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世界を「草間彌生化」した人


草間彌生が亡くなった。97歳だった。

正直、思っていたより高齢だった。それほどまでに、草間彌生には「老い」というイメージがなかった。世界中の街を水玉で染め、巨大な作品をつくり、ファッションブランドと組み、渋谷のスクランブル交差点の巨大ビジョンまで作品の舞台にしてしまう。晩年まで、誰よりもアクティブな現代美術家に見えた。

「水玉の人」ではなかった

私の中で草間彌生のイメージが大きく変わったのは、2017年、国立新美術館で「草間彌生 わが永遠の魂」を見たときだった。それまでの私にとって草間彌生といえば、水玉とカボチャの人だった。ところが、そこで目にした作品はまったく違った。

大判のキャンバスが部屋いっぱいに並び、赤、青、黄色、緑、黒。明るく強い色が画面の上ではじけていた。顔のようなもの、目のようなもの、細胞のようなもの、宇宙のようなもの。水玉の反復とはまた違う、猛烈な勢いで描かれた絵だった。「草間彌生って、こんな絵を描く人だったのか」。驚いた。そこには「水玉の女王」というイメージからは収まりきらない画家がいた。

1960年代、ニューヨーク前衛美術のど真ん中へ

草間彌生の長いキャリアをたどると、その印象はさらに変わってくる。1929年、長野県松本市生まれ。1950年代後半にアメリカへ渡り、ニューヨークで活動を始めた。当時のニューヨークは、抽象表現主義からポップアート、ミニマリズムへと、現代美術の中心が大きく動いていた時代だ。

そこで草間が発表したのが「インフィニティ・ネット」だった。巨大なキャンバスを小さな網目でひたすら埋め尽くしていく。現在の華やかな水玉から想像する草間彌生とはかなり違う。色も抑制され、ほとんど執念のような反復が画面を覆っている。

その後、鏡を使った「インフィニティ・ミラー・ルーム」、男性器を思わせるソフト・スカルプチャー、ハプニングやパフォーマンスへと活動は広がっていく。絵画、彫刻、空間、身体、ファッション、映像。ひとつのジャンルにとどまらない。1960年代のニューヨークの前衛美術のど真ん中に、日本からやってきたひとりの女性がいた。

しかも草間彌生のすごさは、その後だと思う。1973年に日本へ戻り、1977年から精神科病院で暮らしながら、近くのスタジオへ通って制作を続けた。ニューヨーク時代の前衛芸術家として歴史の一ページに残るだけでも十分だったはずなのに、草間彌生はそこからさらに半世紀近く制作を続けた。

世界そのものが「草間彌生化」していった

そして21世紀に入ると、もう一度、しかも以前とは比較にならないほど大きなスケールで世界へ出ていく。カボチャ、水玉、鏡の部屋。作品は美術館の中から街へ飛び出し、ファッションや商業空間とも結びついた。ルイ・ヴィトンとの大規模なコラボレーションでは、世界各地の店舗が草間彌生の水玉に覆われた。巨大な草間本人の像やロボットまで、建物やショーウィンドウに現れた。東京では渋谷スクランブル交差点の大型ビジョン群にも草間彌生の世界が出現した。

ここまで来ると、美術作品をつくっているというより、世界そのものを「草間彌生化」しているように見える。

世界が閉じる前日、草間彌生美術館にいた

私には、もうひとつ忘れられない草間彌生の記憶がある。2020年3月8日、私は初めて新宿区弁天町にある草間彌生美術館を訪れた。

ちょうど新型コロナウイルスによって、東京の日常が変わり始めた頃だった。東京国立博物館や国立西洋美術館などが臨時休館に入り、人々も外出を控え始めていた。まだ4月の緊急事態宣言より約1か月前だったが、東京にはすでに、それまで経験したことのない不穏な空気が漂っていた。

そんな中、草間彌生美術館はまだ開いていた。館内に入って驚いた。外国人ばかりだった。少なくとも私が見た範囲では、日本人は私と友人の二人だけだった。

今思い返すと、実に不思議な光景だった。東京から人が消え始め、やがて世界の国境まで閉じようとしていた、そのほんの直前。早稲田に近い住宅街に建つ小さな美術館には、世界各地からやって来た人たちが、草間彌生を見るために集まっていた。

そして翌日の3月9日、草間彌生美術館も臨時休館に入った。その春の展覧会は「ZERO IS INFINITY『ゼロ』と草間彌生」。3月5日に始まったばかりだった。私が訪れた3月8日まで、開館できたのはわずか4日間。その最後の日に、私はたまたまそこにいた。

あの日は、ひとつの時代が閉じる直前だったのかもしれない。

そして今になって思う。あの小さな美術館で、日本人が私と友人の二人だけだったという光景は、草間彌生という人をとてもよく表していたのではないか。

「日本を代表する芸術家」だけでは足りない

日本で生まれ、日本画を学び、日本の美術界に違和感を抱いてニューヨークへ渡った。そこで前衛美術の最前線に入り込み、帰国後も制作を続け、やがて世界中の人々が彼女の作品を見るために日本へやって来るようになった。

草間彌生は、「日本を代表する芸術家」という言葉だけでは少し足りない。戦後日本から世界へ出て、自分自身の表現だけで国境を越えた、最初期の現代美術家のひとりだった。そしてさらに珍しいのは、前衛美術の歴史に名を残しながら、同時に一般の人々にもこれほど広く知られたことだ。

普通、この二つはなかなか両立しない。美術史の中で評価される作家と、子どもでも知っている作家。美術館に収蔵される作品と、街角で人々がスマートフォンを向ける作品。難解な現代美術と、ファッションや広告や観光。草間彌生は、その境界を軽々と越えてしまった。

もちろん、そこには「あまりに商業的ではないか」「水玉やカボチャがブランドになりすぎているのではないか」という見方もあっただろう。しかし私は、むしろそこまで行ってしまったこと自体が、草間彌生のすごさなのだと思う。

彼女が若い頃から繰り返してきたのは、自分と世界の境界を消していくことだった。「自己消滅」という言葉を使い、自分も物も空間も水玉で覆っていった。そう考えると、晩年に世界中の建物やショーウィンドウや巨大ビジョンまで水玉に覆われていった光景も、単なるマーケティングとは少し違って見えてくる。1950年代から続けてきた草間彌生の発想が、半世紀以上かけて、本当に世界の側へ拡張していったのではないか。

97年という人生を振り返ると、驚くほど長い。けれど私の中に浮かんでくるのは、老いた芸術家の姿ではない。巨大なキャンバスを明るい色で埋め尽くす人であり、鏡の向こうに無限の空間をつくる人であり、世界中の街に水玉を増殖させ続ける人だ。

そしてもうひとつ、2020年3月8日の光景が浮かぶ。これから世界が閉じようとしている東京で、小さな草間彌生美術館に集まっていた外国人たちの姿だ。翌日、その美術館も閉まった。

あの光景を思い出すと、草間彌生がどれほど遠くまで届いた芸術家だったのかを、私は少し実感できる気がする。

水玉を描き続けた人、というだけではない。

自分の内側に見えていた世界を、とうとう本当に世界中へ広げてしまった人だった。

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