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本能寺の変1582 【四国】 十 「足蹴事件」1/3 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【四国問題】天正十年1582 足蹴事件 1/3

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】
 【信長の人物像】 6 7 8 9 10 【重史146】
【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正

天正十年1582 五月中頃

 目次

五月中頃 【重史040】            ✓ 天正10 1582005**
「足蹴事件」1/3

  ①三河の国主(徳川家康)と、甲斐国の主将たちのために
   饗宴を催すことを決め、
  ②その盛大な招宴の接待役を彼(光秀)に下命した。
  ③これらの催し事の準備について、
  ④信長は、ある密室において、明智と語っていた
  ⑤元来、逆上しやすく、
  ⑥反対意見を言われることに堪えられない性質であったので、
  ⑦彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、
  ⑧信長は、立ち上がり、怒りを込め、一度か二度、明智を足蹴にした
                             『日本史』

信長は、光秀に、家康の接待役を命じた。

ここで、事件が起きた。
「密室」、とある。

信長は、絶対専制君主。                →【重史146】
きわめて、誇り高い男。

信長は、逆上しやすく、
自らの命令に対して、反対意見を言われることに堪えられない性格だった。

このことを、他の、誰よりも、よく、知っていたのが光秀だった。

佐久間信盛を見よ!!                 →【重史240】
「朝倉破軍の刻」
信盛は、それを軽んじた故、粛清された 。

だが、光秀は、甘かった。
否、そうする他、術はなかった。
おそらくは、土佐 長宗我部の一件・・・・・。

否、それが、「油断」。
と、いうことなのだろう。

  人々が語るところによれば、
  彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、

その一言が、信長の逆鱗に触れた。

  信長は、立ち上がり、怒りを込め、一度か二度、明智を足蹴にしたとい
  うことである。
                            (『日本史』)

フロイスは、イエズス会の宣教師。      →【人物】 【重史014】
信長の身近に、同会の関係者がいたらしい。
おそらくは、黒奴「弥助」・・・・・ (「松平家忠日記」) 。  
弥助は、「本能寺の変」を生き延びた。
捕縛され、京の南蛮寺へ。
           →「イエズス会日本年報」天正十年十月二十日付



 ⇒ 次へつづく

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