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G.M.ボシャンの失墜~忘却のソビエト微生物学~

最近、ソビエトの微生物学者G.M.ボシャン(1908-1997)に注目しているのは周知の通りである。

「III 細菌がウイルスに、ウイルスが細菌に変わる~ボシャンの研究~」  In: 現代のソヴェト医学. 蒼樹社; 1953. ;p.289~
PROGRESOS CIENTIFICOS EN VIRUSOLOGIA. CIA; :199.
※現時点(2025/10)でこの黒潰れ以外の写真は見付けられず

彼に関するロシア語の記事を発掘したので、DeepL+修正訳で記事にした。滅茶滅茶頑張ったので是非投げ銭応援をお願いします。切実に。


ゲヴォルグ・ムナッカノヴィチ・ボシャンの名は突如としてルイセンコ主義者達の頭上に煌く星の如くに出現した。1948年時点の科学界で彼は未だ無名であったが、1949年末には一躍時の人となった。だが、この星は一等星ではあったものの、長く天上に留まることはなかった。彼の人物像を天文学用語で例えるなら、当に「流れ星」だと言えるだろう。

事の発端は1950年4月20日付『Литературной газете 文学新聞』に掲載されたボシャン自身の記事である。この記事には『От редакции 編集部から』の補足があり、彼の研究への称賛が述べられていた(当時の編集部科学部門は哲学者M.B.ミーチンが担当である)。

M. B. ミーチン(Марк Бори́сович Ми́тин 1901-1987)
ソビエトの哲学者、政治家、社会活動家。マルクス・レーニン主義哲学の信奉者。弁証法的・史的唯物論、ブルジョア哲学批判[4]に関する著作

編集部の捕捉には、ボシャンの書籍『0 природе вирусов и микробов ウイルスと微生物の本性』(多大な関心を呼んだこの書籍については後述)に関してこう論評されている。

本書に提示された見解は、濾過性ウイルスや微生物の本性、微生物の形態に関する定説に抜本的な刷新を迫るものである。

また、5月22日開催の会合『по живому веществу 生きた物質』の場にて、レペシンスカヤ女史自身の教義を発展・進展させた科学者にボシャンの名が挙がった。彼の研究は当時のミチューリン生物学の狂信者達から絶大な科学的業績だと絶賛されたのである。特にA.N.スタディツキーはこの件を熱心に布教し、ボシャン関連の論文を3本も発表している。

A. N. スタディツキー(Александр Николаевич Студитский 1908-1991) 
ソビエトの組織学者、生物科学博士、スターリン賞受賞者。作家、SF小説の著者。

その1年前からスタディツキーは自身の名著『Мухолюбы 蠅愛好家-человеконенавистники 人間嫌い』でこう述べている。

メンデル遺伝科学(原理)の発展史は、資本主義社会の下にある科学と、ブルジョア社会の退廃的イデオロギー全体との融合を嘗てない程明白に示している The history of the development of Mendelian science (principles) of heredity demonstrates with unprecedented obviousness the bond of science under capitalism with the entire decadent ideology of bourgeois society

А.Н. Студитский.
Мухолюбы-человеконенавистники.
Журнал «Огонек» 13 марта 1949 г. N'11 (1136), стр. 14-16.
См. также перевод :
А.N.Studitsky.
Fly-lovers and Man-Haters.
Journal of Heredity, 195, рр. 307-314.

スタディツキーの(別のイデオロギーに基づく)発言は、資本主義に反するイデオロギーから誕生した科学の正体を(恐らく無自覚に)明示している。

多くの人にとってスタディツキーからの称賛とは即ち、ボシャンが上層部に傑物と認められたことを意味した。つい最近にも、普遍的な指導者たる国家の父がレペシンスカヤの書籍に多大な影響力を認めたようにである。ボシャンを評価する声は、とある獣医師達の著書が党の主要雑誌『Большевик ボルシェビキ』誌で至高の評価を得たことで益々高まることとなる。

(※訳者注)オリガ・レペシンスカヤ(1871-1963)
生命の最小単位こと「生きた物質(living substance)」による細胞新生説の提唱者。ガストン・ネサンのソマチッドと同じ生命体を指していると思われる。ちなみに重曹の健康効果を最初に主張した人物でもある。同時代に同姓同名のバレリーナがいるが勿論別人。

この本の主張は丸ごと党の指令…基本方針…の扱いとなった。従って『ボルシェビキ』誌に寄せられた賛辞の声が以下の要請で以て締め括られたことは重大な意味を秘めていた。

科学が暗黙裡に隔絶したウイルス界と微生物細胞の形態との関連性を追究すべく微生物学者を総動員する必要がある。

著者のジュコフ=ヴェレジニコフマイスキーカリニチェンコは、G.M.ボシャンが打ち建てた新たな法則は科学知識の宝庫に永遠に刻まれる不動の地位を確立したものと明言している。

今や…臆病な迷走を経たこの問題は間も無く終焉を迎えるだろう。

ジュコフ=ヴェレジニコフ(Николай Николаевич Жу́ков-Вере́жников 1908-1981)

そしてボシャンの研究を基礎に、近い将来の科学は人間や家畜病の治療法に巨大な変革を迎えるという確信を表明した。

これ等(非細胞性)生命体の追究こそ、医療業務の実践、並びに感染症予防・診断・治療に新たな方法を導入する上で極めて重要である。

同3名は党の中央理論誌にも記事を寄稿している。

天才スターリンは我々に進むべき道を照らしてくれた。我々の科学が得た機会を全うすることは、ソ連の科学者達の名誉の問題である。

ボシャンの著書の出版に伴い、彼の構想を主要報道機関が手放しに支持したことで、科学界にも大きな反響を呼んだ。だが彼自身の名前を知る者は殆どおらず、また他の作品を科学者達は認知していなかった。

文献を精査すると、戦前の1940年に、一般的な馬伝染性貧血病の診断法に(確実で有力な論拠も提示せず)異議を唱える小論を発表していることが分かる。開戦に伴って科学活動が中断され、次の出版物が1947年に世に出ている。これも小論形式であり、科学界に決定打を与えるものではなかった。

そして1949年に話題の書籍が出版された。この本の中で、世界中の科学界で確立済みの見解に反する、驚くべき主張が展開されている。全145頁構成で、99枚の図版(主に写真)と3つの表が掲載されている。著者の一連の発見に繋がる最初の実験日が1948年3月17日であることに驚かざるを得ない。つまり、僅か3週間で9つの画期的な発見を成し遂げたことになる

科学に対するこのような特攻攻撃は自明だが反発を招き、また不適切である。だが一方、既に本書序文で(ボシャンが勤務する)Всесоюзный институт экспериментальной ветеринарии 全ソ連実験獣医学研究所の所長P.レオノフはボシャンの研究を「先進的なソビエト科学への斬新かつ貴重な貢献であり、生物学上の偉大な発見に於ける祖国の優位性を断固として支持するもの」と評しており、読者に向けた以下の推薦文を載せている。

本書が新たな研究の潮流を生む起点であることに疑念の余地はない。…この潮流は、著者が反論の余地なく立証した(現代的観点では)逆説的事実を追認するのみならず、近い将来に理論的にも実践的にも最重要となる発見の数々を齎すことだろう。著者が提示した事実の多くは、全ソ連実験獣医学研究所が客観的な検証により完全に裏付けている。

まず第一に、ボシャンはウイルスの変換を報告している。その原始的構造と極小さに於いて細菌の細胞とは比較にならないほどの微小な存在が真の細菌、即ち「顕微鏡で観察可能な微生物形態」へと変化し、またその逆変換を経てウイルスへと戻るというのだ。彼は、微生物細胞からウイルス(非細胞形態)へ変換する前に微生物は結晶構造に結合し、その結晶はウイルスへと分解され、またウイルスから微生物細胞への逆変換でも全く同一の結晶化が確実に生じると述べた。

この変換はボシャンが研究対象とした馬伝染性貧血ウイルス Equine Infectious Anemia Virus(EIAV)のみならず、同僚のM.S.シャブロフM.P.ポポヴィヤンツ、また両者とは独立にS.S.ペロフによって、他のウイルスや細菌でも発見されたという。

更にはボシャンは、これ以外の生物学上の重大原理に纏わる一連の発見も独力で成し遂げたと主張した。一切の皮肉を抜きに、科学者がその生涯の裡にこれらの発見を一つでも達成できれば、その名は科学界に永遠に刻まれることだろう。

ボシャンの発見はどれも非常にユニークであり、その著書は間違いなく人類史上最も傑出した一冊に数えられる筈であった。その全てを網羅するには、ボシャン自身の言葉を引用することが最善である。何しろ彼は、その突出した発見を曖昧さや疑念の余地なく、明確かつ明快に述べたのだから。

発見①「ウイルスから微生物への変換は不可能という観念は根本的に誤りであり、その根底には形而上学的な思想がある。我々の研究結果は…この観念を否定するものである。」

発見②「微生物の細胞それぞれが新たな微生物細胞を産生し得る数千ものウイルス粒子で構成される。」...「ウイルスから微生物への変換は容易ではない。前以てウイルスを栄養培地へと徐々に"馴らす"必要がある。」

発見③「我々の実験結果は、"ウイルスの増殖には生細胞が不可欠"との定説が誤りだと示しているウイルスは血漿、血清、組織や臓器の体液中で効率よく増殖する。」…「ウイルスは人工栄養培地で増殖可能である。

発見④「定説では、細菌が持つアレルゲンとは…死んだ微生物細胞の構成成分である。アレルゲンであるアネミンの研究結果により、その全シリーズから…馬伝染性貧血病の原因となる病原体の培養物が再度分離可能だと確認された。」

発見⑤「バクテリオファージは超顕微的かつ独自の細菌寄生体とするド・エレルの見解が誤りだと判明した。

発見⑥「…抗生物質が無機物であるという現代の説は誤りであり、科学的根拠がない。抗生物質とは、その産生元の微生物の濾過性形態に他ならない。

発見⑦「…従来の"無菌免疫"構想は誤りだと判明した。凡有る感染症の免疫とは、非無菌性の感染性免疫である。

発見⑧「悪性腫瘍から微生物細胞が分離された。胃癌患者3名、口腔粘膜癌および膀胱癌の患者2名の血清、並びに乳腺腫瘍の濾過液から均質な桿菌培養物が得られた。」

発見⑨「従来まで無菌とされた製剤から生きた微生物が分離された。…これは、この件に関するルイ・パスツールの有名な実験結果への反証である。」

ボシャンは自身の発見を軽快な筆致で語る一方、その理論を裏付ける論拠を一切提示していない。この本に研究法の詳細や参考文献リストなどのセクションも皆無だが、同僚や先駆者達の名前が散見され、また参照の多くが興味を唆るものだった。専門家は皆参照先の情報源を確認したかったことだろう。

本文には、低品質の顕微鏡で撮像した小さな斑点や結晶、何等かの暗い粒子を写した不鮮明な写真が添えられている。説明欄には、ウイルス由来の、或いはその変換途上にある微生物細胞だと記されている。

(※訳者注)PROGRESOS CIENTIFICOS EN VIRUSOLOGIA. CIA; :199.より
ボシャンが書籍に掲載したであろう写真の数々
黒潰れはリンク先InternetArchive側の問題

写真の大半は判別不可能だが、写真の説明欄には
『口蹄疫ウイルスより分離後に結晶化した微生物培養物の全体像』
『馬伝染性貧血病原体の顆粒形態』
と付記されている。だが動物の検査法やサンプリング法、検体の調製法、顕微鏡技術、対照群の設定等、(彼の著書がまさにその扱いを受けた)"科学論文"に必須となる詳細事項の記載はない。

こうした明白な欠陥の一方で、ボシャンは瞬く間にソ連最高学位となる博士号を取得するに至った。レペシンスカヤペロフヴォルフェルツコロブコワらが彼の結論の完全な正当性を訴えた。レペシンスカヤに至っては彼を"科学界の革命児"、"崇高な伝統の真の継承者"、"真のマルクス・レーニン主義者"と認めるほどであった。

1950年5月6日の『文学新聞』には相変わらずボシャン賛美が続き、6月8日の『Медицинский работник 医療従事者』誌の見出しは「ボシャンの書-我国の、また恐らくは世界の科学界に於ける秀逸なる現象」、また7月の『Огонёк 微かな灯』誌や8月の『Новый мир 新世界』誌でも称賛が続いた。

(※訳者注:称賛記事の一例)1950年5月28日『Ульяновская правда ウリヤノフスクの真相』誌よりG.M.ボシャンの『ウイルスと微生物の本性』の記事

1950年には数編の科学雑誌にもボシャンへの好意的な書評が掲載された。"ゲヴォルグ・ムナッカノヴィチ"の名は栄光の光に浴していた。

だが同年の1950年、著名な生化学者V.N.オレホヴィッチが週刊誌『Вопросы медицинской химии 医化学の問題』誌に対照的な書評を掲載した。

ヴァシリー・オレホヴィッチ(Василий Николаевич Орехович 1905-1997)
ソビエトの科学者・生化学者、医学博士

彼は「画期的作品を謳うこの書籍の内容は人工物に他ならない」とボシャンの無知蒙昧ぶりを暴き、また抗生物質をタンパク質の性質を持つ生きた構造物に分類する荒唐無稽さを指摘し、そして癌の微生物性という発見にユーモアを交えて言及し、「(悪性腫瘍の微生物という)巨大な発見をして尚、なぜ全てを投げ打って癌の問題解決をしなかったのか?」と冷笑した。更に彼は以下の苦言を呈している。

G. M. ボシャンの著書が殊更に不愉快である所以は、彼の作品が現代科学の成果を悉く忽せにし、真の生物学は万事己が始原と謳う点にあると指摘せねばならない。

この著名な生化学者の指摘をボシャンは一切受け入れず、『医化学の問題』編集部に向けて「オレホヴィッチは自身 ボシャン独自の実験結果を理解できる境地にはない」という旨の、自尊心と非難に満ちた数ページに渡る返信を送った。彼は自らの名を卓越した数々のロシア人科学者達と並べて憚らず、論争に於ける学究的体裁の外観を微塵も案じていなかった。批判者達の立場に評価を下すことに躊躇う様子もなく、各段落に侮蔑と威嚇を交えてこう述べている。

V.N.オレホヴィッチの書評は的外れで先入観に満ちている。…彼は明らかに前時代的な科学のドグマを擁護し、ソビエト微生物学に萌芽した新たな教義と闘争する道を選んだのである。

彼は「有機的生命は無生物や無機物より恒常的に誕生するという…我等が科学の至上命題」を受容せぬ者達を総じて「神秘主義者、理想主義者、保守主義者」とした上でこう述べた。

V.N.オレホヴィッチは文学や歴史の知識という上辺の豊饒性で以てその科学的非力を取り繕うが、その実、科学的研究でなく思弁的な語法に終始している。…彼は意識的かつ意図的に事実を歪曲している。…オレホヴィッチは中傷的な大量の藁人形論法で自身の貧困な理解力を粉飾している。…本書に提示した事実を故意に偏見を抱えたまま幾度も歪曲してきた。

その通り。こうした形式の科学論争は、古典的(或いはボシャンの云う「前時代的」)科学には馴染みがない。無作法ながら至極真当な指摘をする相手をボシャンは「冗長」で「廃れたドグマを推進」する「保守主義者」/「反動派」/「コスモポリタン」だと非難し、その矛先は次に政治面に向かった。

V.N.オレホヴィッチの決定的な過ちはミチューリン生物学の真髄に対する無理解にある。彼は人類、取分けソ連社会が担う革命的な責務に無自覚であり、また実質的に容認していない。…前時代的科学が100年かけて為し得なかった偉業を、ソ連社会の環境下で我等の科学が10~12年で達し得ることに不信を抱くオレホヴィッチこそ奇妙に思える。この類の懐疑論者が常に誤算してきたことは周知の事実である。彼もまた同じ運命を辿ることになろう。

これで批判者を完全に封じたと見做したボシャンは『書評者への返信』を次の文章で締め括った。

ソ連の科学者の中にはその最先端の科学の為に闘争する者もいれば、保守的な者も、更には反動派の者もいる。我等は惰性や保守主義、科学の停滞、反動派、コスモポリタニズムに対し、常に粘り強い闘争を繰り広げねばならない。我等が科学が誇る唯物弁証法、レーニン・スターリン思想、創造的なミチューリン生物学の為に闘う必要がある。研究活動では弁証法的手法に精通し、その知識に基づいて行使せねばならない。結論、我々の作品から何等の先進性も見出せなかったV.N.オレホヴィッチの書評には、天才レーニンの言葉で以て応じるのが最適だろう。
читать - читал 読むには読んだ, писать - тоже писал 書くにも書いた, а だが понять - не понял 理解はできなかった

(※前半戦終了:DeepL後修正翻訳完了)


(※後半戦開始:以降は未だDeepL訳ベタ貼り)

しかし、ボシャンが「書評者への返答」を執筆し、その返答が印刷されている間、改革者の足元はますます揺らいでいた。様々な雑誌に、彼の著書に対する批判的な記事が掲載され始めたのだ。特徴的なのは、ほとんどの初期の書評(オレホヴィッチの立場とは対照的に)では、批評家たちがボシャンの技術的な欠点にのみ注目していたことだ. 彼のアイデア自体は非難されるどころか、むしろ歓迎さえされていた。なぜなら、これらのアイデアは「ミチューリン生物学」の真髄であり、ルイセンコの主要な教義と完全に一致していたからだ。

小鳥がカッコウに変わるという発想は、単純なウイルスが単純な細菌に変わるという発想よりも、それほど非現実的なものだっただろうか?免疫の自然性や癌の起源に関する空想を否定することは、ルイセンコによる遺伝子へのタブーよりも冒涜的だっただろうか?レペシンスカヤの生物物質に関する宣言は、より建設的だっただろうか?そして、ルイセンコ主義者たちの実験は、より精巧で正確だっただろうか?

では、なぜ貧しいボシャンが批判の的となったのか?彼は一体何をしたというのか?一つの理由はすでに述べた:この自称科学者の野望は計り知れないほど大きかった。無名の獣医師が、あまりにも多くの問題に同時に手を出したのだ。一方、彼の傲慢な口調は多くの人々を苛立たせた。

新しいヒーローの傲慢さは、あの激動の時代でさえも、非常に異例でした。その度重なる自己賛美と、科学の根本的な立場を根本から覆そうとする主張は、ミチューリンの学説を支持する、経験豊富な人々でさえも、多くの人々を不快にさせました。商品は過度に高い価格で販売されており、販売者は明らかに詐欺を行っていました。

しかし、それでもなお、主な原因は別のところにあった。ボシャンは本の中で、ルイセンコの著作を引用せずに済ませ、あらゆる問題において自身の優先権を主張した。そのため、トロフィム・ルイセンコ自身が、彼を潜在的な競争相手と見なした。

この隠された要因が、危険な新参者に徐々に圧力をかけ始めたことを、1951年1月5日に全ソ連微生物学者協会会議で、ルイセンコと親しい人物であるS.N.ムロムツェフが語った。彼は、ボシャン本の原稿がまだ議論の段階にあったときに、ルイセンコがそれについて否定的な結論を出したと語った。ルイセンコは、ウイルスが微生物細胞に再生する問題について十分に検討されておらず、このプロセスに対する外部環境の影響が考慮されていないことを、不満の表向きの理由として挙げた。

ムロムツェフの報告書の出版されたテキストでは、この理由は次のように説明されていた。

「T.D.ルイセンコは、G.M.ボシャン原稿に対する書面による結論および口頭での会話の中で、このような主張は、生体とそれに必要な生活条件との不可分の統一性についての誤解に基づいていると繰り返し指摘した」。

これはまったく滑稽に聞こえた。

実験もせずに、小鳥がカッコウに変わる可能性を主張したり、カラペティアンとアヴォティン=パブロフによる、他の樹種の枝が「発芽」する現象に関する「観察」を称賛したりしていたルイセンコが、今度は道徳家のような態度を取り、ボシャンの実験上の誤りを批判し始めたのである。外部環境の影響を考慮していないという彼の反論も、それほど説得力があるものではありませんでした。

一方、ムロムツェフはルイセンコの不満を伝えながら、ある生物が別の生物に変化すること、また非細胞物質から細胞が生まれることを公然と支持し、それらは決して間違っているのではなく、むしろ進歩的であると述べました 。ムロムツェフは、生きた物質からウイルスや細菌が発生することについて、完全に証明された現象として語った。彼によれば、ウイルスや細菌が「動物、植物、細菌の細胞の変質したタンパク質から発生」する別のプロセスも、十分に現実的なものと見なすことができるという。

しかし、ルイセンコの個人的な利益を守るため、彼はボシャンや他の何人かに、ウイルスが微生物に再生し、その逆も起こりうるという、まったく同じ考えを主張する権利を奪った。

「ウテンコフ、クレストヴニコワ、ボシャンによる、バクテリオファージは、それが溶解した元の微生物の発達段階であるという見解は、明らかに事実と一致しない...」、

そして、彼にとって理解しやすい言葉で、こう尋ねた。

「卵が再び鶏を卵に変えたり、あるいは、ある魚の卵が、それを産んだ魚を溶解したり、卵に変えたりすることなど、どこで見られるだろうか?」。

ムロムツェフ(そしてもちろん彼の後援者ルイセンコ)の思想的立場は、講演の終わりに、ボシャンアプローチは基本的に「ミチューリン」学説の基礎とまったく矛盾していないと彼が話し始めたときに、特に明確に明らかになった。

ボシャンが発表した研究は、ミチューリンの生物学がわが国で勝利を収めた結果、現代微生物学のすべての主要な問題が根本的かつ大胆に見直されたことを如実に証明している...。

しかし、もちろん、ボシャン理論体系全体を批判する、非常に有能な科学者もいました。M.P.チュマコフ(後にソ連科学アカデミー会員、ポリオ・ウイルス性脳炎研究所所長、レーニン賞および国家賞受賞者、社会主義労働英雄)、 V.N.オレホヴィッチP.F.ズドロドフスキーは、1951年1月5日に開催された全ソ連微生物学者協会理事会で、ボシャンの見解について合理的な否定的な結論を発表した。第6回ソ連科学アカデミー会議において、M.P.チュマコフ、V.N.オレホヴィッチ、F.G.クロトコフ(軍医、一時ソ連科学アカデミー副会長職務代行)、V.D.ティマコフ は、N.N.ジュコフ=ヴェレージニコフ の「.. ボシャンの著書は積極的な役割を果たした」という意に同意しなかった。

この「発見」を特に厳しく評価したのはM.P.チュマコフであり、彼はソ連保健省を直接非難した。医学アカデミー、およびメドギズを「ボシャン著書を前例のないほど支持した」と非難し、その出版は「省が科学者たちに意見を求めなかったために犯した過ちである」とみなした。

そして1952年には、この革新者の誤りを示す新たな証拠が印刷物として登場し始めた。ボシャンがすべてのデータを偽造し、彼の結論は空想の産物であるということが、ますます明らかになっていった。当初ボシャンに称賛していた人々の中には、彼から距離を置き、彼に対する批判的な記事を発表することが得策だと考えた者もいた(G.P.カリナ、彼の弟子であり後継者であるV.D.ティマコフら)。

ボシャンと彼を擁護した人々は、批判的な意見から身を守ろうと、古典や互いを引用したが、状況は急速に変化した。例えば、1952年4月22日から24日にかけて開催された 「O.B.レペシンスカヤの理論に照らした細胞および非細胞形態の生物物質の発展問題」では、多くの発言者(O.B.レペシンスカヤ自身、彼女の娘、出席者に「細胞結晶化問題」を長年研究していることを言葉で「証明」しようとした人物、アカデミー会員A.A. イムシェネツキーら)は、ボシャン の結論と活動をまだ完全に支持していたものの、彼が完全に背を向けられたという噂が広まると、発言のトーンは急激に変化した。特に示唆的だったのは、次の第三回「生物物質の問題」に関する会議である。

この会議は1953年5月5日に開幕した。その年、ソ連科学アカデミーのアカデミー会員となったオレホヴィチによるボシャン批判の演説に、驚いた者はほとんどいなかっただろう。会議に出席していたボシャンは、反論としてオレホヴィチに異議を唱え始めた。

しかし、2年余り前に雑誌「ボルシェビク」で「この問題に関する臆病な迷走の終焉」を確信していると表明した者たち(ジュコフ=ヴェレジュニコフとマイスキー)でさえ、彼らの後援者を忘れてしまった。その記事の著者の一人であるN.N.ジュコフ=ヴェレージニコフは沈黙を守ることを良しとし、もう一人の著者であるI.N. マイスキーは、「基礎」に手を加えることを敢えてせず、ウイルスが細菌を形成することができる(そのようなウイルスには新しい名称「濾過性細菌」が付けられた)と主張し続けたが、ボシャンをもっとも変態の問題を完全に科学的なものとして研究を続けている人々のリストから除外しようと試みた。

この会議での議論は、ソ連の多くの公式な科学指導者たちが、状況の変化に応じて自らの見解を巧みに操作する能力を有していることを鮮明に浮き彫りにした。カメレオンのように、彼らは自らの評判をまったく気にかけることなく、その色を変えた。そうして、 A.A. イムシェネツキー - ソ連科学アカデミー微生物学研究所所長は、「反科学的歪曲」との闘いという姿勢を取り、ごく最近までボシャンや彼のような人々を称賛し、生物の存在や微生物の変容に関する偽の証拠を公表していたことについて一言も触れずに、 今では態度を180度変えた。

彼は、G.P.カリーナとV.A.クレストヴニコワが依然として主張していた、ウイルスが細菌に変化する可能性そのものを否定し始めた。彼らは、自らの実験でそのような変化を引き続き確認しているとの主張を続けていた。会議の報告書によると、イムシェネツキーとティマコフは「これらの見解には現時点では十分な根拠がないことを証明した」という。後者(すなわちイムシェネツキーとティマコフ - V.S)は、濾過性ウイルスと濾過性細菌の関連性も否定した。彼らは、濾過性ウイルスは進化の過程で生じた特殊な生物種であると考えている」。

1954年、ボシャンはその「理論」が崩壊しつつあることを、ルイセンコ主義者たちに人気の「支え」で救おうと試み、彼の概念から導き出される重要な実践的結論を指摘した。

彼は次のように書いている。

「我々が提案した馬の伝染性貧血に対する一連の健康改善策は...ソ連の7つの地域で5万頭以上の馬に対して検証されました。これらの対策が実施された220箇所のうち、206箇所、つまり90.4%で伝染性貧血が改善され、隔離が解除されました」 ( 10_68 )。

しかし、その「健康回復」が、病気の馬たちに投与された薬剤によるものだったことや、206の居住地で検疫解除の決議を軽々しく承認した者たちの責任と知識の程度は、容易に想像がついた。

この頃、G.M.ボシャンはこの名前で「生物学博士、教授」として署名しており、ソ連農業省全連邦実験獣医学研究所の大きな部門を指導しており(ちなみに、 この部門は現在、微生物学・生化学部門と呼ばれている)、さらに、ソ連科学アカデミー実験医学研究所の微生物の変異性を研究する大規模な研究所、およびソ連科学アカデミーN.F.ガマレイ微生物学・免疫学研究所の同様の研究所も指揮していた。ボシャンは、自身の研究が機密扱いとなるよう働きかけた。

こうした状況の中で、彼は、武装した警備員が立つ実験室の扉の向こう側で、頭に浮かんだことを何でも自由に創造することができた。彼の指揮下には数百人の科学者が働いていた(出版物では、彼の概念を裏付けたとされる人物、M.D. ウテンコフA.K. アブラミアンS.I. ベルーラヴァE.Sh. アコピアンO.D. シラI.I. オロビンスキーR.D. セルゲーエフA.P. アリカエフら)が言及している)。

しかしながら、この規模の拡大は、研究の深化、より質の高い実験の実施、そしてそれらの実験結果の合理的な解釈にはつながらなかった。巨大な研究チームの作業スタイルは、相変わらず、杜撰で、挑発的な自信に満ちたものだった。当然のことながら、これは専門家の反発を招いた。

ソ連金属科学アカデミーとソ連農業省は、ボシャン研究室の活動を検証するため、権威ある科学者たちによる特別委員会を設置せざるを得なかった。委員会は、ボシャンが科学的研究ではなく、その冒涜に手を染めているという意見で一致した。もはや打つ手はなく、有害な活動を停止するための措置を講じる必要があった。しかし、問題は、ボシャンの巨大な研究所の展開に関する命令が政府レベルで下されていたことであり、 また、彼の研究は国家にとって極めて重要であるとして機密扱いとする指示も政府レベルで出されていたため、ソ連科学アカデミーの指導部はもちろん、ボシャンまたはボシャン研究所があった研究所の所長たちでさえ、自らの権限で非科学的な活動を停止する権利を持っていなかった。

ソ連保健大臣コヴリギナが、ソ連閣僚会議議長マレンコフに、ボシャン研究所を閉鎖し、彼の博士号と教授の称号を剥奪するよう求める書簡を送る必要があった。マレンコフはこの書簡をペルフヒンに転送し、その後に初めて、これらの科学部門を閉鎖する許可が下りた。N.F.ガマレイ研究所所長であるヴィゴチコフ学者の情報によると、ボシャンの「秘密科学センター」の活動には、この研究所だけで133万ルーブルが費やされており、当時としては非常に大きな金額であった)。

V.N.オレホビッチは、この問題に関する科学的議論全体を総括し、次のような結論を下した。

「...ボシャン『アイデア』はまったく根拠がなく、無益であることが明らかになった。彼は...一部の同志たちが主張していたように、現代科学が蓄積したデータを『無視』していたのではなく、単にその存在を知らなかっただけだった」。

オレホヴィッチは、ボシャン の疑似科学的な研究に伴う主な現象、すなわち彼の些細な不正行為を、非常に説得力のある形で明らかにした。

まず、ボシャン「我々の批評者たちへの返答」で、初歩的な無知という非難を何としても回避しようとして、オレホヴィッチの書評からの引用を歪曲してごまかした。当然のことながら、これは見過ごされることはなかった。第二に、オレホヴィッチは、不器用な詐欺師がレーニンの言葉を自分の都合に合わせて改変したことを暴いた。

「驚くべきは、ボシャンがレーニンの極めて単純な言葉さえ理解できなかっただけでなく、正しく書き写すことさえできなかったことだ」とオレホヴィッチは書いている 。

もちろん、オレホヴィッチは、ボシャンがたった一つのフレーズを書き写すことさえできなかったという言及を、誰も文字通りには理解しないことをよく理解していた。

ボシャンは科学の分野では詐欺師であり、文盲に近い人物であったが、それでもロシア語はまずまず話せた。そして、1970年代半ばにオレホヴィッチが、ボシャンの芸術に関する批判的な記事について私に話したとき、彼は、誰もが理解できるように、このことについて次のように書くよう努めたと述べた。これはゲヴォルグ・ムナツカノヴィッチの無学さ、「微生物学と化学の基礎知識の欠如」だけでなく、科学者としての地位に相容れない、より深刻な罪についても述べている。それは、詐欺師的な市場商人にとっては普通かもしれないが、科学の世界では絶対に許されない行為についてだった。なぜなら、データの改ざん、反対者の発言の操作、政治論文からの引用を用いて「公然と反対意見を述べた者」を「黙らせよう」とする試みは、高名な科学者の称号とはまったく相容れないものだったからだ。

それ以来、このルイセンコ支持者の「発見」に関する言及は、ソ連の新聞から消えた。この悲劇的な改革者の自信に満ちた声明:

「我々が発見した法則は、ソ連の微生物学者たちが、海外の著者の著作によって植え付けられた時代遅れの形而上学的な考えから完全に解放され、スターリン同志の歴史的指令『近い将来、国外の科学の成果に追いつき、それを凌駕せよ』をより早く達成するのに役立つと確信している」

は、科学の領域の外に留まった。彼の「法則」は、ソ連の微生物学者たちにまったく役立たず、ただ、マニピュレーターによる、マスコミで大きく宣伝されたが、実際には何の根拠もなかった主張を再検証するために、力を奪うだけだった。

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