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あの子たちともっと続けたかった

きっかけは不動産屋さん

大学院を出て、肩書きがカラフル学舎一本になった頃、正直なところ少し怖くなっていた。大学院生でありながら塾をやっています、と言えていた時代が終わり、心にぽっかりと穴が開いたような感覚があった。いかに東北大という名前に甘えていたか、思い知らされた。自立しなければならないという焦りがあった。春の日差しや桜を見ても、穏やかな気持ちではいられなかった。

そんな時、お世話になっている不動産屋さんから「今プログラミングが来てるよ」と言われた。全くキャッチアップしていなかった。でもこれからの教育にはプログラミングの素養が必要になる、というのが見えてきた。お話を聞いて調べていくうちに、小学生向けのプログラミング教育を手がけている方と繋がった。

その団体の代表の方が仙台にご縁があるとのことで、私が宮城県在住ということだけで非常に好意的に受け止めてくれた。気がつけばいつものパターンだった。できるかできないかじゃなくて、この人となら、と思ったら全力で動き出す。目標が決まった。プログラミング教室を立ち上げることにした。

宮城で一番早く、やった

まず地元でプログラミングイベントを開いた。イベントは学生スタッフが主導で、チラシ作りから講師まで任せた。僕は一歩引いてサポートする形をとった。それでも20人くらい集まった。こんなにみなさん興味があるんだ、と率直に驚いた。

その後5名から10名程度が体験会を経て入会。Scratchを使って猫のキャラクターを動かしたり、独創的なアイディアをカリキュラムに落とし込んでいったりした。

授業は自分でやることにしていた。授業のネタ探しが楽しかった。当時アバターを動かすという今では当たり前のことが、まだ全然一般的でなかった頃、そういう最先端の技術をお持ちの方を大崎市にお招きしてイベントをやったり、プログラミングコンテストに応募したり、ワークショップをやったりした。他ではなかなかできないことを、局所的にではあるが、実はやっていた。

当時学習塾が小学生向けにプログラミング教室をやるのは、宮城県では一番早かったと思っている。

楽しくてたまらなかった

授業中、生徒のお父さんたちも参加してくれることが多かった。気がつけば子どもより積極的に発言するお父さんがいて、お母さんにたしなめられてどっと笑いになる。そんな場面が何度もあった。教室というより、みんなで何かを作る研究室のような空気だった。

鹿児島県の子どもたちと大崎市の子どもたちをオンラインで繋いで、お互いのふるさと自慢を発表し合うという実証実験もやった。「化女沼の白鳥」「鳴子こけし」——子どもたちが自分たちで見つけた地元の良さを、画面越しに鹿児島の子たちに伝えていた。本当に楽しかった。

ICT教育ニュースより


コロナで、手放した

しかしコロナがやってきた。教室に来てもらわなければできないサービスだったので、どうにもならなくなっていった。オンラインへの移行も検討したが、小学生が一人でzoomにつないでプログラミングの授業を受けるのはなかなか難しかった。出口が見えない状況の中、時間だけが過ぎていった。

もうどうしようもなかった。
断腸の思いでプログラミングコースを閉じることを生徒や保護者に伝えた。

大好きだった授業を手放すのは、本当につらかった。生徒たちに申し訳ない気持ちでいっぱいだった。あの子たちともっと続けたかった。

繋がりは続く

最近、当時プログラミング教室に通ってくれていた子が、高校生になって塾に戻ってきてくれた。当時本当に楽しかったと保護者から何度も言っていただいた。同感です笑。あの頃の答え合わせにめちゃくちゃ安堵した瞬間。僕だけが良くても全く意味がない汗

生徒の中には、プログラミングや情報系の大学に進んでいる子もいるという話も聞こえてくる。

繋がりというのは、続くものだ。

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