『天晴!な日本人』 第158回 山川菊栄(4) 「論客として不動の存在になる!」
この事件は、日陰茶屋で野枝と神近がバッティングした挙句の凶行でした。神近は長崎の生まれですが、幼少の頃から気が強く、里子に出された先でも「手に負えん」として帰されています。顔を見ればなるほど!とわかります。
勉強好きで女学校に進学しましたが、同級生には戦後初の女性大臣となった中山マサがいました。
勉強を続けたい一心で上京し、あの竹久夢二(一八八四~一九三四)宅に居候します。入ったのは津田梅子の女子英学塾(今の津田塾大学)で、食事中もトイレの中も単語帳を見ながらでした。
『青踏』を読んで、社員にして欲しいと、らいてうに手紙を出し、社員になりますが、それが学校にバレて退学となります。『青踏』の主張は、社会では「ろくでもない」と捉えられていたからです。
英語が話せたので、『東京日日新聞』の記者として外国人にインタビューし、頭角を現します。
事件で二年の服役をしました。戦後は社会党の衆議院議員となり、「売春防止法」の成立に努力しています。
事件については、大杉に対してすべての生活費を出していた神近に正当性があり、気の毒でした。
菊栄は理論として高いレベルを持つ均の人柄にも惹かれていきます。均の方も、この鋭い知性を持った菊栄に惹かれ、二人はこの年の一一月三日に結婚しました。
この日は菊栄の二六歳の誕生日でした。翌七年九月、長男の振作が産まれますが、結婚の翌月から菊栄は結核と診断され、鎌倉に転地療養していた間での出産です。妊娠した時も、出産は無理と言われたのを振り切って産んだのでした。菊栄は意思も強い人だったのです。
この頃の結核は不治の病とされ、菊栄も死を覚悟しましたが、均の深い理解と配慮もあって、細々と生きていました。また、世間が社会主義者に厳しかったので、菊栄は母からペンネームで山川姓を使わないようにと言われています。
均との暮らしは貧しさとの共生でした。ある月の中旬に、菊栄は均から、「今いくら、うちにありますか?」と問われて「一〇円」と答えたところ、「一〇円?そりゃ素晴らしい。大した金持ちだ。月の中頃に一〇円札を持ってるなんて、我々の仲間にはないでしょう。ひとつみんなに話して羨ましがらせてやるかな」と言ったほどです。
大正六(一九一七)年の物価は、市電が五銭(一円は一〇〇銭)、銭湯大人四銭(東京)、芥川龍之介(一八九二~一九二七)の月給が一〇〇円、ソバ五銭、大卒初任給四五円、巡査月給二〇円、均や公務員の月給七〇円というところでした。
それにしても均の言葉づかいは優しいですね。結核なので、菊栄の母が離婚してくれてもいいですと伝えましたが、均は世話しますと答えました。
菊栄には、「我々の戦いは長いのだ、あせることはない。今の我々の二人の仕事は、なによりもまずあなたの健康を取り戻すことだ。僕はそのためにどんなことでもするから、あなたもそのつもりで身体を直すことだけ考えてくれ」と言っています。いい男ですね、山川均。
大正六(一九一七)年には大森に転居しました。均は「売文社」に勤めていましたが、ここでは『新社会』という機関紙を発行して、社会主義や、世相、国際情勢、政治についての論稿を載せていました。
「売文社」は明治四三(一九一〇)年に堺枯川が社会主義者らの生計の道を確保するために設立した会社で、大杉、荒畑、山川らが紙上で論評を発表しています。
大正七(一九一八)年、「売文社」とは別に、均と荒畑は労働組合の組織化促進のため、『青服』というタブロイド紙を刊行しました。おそらく工場労働者の「ブルーカラー」から青服と命名したのでしょう。これは三号で休刊させられました。官憲による検閲が厳しかったからです。この夏、均と荒畑は『青服』の論稿で裁判となり、禁錮四ヵ月を言い渡され、一〇月四日に入獄しています。
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無期懲役囚、美達大和のブックレビュー
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