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【短編小説】アイノカタチ 第六章 夏の夜 境界線


夏休みの午後。

澪は、少しだけ深呼吸をしてから水瀬家のインターホンを押した。

「いらっしゃーい!」

勢いよくドアを開けたのは、波留の母・陽子。

「澪ちゃんね? ずっと楽しみにしてたのよ。お泊りでしょ? ごはんもいっぱい作ったから!」

「おじゃまします」

丁寧に頭を下げる澪に、陽子は目を細める。

「まあまあ、なんて礼儀正しいの」

陽子の後ろから波留は少し照れながら言った。

「……うち、うるさいけど」

「ううん、楽しみにしてたよ」

その一言に、ほんの少しだけ波留の頬が緩む。


夕方。

玄関のドアが、少し強めに開いた。

「ただいま……」

夏期講習帰りの兄・航。
高三、受験生。少し疲れた顔。

リビングに足を踏み入れた瞬間、
空気が、わずかに変わった。

そこにいたのは、見慣れない少女。

背筋が伸びていて、声は低め。中性的な美少女。
こちらを見る目は、不思議なくらい落ち着いている。

「おじゃましています。水澤です」

航は一瞬、言葉を失う。

(……波留と同い年?)

「……あ、どうも」

「お兄ちゃん、おかえり!」
波留が無邪気に言う。

「今日ね、友だち泊まるよ。澪っていうの」

「……へえ」

胸の奥が、少しだけざわつく。

(妹に、こんな……彼氏みたいな友だち?)

話してみれば、澪は驚くほど聡明だった。
言葉の選び方も、間の取り方も、どこか大人びている。

(五歳下? いや、そうは見えない)

浮かんだ考えを、航は心の中でそっと打ち消した。


にぎやかな夕食時

「航、夏期講習どう?」

「まだC判定で微妙」

「彼女さんは?」

「……母さん、今その話題いらなくない?」

「あらいいじゃない。二人で仲よく勉強とか、超青春!」

「いいなぁ」

波留が箸を動かしながらつぶやく。

「私もいつか彼氏とか……あ、でも共学じゃないのがちょっと残念」

「お前、まだ中一だろ!」

即座に突っ込む航。

「彼氏とか早いから!」

「なにそれ! パパみたいなこと言わないでよ」

陽子は楽しそうに笑う。

「ほらほら、いっぱい食べなさい」

波留は小さく顔をしかめ、澪にささやく。

「……お母さん、張り切りすぎ」

「ごめん、うちうるさくて」

澪はやわらかく首を振った。

「平気。……私、一人っ子だから」

箸を止め、静かに続ける。

「こういうの、楽しい。うらやましい」

航はふっと笑う。

「澪ちゃんの家、なんか上品な匂いしそうだな」

澪は、曖昧に微笑んだ。


(彼氏か……)

澪は、胸の奥でその言葉を転がす。

(私には、ないな)

違和感は、ずっと前からあった。

「澪、お風呂大丈夫だった?今日は私の部屋にお布団ひくね」と波留

波留のベッドの横にひかれたお布団で横になった時

「私、お泊りできる友達ができて、それが澪ですっごい嬉しい」

くったくない波留の笑顔に澪はそっとほほえむだけ。

私も嬉しい。
大好きな波留と一緒にいられる。

でもそれは。私が女性だから今一緒にいられる。それだけ。

本当は波留に触りたい。柔らかそうな茶色の髪に触れたい。

波留が振り向くだけで同じシャンプーのにおいが風にのって届くだけで胸が

苦しくなる。やっぱり。来なければよかったのかな。

(やっぱり)

(私は、どこまでも)

(マジョリティではないらしい)
 

けれど、それを言葉にするには――
まだ、少し早い。


波留は布団をかぶりながら、胸を弾ませていた。

(彼氏かぁ……)

いつか当たり前のように誰かを好きになり、
当たり前のように恋をする。

そんな未来を、疑ったことはない。

隣にいる澪が、
その「当たり前」の外側に立っていることに、
まだ気づいていなかった。


航は自室に戻っても、
なぜか澪の姿が頭から離れない。

(……不思議な子だな)

彼女はいる。
それなのに。

波留の友だちであるはずの少女が、
妙に胸に残る。

理由は、わからない。


夏の夜。

同じ家で、
それぞれが違う方向を見ながら、

少しずつ――
自分の輪郭に触れはじめていた。


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