ガムのレプリカ作製のプロセス・・・。上質な紙は写真のためだと思うが、その分、ずっしりと重く、歳を重ねて腕力が衰えたわたしには少々こたえる。それでも手にとって、じっくり眺めたくなるような写真ばかりだ。

こちらの記事に写真がたくさん掲載されている。

「伝説の」コンサートの目撃者たちの言葉から、90年代末になってもシモンが聴衆を魅了し、「宗教的」、「スピリチュアル」な体験とまで言われるほどの瞬間を生み出す存在だったことに、少し驚き、そしてうれしくなった。というのも、以前、ドキュメンタリー『ニーナ・シモン~魂の歌』では、リベリアからヨーロッパに移った後のシモンがボロボロの状態で、友人たちに救われ、なんとか生き延びる様子が描かれていたから。

このドキュメンタリーを見る前、わたしの中のシモンは、公民権運動の中心で心の叫びを歌い上げていた。長らく未発表で、2021年に公開された『サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビで放映されなかった時)』でも、ムーブメントの中心にいて、聴衆の心を奮い立たせる存在だった。
でも、実際には、家庭内暴力や精神的苦悩に襲われ、厳しい人生を送っていたと知り、衝撃を受けた。友人たちのおかげで、復活コンサートではかつての威厳を取り戻していたが、同時に、その背後にある脆さは隠せないように感じられて胸が痛くなった。

話を本に戻すと、普通ならゴミでしかない、噛んだあとのガムが、人を惹きつけ、巻き込み、物事を動かす力となっていく――その変容のプロセスがとても印象的だ。ガムはもはや、ただのガムではなく、思いを託された<かたちある記憶>になっていた。
いまや<断捨離>が日常に入り込み、わたしのようにガラクタをこっそり溜め込んでいると、肩身の狭い思いをすることもある。でも、このガムの物語を読んでいると、胸を張ってもいいのかもしれない、という気持ちがふと湧いてくる。

もちろん、エリスのガムと、わたしが大事にしているようなガラクタとを、同列に語るのは少し乱暴かもしれない。それでも、ある人にとってゴミのようなモノが、別の人にとっては記憶や思いのこもった宝物になる――そんな瞬間は、きっと誰にでもある。物の価値は最初から決まっているのではなく、人の思いがそれに<宿る>のだ。
本人にしか意味のわからない、小さなかけらのようなモノ。忘れかけていたけれど、なぜか捨てられなかったモノ。存在すら忘れていたのに、手に取った瞬間に記憶がよみがえるモノ。そんなモノたちを、わたしもひそかに抱えて生きている。

いつか<終活>という名の発掘作業をするとき、そうした宝物と再会する日が来るかもしれない。それは、モノに宿る思いとの再会。待ち遠しい。

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