「心臓はポンプじゃない」~ロダーマンドとポラックの交差~歴史編
「心臓はポンプではない」と、部分的真実の誤誘導役のスパイことトーマス・コーワンは言った。最近、これをテーマにした書籍も翻訳出版されたらしい。
この男は常に真実を混ぜつつ(VDE という)肝心な所で嘘を吐く。実際、この男の背後には人智学の影が見え隠れし、PJ曰く「"真実の学問"への誘導法がCIAの手口そのもの」らしい。高確率でコントロールド・オポジッションな人物だが、では何故この話は嘘ではないと言えるのか?この主張がこの男だけのものではないからだ。遡ると19世紀から既に存在する。
Rodermund MJ. Positive Proofs That Blood Can Circulate without the Aid of the Heart. Wis. : Post Publishing Co.; 1899.
「心臓が無くとも血液が循環する確固たる証明」
著者は御存知、天然痘の膿を全身に塗布して15年間アップルトンの町中を徘徊したり、公衆の面前で飲み干したりなどの奇抜な人体実験を繰り返し、天然痘の脅威が如何に誇張の産物かを暴露した、20世紀初頭の伝説の眼科医 かつ「最強の異端児」こと、皆大好きロダーマンド博士(Matthew Joseph Rodermund 1854-1919)である。2021年に私がスマッシュヒットさせた。
✿ローダームンド/Rodermund博士の実験の要点https://t.co/tVByCg7gJ1
— MountainLake (@Mt_Lake2020) August 16, 2021
* 1901年、天然痘患者の顔と腕の膿疱を幾つか潰し溢れ出た膿を、自分の顔全体、両手と髭と衣服に塗りたくり、帰宅し食事
* 職場で眼の治療と眼鏡の調整で数人の顔に触れた
* 同じ事を15年間繰り返し(5万人暴露)、無害 pic.twitter.com/5lLCXENKa2
ローダームンド博士の実験|Bea;champ https://t.co/VWctzii2bp #amebaownd
— リッキー田中豊 (@6qjuV5hiF0ZvJZE) May 21, 2022
それが正しいことを見せようと、彼女の顔と腕の膿疱を幾つか潰して溢れ出た膿を、私は自分の顔全体、両手と髭と衣服に塗りたくり、同時に「これから帰宅して食事を摂る」と告げた。
天然痘が感染症でないと、身を挺して証明した医者がいた。しかし彼をメディアは利用し、国民の不安を煽り、逆に感染症への恐怖をねつ造した。
— 佐藤グレン🌱目指せ!都市で自然農村づくり🌱 (@GlennSato) August 22, 2021
私「はて?どこぞで今起こっていることでは?」
ローダームンド博士の実験 https://t.co/GDWN5hZ5kj
天然痘患者の膿を自分の顔に塗りつけて、職場や家族に濃厚接触しても、誰一人「天然痘」は伝染せず。15年間、同様の実験をするが感染者はゼロ。ローダームンド博士の実験|Bea;champ https://t.co/CWEypEuKzr #amebaownd
— あもる (@t_amoru) May 22, 2022

(リンク)
これを見ると、医学が嘘吐きなど今に始まった話じゃないと分かる。どうやらワクチンが人類の救世手段だと心底信じる方々は、日常的にドブネズミとダニ, ノミ, ハエと共生しつつ、水道も電気もガスもなければ、防腐剤ホルムアルデヒドの刺激臭と、防ハエ用壁紙のヒ素剤をメチル化する細菌により猛毒のトリメチルアリシンが漂う、レ〇パレスも吃驚な日照権ガン無視の密集住宅に寿司詰め状態に住み、道端は所構わず馬糞 と結核患者の痰だらけで、洪水と落雷と地震と台風と火山という(復旧に数十年単位を要する)自然災害の度に民家に迷い込む毒蛇とツツガムシ と、白人からの容赦ない人種/身分差別に怯えながら、水で嵩増し結核牛乳や泥水 、黄変米 と黴麦 と腐敗肉 を歯磨き手洗い習慣もなく頬張る慢性的栄養失調の生活を未だに送ってらっしゃるようだ。
じゃなきゃ100年前のワクチンの統計を現代水準で語れる意味が分からないし、この通りに何もかも環境条件の異なる時代の解釈のまま、抗原抗体反応という根本原理に一切の変更なく今に続くワクチンのシステムを信頼できる意味も分からない。恰も医学以外の領域に何の進歩もないかの如き視野狭窄からして、それが日常で「標準」だからこそ健康の尊さと人体の神秘が肌感覚で実感できず、何の現実も反映しない空虚な数字に縋るのだろう。『移植による病気の伝播の実用性』など文明的な生活を送る身には到底理解し難いが、確かにそんな救いのない生活に差し込む一筋の希望に反対する反ワクチン連中など恨まれても仕方ないのかもしれない。私はただ《造語の由来通りにアレルギーを量産するだけの注射》なんぞより、現代の素晴らしい水道電気のライフラインを今日も支える方々に感謝するのみである。
お前の言ってることは「泥水浄化の前に泥水耐性の肉体改造を優先」なわけだが頭おかしいと思わんのか? https://t.co/h5p6Zz5BB8
— Mit-Nak serovar.medicalis (@Mit3279) December 30, 2025
思わん連中が信者になるのだろう
ロダーマンド博士の血液循環の実験
話を戻すと、流石『医療現場に於ける殺人の流行』などという忖度の欠片もない暴露本を出版する(+やり過ぎで自宅の放火被害にも遭う)破天荒なロダーマンド博士は、冒頭の通り、1899年(45歳)に心臓に関する動物実験を発表している。オフサルモロジストには人体の総合的な知識が要求されるとはいえ、もはや何屋さんか分からない。

本稿の目的は、生きた動物実験による確たる証明である。
第一:血液循環は心臓の補助を必要としていない
第二:(現在の教えの通り)動脈が筋肉の収縮で血液循環を助けることもない
第三:心臓の主たる機能は血液の制御であり、分配中枢かつ攪拌装置である
個人的に(※現代編のポラック博士の主張とも一致する)この結論に異論はないし、博士の言う通り「子宮、胎盤や胎児の血液循環の研究者は、自然が織り成すこの驚異的な妙技は心臓の機械的な力以外の何かが駆動力だと結論せざるを得ない 」のだろう。特に
既存の現象に仮説上の困難があるならば、現象を困難に寄せる形で説明するよりも、困難を現象と調和させる方が望ましい 。
この部分は現代の御用学者共に聴診器越しに拡声器で懇々と吹き込みたい至極の名言だ。流石この時代の人々の言葉には力が漲っているし、電子顕微鏡&統計学崇拝の果てにミクロ世界/数字世界の結果で以て現実を歪める現代人と違い、観察という本来の科学的姿勢が見て取れる。
では血液循環の真の駆動力は何か?について博士は「酸素」と回答し、つまり呼吸を担う肺に宿るという。ここで古代の生理学者ガレノスを引用している。ガレノスは、呼吸の目的が肺の変換作用により生成されるプネウマ の取り込みだと述べたが、もしガレノスに現代の化学知識があれば、間違いなくプネウマを『酸素化ヘモグロビン』と呼び、加えて心臓の機械的力のみが血液循環の駆動力ではないと述べていた点から、血液循環に関する限りは現代を凌駕する理解に至っただろうと考察している。
私が現代科学を嫌う点は、古代人を「科学の発展への貢献者」として歴史に刻むのみで、彼等の卓越した観察と整合性を図る気が更々ないことだ。つまり、自分達の分析技術/道具の優位性から、暗黙裡に古代人は劣った存在と見做しており、博士のように古代人の用語を現代語に翻訳する発想など微塵もない(※ガチガチの実験倫理に縛られている身の上の癖にだ)。確かに「古代人は凡有る事象について語ったが、仮令それが真実であろうと単なる奇遇に過ぎず、何の証明にもならない」とはいえ、例えばヒポクラテスの四体液説を血液検査の数値に置き換えたり、ホメオパシーの言う『マヤズム』を現代科学用語に対応させる挑戦などがあってもいいものだ。真理とは本来時代を超えた普遍性が無ければならない筈である一方、
可能な範囲で、新たな事実と既知の事実との関連性を明示することは有益である 。ある発見がその起源から最新の進歩まで辿れることほど、心を満たすものはない 。
-ルイ・パスツール(1822-1895)
p371 note
この希代のポエマーが残した名ポエムに反して「心が満たされない」のだ。では、そんな私の「心を満たして」くれる博士がこの結論に至った実験内容を是非紹介したい。
(※以下かなり残酷描写となるので注意)
実験は全部で40~50頭の犬、豚、鶏、七面鳥、猫と去勢牛を対象に生きたまま実施された。曰く、程よく太った(かつ太り過ぎでない)豚が最適なようで、理由は①内臓が人間に似ている②クロロホルムやエーテル処理による神経ショックに他の動物と比べて耐性がある為だった。
実験①開腹後大動脈の血流遮断

博士は先ず、麻酔した豚を開腹し、大動脈からそれに繋がる動脈および随伴静脈を足先まで約4feet(1.2m)に渡って連続的一本の状態で露出させた後、この豚を(※画像のように)後脚で吊り下げ、横隔膜の起始部で大動脈を糸で縛っ た。
つまり
・麻酔状態の生物を逆さ吊り
・腹部大動脈から足先まで血管露出
・心臓からの血流遮断
という極めて危険な状態である。とはいえ、この実験は飽くまで血液循環の観測が目的であり(※何なら博士はこの後そのまま豚を解体してしまっているので)、「この状態で生命機能を維持ないし蘇生可能か」は別問題だ。だから飽くまで「動静脈血の動態」のみに注視する必要がある。
さて、現代生理学では「心臓は全身に血液を送る機械的ポンプ」であり、「血液は、赤血球/白血球/血小板の3つの有形成分+血漿の液体成分で構成され、液体成分の中を有形成分が浮 遊」している設定である。

定説では、血球は血管内を図のようにフワフワ泳いでいる
この血球が浮遊する液体を全身にポンプ輸送するのが心臓の役割…らしい
19世紀から一切進歩の無い血液観であり、ベシャンは当時からこのモデルを猛烈に批判した
実際は、分子顆粒(グロブリン含む諸々のタンパク粒子) が血球間血球内を膨大に隙間なく埋め尽くし、その粒子同士の接触を防ぐ緩衝材として液体があるだけ。この液体を現代は『血漿』と呼ぶが、そう特別に命名すべき液体が血管内に あるわけでなく、他の内臓や組織に充満する細胞間液と同一の液体が血管内にもあるだけであり、その証拠に『血漿』と細胞間液はほぼ同じイオン組成となっている。この点で血管系は一つの組織(Tissue)と見做すべきであり、故に「流体組織 」だと言った。
ならばこの豚の心臓は重力と、糸で物理的に出入口の塞がれた 血管という二重の障壁を突破するほどの駆動力を、麻酔による脳幹抑制の状態で爆発させつつ精密に下半身に分配せねばならない。無論、あり得ない事態なので、実験目的からして、麻酔下で血圧も脈拍も制御不能なまま重力に負けて肺や脳に鬱血が起こる致死的事態も想定してよいことになる。どのAIに訊いても似たような回答だった。
だがここでの問題は生存可能性でなく動脈血と静脈血の動態の差である。定説通りならどちらも等しく上半身に滞留する筈だが、これに関して曰く「瞬く間に、(4feet直線状)血管全体とその分岐脈が完全に空洞となる一方、静脈が徐々に充満した 」。即ち、麻酔+動脈遮断の条件でありながら、動脈血は血管内から消失して、全て静脈に自発的に移動したことになる。
ここに上半身鬱血の記述はない。従って重力の影響は除外される(少なくとも血液循環に限れば無視できる)。その証拠として、この豚の(横隔膜起始部の大動脈)結紮を一度解き、
「血液循環を再開させ 」、
「循環が安定した所で 」、今度は横隔膜起始部で大動脈と下大静脈の両方を結紮して心臓と双方向の血流を完全遮断 したら、同じく動脈は消失する一方で「下半身の静脈がより充満した 」。繰り返すが、
・心臓との血流交換が遮断され
・かつ麻酔で脳幹機能 の抑制状態であり
・尚且つ逆さ吊りに臓器と血管剥き出しの状態での話である。これはこの豚の胃腸を除去して尚、同じ実験で同じ結果が得られたという。
実験②開胸後の胸腔(主に肺)の観察
良くも悪くもマッドサイエンティストな博士はその後、生きたまま豚の臓器と血管を机の上に摘出し、同じく横隔膜結紮条件の上で大動脈の分岐脈を分岐点で結紮し、血液を末梢に隔離した所で分岐脈の結紮を解くと、「ポンプ」の力が届かない筈の部位に血流が浸透していく絶対的な証拠を得る。だが「この圧倒的な証拠に満足しない 」博士は遂に胸腔...心臓や肺など循環器官の収まる空間…に移る。つまり血液の輸送元の観察である。
本来、胸腔を生きたまま切開すれば外気圧で肺が圧迫され、生物は呼吸困難に陥ってそのまま死に至る為、実験どころではない。だが現代の心臓外科手術場面で人工心肺装置により数時間だけ心臓と肺の生体機能を代行可能な通り、博士も黎明期の人工呼吸装置を導入することで、2時間強にわたる剥き出しの胸腔の観察を可能にした。
動物の呼吸機能が今や完全に人工的手段に委ねられている為、任意に肺を収縮ないし膨張可能である 。・・・どんな実験でも殆どできてしまう ・・・まず、肺を収縮させると、血液が動脈から空になり、静脈と共に心房や心室が拡張する様子が確認できる 。だが拍動は遅くなり、徐々に勢いを失い、傍目に動物は生命を失ったように見える 。但し、心臓は動き続けている(心臓を皿に摘出しても長時間そのままだろう) 。ここで(人工)呼吸を始めると、真先に心臓が活発に活動を取り戻すことに気付く 。肺が静脈血を取り込み、循環を生んで肺から心臓へと戻し 、心臓がその分配を始めるに従い、動脈が充満し、間もなく身体全体に生命の兆候が現れる 。
ここでは肺と心臓の協調関係が主張されている。即ち、
・肺を収縮させると、心臓の拍動は弱まりつつも拍動自体は続く一方、心臓の動きとは無関係に動脈血が静脈側に自発的に移動する
・肺を(人為的に)動かすと心臓は活発さを取り戻し、再び動脈に血液が充満する
実際、何時間も心肺を観察していると、心臓は恰も「肺の奏でる音楽で踊る 」ように見えるという。現代の心肺蘇生法では、心臓マッサージが主で人工呼吸は省略する傾向にあるようだが(※例の感染症バカ騒ぎのお陰で成人にはしなくていいらしい)、こうしてみると人工呼吸は不可欠である。
この「血液循環と心臓機能の独立性」に関しては、この記事ではなく、別の新聞記事にある博士のインタビューに別の根拠が述べられている。
Has a new theory ~Heart not the motive power of life~. The Philipsburg mail. December 2, 1898.

彼の理論によれば、動脈を通る血液の運搬に於ける心臓の役割は、胃や肝臓のそれと同程度である。
曰く「血液を運搬する力は心臓ではなく肺が受け取るものと確信しています。血液運搬を担うのが心臓ではないと否応なく思わされたのは、病人の脈を観察した時です。患者が弱るほど心臓の拍動も弱る一方で、血液循環は急速になることが分かります。また、健常者に匹敵する充実した力強い脈を打つ迅速な血液循環が確認されます。
この通り臨床的観察に加え、この後には理論上の欠陥も指摘している。曰く、ポンプ駆動のみで血液を全身運搬するには推定22kg/拍の力が必要だが、これ自体個人差があって当然な上に、自身の重量分(約200g~300g)を1時間置きに2万フィート(約6,000m:ジャンボ機の高度)まで持ち上げる計算となり、明らかに破綻している。
実験③死後の血液動態の観察
最後に、最重要となる屠殺場での観察が挙げられる。
動物を殺傷した直後に胸部と腹部を切開すると動脈が空洞となっており、殺害法が撲殺かクロロホルムの毒殺かに関わらず結果は変わらない 。つまり、肺が破綻するや循環のサイクルは断ち切られ、動脈血は静脈へと流入し、すると静脈が著しく拡張する 。だが大型牛など如何なる動物でも、転倒で気絶させ、静脈を損傷せず頸動脈を切断すると、切断した動脈から体内の血液が流出する 。…完全にこの間に動物が呼吸を続けている為だが 、一方で呼吸が停止する程の深い気絶に陥った場合、血液は静脈に留まる 。これらは屠殺場では周知の事実であり 、心臓の援助無く血液自身が移動する能力を持たねば、食肉用に生肉を完全に血抜きすることが不可能であることは誰の目に明白であろう 。
つまり、(死因に関わらず)死亡直後ないし深い気絶の後に胸部や腹部を切開すると、既に動脈は空洞となって静脈に移動している一方、息がある裡に頸動脈を切ると、一般的な動脈損傷の印象通りに血液が流出する。両者の違いは生物の呼吸の有無であり、一般的な印象は飽くまで生物に意識がある裡の話ということになる。それも人工呼吸条件という酸素化が不十分な循環の場合、動脈血は静脈血のような暗赤色を呈し、その自発的移動は緩慢となり、時に動脈内に血液が残留するという。
総合的考察
博士の主張を要約すると「肺の酸素吸入を機に肺静脈が活性化➡心臓がそれに同調➡全身の動脈が充満」と言える。言い換えれば、放っておけば静脈に留まる血液を動脈側に分配する役割が心臓にある。その心臓が肺の支配を受けるなら、肺と心臓の協調によって血液は動脈壁に何等かの親和性を持つことになる。ここで酸素が重要な役割を果たすなら、酸素が持つ性質がその親和性に寄与するのは疑いない。そして酸素はフッ素の次に電気陰性度の高い元素であり、強力に電子を引き寄せる性質がある。
まさにこの酸素の性質が博士の肺機能の解釈に関係する。先述のガレノスの件では酸素(≒プネウマ)の取り込みと述べたが、対外的にそう表現しつつ微妙に異なる考えだと分かる。
上記の実験は哲学的示唆に富んでいる 。私は多種多様な多くの動物でこれを実証したが、それはとある思想に見事に一致する 。即ち、物質に作用する力が物質に生命と運動を授けるというものだ 。この力を「電気」と呼ぼうと「酸素」や「オゾン」と呼ぼうと 、この要素が無ければ凡有る物質は無機的であり、自らを運動ないし変性させる如何なる能力も持たない 。事実、我々の感覚が伝達する凡有る物質の変化はこの力が齎すものであり、当然ながら物質的な人体もその中に含まれる 。
これはベシャンの化学的有機物 / 生理学的有機物 の分類にも通じる見解であり、ここでの「物質に作用する力」はベシャンの「物質を組織化するもの」に似ている。
つまり、ベシャンが当時の原形質理論を「生命現象を物質の特殊な活動様式に帰す唯物論」(※現代科学も耳が痛い筈だ)だと批判し、ビシャの生理学原則「生命は物質に直結せず、その形態と構造が規定された自律的解剖学元素に紐づく」を元に無機と有機を繋ぐ媒介者としてのマイクロザイマス を導き出した通り、ここで展開されているのは無機から有機に至る「何か」を想定する哲学的思索である。その回答が博士曰く「電気」であり、即ち、肺の呼吸機能による酸素吸入を起源としつつも、血液循環の原理自体は電気的現象と解釈している。

血液が酸素を全身運搬するのではなく、空気中の酸素側が血液を微細毛細血管の隅々まで駆け巡らせる。これは約3世紀にわたり我々が信じてきた定説を完全に覆すものである。つまり、(血液を全身運搬するのは)電気の基本法則に従う吸入酸素である。
これはパラダイムシフトになる可能性を秘めている。赤血球が酸素を運ぶのではなく、「酸素が血液に全身を巡る力を与える」という認識だ。視点の切り替えで「血液側が酸素暴露でその力を獲得する」とも言えるだろう。ベシャンは、血管内の有形成分の血清に対する不溶性は「呼吸器系から供給される成分により、循環系の各拠点で維持される」「流血は動静脈血のみならず、全身各領域にある血液の混合物」と述べた。レイモンド・ライフは「一滴の血液のみで癌は診断可能」と述べた。どちらの主張も生物の呼吸が前提である。
末筆:現代編への繋ぎ
但し、これらの記事に心臓ポンプ説への実験的反証はあれど、実際の原理が電気的である証拠にはなっていないし、「私より時間と財力に余裕のある者 」に委ねる形で根拠も述べられていない。従ってこれら代案の妥当性を現代目線で分析する必要があり、それにあたって博士の主張は2つの論題へと分解せねばならないことが分かる。
①心肺の外で血液循環を駆動させる力
②心肺自体が担う役割
確かにロダーマンド博士の血液循環に於ける肺と酸素、そして電気エネルギーの役割を強調する着眼点&観察眼は、当時としては(+現代の教科書暗記勢&『ファクトチェッカー』という名の〇×クイズ専門家には)斬新といえど、約130年を経た現代はもう少し先進的である。但し、「便宜的に採用する概念」と「物理化学的真実」を別にする姑息な手段を駆使する教科書的生理学がそれを裏付けるわけがなく、実際には後者を探求している(+博士より時間と財力に余裕のある)人物を探さねばならない。そこで同じ境地に到達した人物、即ち冒頭の通り、「水の第四相」「EZ 水」でお馴染みジェラルド・ポラック博士へと移りたい。
To be continued…
全文訳
心臓が無くとも血液循環が可能な確たる証拠*
*Chicago Medical Times寄稿記事
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