痛快なだけではない、恐るべき墨家の戦争のあり方 酒見賢一『墨攻』
中国の戦国時代に活動した墨子と、その理論から生まれた墨家。歴史上長らく忘れられてきた彼らを題材とした、酒見賢一の中編小説です。大軍に攻められた小城を守るため招かれた墨者・革離。守城のために奔走する革離の戦いの行方は……
戦国時代、趙に攻められることになった小国・梁より、守城の依頼を受けた墨家。しかし三代目の指導者・田襄子は秦と結んで天下を統一するという野望を持ち、これに強く反発した墨者・革離は、田襄子の命に逆らい、ただ一人、梁城に向かいます。
本来であれば複数人で担当する守城を、ただ一人で担当することになり、超人的な努力で奔走する革離。すべての指揮権を手にし、身分の違いも老若男女の区別もなく軍として編成する革離に、反感を抱く城主の息子・梁適ですが、革離は意に介さず準備を進めていきます。
そして訪れる趙軍の巷淹中将軍率いる二万の大軍による攻撃開始の日。しかし革離の指導の下、城の防衛力を高め、兵器を整備した梁城は動じません。さまざまな攻城法を未然に防いだ革離の活躍により、ついに趙軍の撤退も目前に迫るのですが……
中国の戦国時代に花開いた数々の思想の中でも、墨家は「兼愛」「非攻」といった思想で、特異な位置を占めます。「兼愛」は儒家の愛が家族愛であったのに対して、これを差別的と否定し、他者すべてを愛する一種の博愛思想。そして「非攻」は攻撃による解決――つまりは侵略戦争を否定する非戦論、平和主義といえます。
しかし、これだけ見れば非常に理想主義的な墨家ですが、防衛のための戦いは否定していません。それどころか彼らは守城の理論・技術を磨き、攻められる側の国に力を貸してきたと言われます。
それは、本作の冒頭でも挿入されている、名工匠・公輸盤の開発した雲梯(攻城梯子)が宋攻めに使われようとしたのを、墨子が模擬戦で完封し、宋国を救ったエピソードにも表されています。
本作は、そんな墨子/墨家の思想をさらに先鋭化した形で、彼らを恐るべき戦争技術者集団として描き出します。
それは兵器開発法や築城術、戦法・戦術の開発だけでなく、組織運営や人心掌握術にまで至る広範なものであり、本作において図らずもそれを一人で担うことになった革離は、その墨家のあり方を象徴する存在と言ってよいでしょう。
そして物語においては、そんな戦争技術者というべき革離の力が遺憾なく発揮され、数が少ないどころか質も低い――それどころか庶民や女性も動員せざるを得ない状況下で、名将が率いる二万の軍を次々と打倒していくのです。
(とくに、敵の隧道による城攻めに対するカウンターの見事さは、作中でも名場面といえるかもしれません)
優れた指揮者の奇想天外な軍略によって、寡兵弱兵の側が大軍を相手に痛快な勝利を収める――というのは、これはもう、古今東西の軍記物の定番ではあります。本作も一見この定番に則った作品であるように見えますが、しかし物語は終盤において思わぬ展開を辿り、意外な結末を迎えることになります。
それは物語として予定調和を避けて、奇をてらったもののように感じられるかもしれません。しかし作中において描かれる革離の姿が、英雄然としたものではなくむしろ淡々とした、それだからこそどこか恐ろしいものに見えることを思えば、初めからこの結末に向けて物語は描かれていたと理解できます。
「兼愛」は、特定の人間だけを優遇して愛することではなく、すべてを平等に愛すること。これは見方を変えれば、すべての者を分け隔てなく扱うこととも言えます。そして負けたとしても撤退すればいい侵略戦争と異なり、決して負けてはならない防衛戦争である「非攻」と、この「兼愛」のあり方が結びついた時に何が起こるのか――勝利のためであれば、個人の想いを塗りつぶしていく墨家の戦争のあり方を、本作は生々しく描き出すのです。
(それは物語の終盤に描かれたある愛のあり方が、儒家のそれに近いものであったことと対照的です)
革離の戦いの鮮やかさに感嘆しつつ、しかし同時に違和感と薄ら寒さを感じる――そんな感覚は、作中で巷淹中が自分でも理由なく感じた『墨者はこの世から抹殺すべきだな』という想いと、おそらく繋がっているものなのでしょう。
そしてそれは、本作の後日談的に描かれる、墨家消滅の謎に対する一つの答えでもあると感じられるのです。
しかし、森秀樹による漫画版『墨攻』の中盤以降は、革離の次なる活躍が描かれていて――一体どういうことなのかを含め、漫画版についてはまた稿を改めて紹介いたします。
