KAIJUという方法——Netflix『ガス人間』が描く怪異
長崎の小学生にとって、8月9日は登校日である。
夏休みの真ん中、汗をかきながら体育館に集まって、被爆者の話を聞く。黒焦げになった人の写真を見せられる。子どもには重すぎる写真や映像だったと思うが、あれが夏の風物詩だった。ぼくにとって原爆は、教科書の中の出来事ではなく、毎年夏に反復される身体的な記憶である。
その記憶が不意に蘇ったのは、Netflixのドラマを見ていたときだった。
それが『ガス人間』だ。
1960年の東宝特撮映画『ガス人間第一号』(本多猪四郎監督)を原作とする、全8話のリブートシリーズである。監督は『岬の兄妹』『さがす』の片山慎三。そして脚本は、韓国のヨン・サンホとリュ・ヨンジェである。ここが今回のnoteの軸になっていく。
まずは何より役者の凄まじさ
単純にドラマとして凄まじい。
最初、小栗旬は何でも解決する切れ者刑事だと思っていた。ラーメン屋で外国人従業員を助けた冒頭シーンで、よくありがちな勧善懲悪的なヒーロー主人公かと思っていた。しかしながら、最後まで事件を後追いするだけで、物語に翻弄される視聴者側の存在だった。その間が抜けつつ生真面目なキャラクターがピッタリだった。
そして蒼井優。まさに本作の真の主人公だろう。小栗旬を嵌めて情報をリークする嫌な女かと思えば、その裏に別の顔がある。最初は倫理観の欠如したただの悪女かなと思っていたが、どんどん引き込まれていく。そして演技力。新社会人のような初々しさから昇進後のバリキャリ、終盤に現れる無垢な少女性までを縦横無尽に行き来する。さすがの怪演だった。
続いて、ガス人間役のUTA。彼には驚かざるを得ない。オーバーサイズ気味のスーツを着こなし、若い頃の三島由紀夫のような眼光の鋭さと土っぽさがある。犯罪者としての凄みと、ガス人間になる以前の、素朴で垢抜けない優しいお兄ちゃんの顔。この落差が、これが俳優デビュー作だという事実とあわせて信じがたい。
竹野内豊に至っては、前半ではそこにいることに気づかなかった。いつイケメンが出てくるのかと待っていたら、まさかああいう役だったとは。特殊メイクなのかどうかすら、ぼくにはわからなかった。ほかにも都市伝説チャンネルを運営する兄妹の広瀬すずと林遣都、ピエール瀧、高嶋政宏、青木崇高などなど、全員に触れたいがキリがないのでやめておく。要するに、演技を見るだけで8話ぶんたっぷり堪能できる作品なのだ。
VFXは『ゴジラ-1.0』の白組。ガスが人の形をとる描写に一切の違和感がない。画面は青みがかってざらつき、コントラストの高いノワールの質感で統一されている。ここまでは、優れたクライムスリラーの話である。
黒焦げの「人間燃料」
問題は、この物語が何を描いているかだ。
劇中、隕石に由来する謎の有害物質が発見され、その処理のために「人間燃料」と呼ばれる人々が投入される。身寄りのない者、社会から見えなくされた者たちだ。彼らは黒焦げになって死んでいく。
その映像を見た瞬間、ぼくは8月9日の体育館に引き戻された。あのトラックに積まれた死体たちは、まさに被爆者の姿だった。同時に、原発事故の現場に送り込まれた作業員たちの姿でもある。国家的な祭典の裏で、国の威信のために無碍にされる人々。都知事選を舞台に、選挙と向き合えない日本人の姿も描かれる。ガスという存在が、サリン事件すら彷彿とさせる。
つまりこのドラマは、日本が戦後向き合ってこなかった難題を、片っ端から突きつけてくるのだ。
原爆からゴジラが、沖縄からウルトラマンが生まれた
ここで思い出すべきは、日本の特撮がもともとそういうものだった、ということである。
1954年3月、マグロ漁船・第五福竜丸がビキニ環礁のアメリカの水爆実験で被曝し、乗組員が死んだ。その8か月後に公開されたのが、本多猪四郎の『ゴジラ』である。水爆実験によって目覚め、東京を焼き払う怪獣。そのごつごつした皮膚は、被爆者のケロイドをモデルにしたと伝えられる。本多自身、戦地からの復員の途中で広島の焼け野原を目にした人だった。ゴジラが夜の東京を炎に変えていく映像は、空襲と原爆の、9年越しの再演だったのだ。
ウルトラマンにも同じ構造がある。初期ウルトラシリーズの中心的な脚本家・金城哲夫は沖縄の出身で、米軍統治下の故郷を離れて本土で怪獣の物語を書き続けた。彼の脚本した『ウルトラセブン』の一篇「ノンマルトの使者」は、海底に住む種族こそが地球の先住民で、人類のほうが侵略者だった、という話である。これが何の暗喩かは言うまでもない。退治される怪獣たちに、本土に居場所のない沖縄を重ねる読みは、いまや定説に近い。金城はのちに沖縄へ帰り、本土復帰後の海洋博(これも国家的祭典だ)で本土と故郷の板挟みになり、37歳で死んだ。
特撮ではないが、日本のアニメ史における巨星・大友克洋の『AKIRA』にも、同じ構造が垣間見える。「AKIRA」とは人間のコントロールを超えたエネルギーへの畏れを、一人の少年の身体に封じ込めたものだった。そのエネルギーに魅せられた鉄雄は暴走し、世界を破壊しようとする。意志あるガス人間とでも言うものだろう。
この系譜が何をやっているのかを、一行で言い当てた言葉がすでにあった。『シン・ゴジラ』のキャッチコピーである「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)。」だ。庵野秀明は3.11と原発事故を、60年前の怪獣にもう一度編集し直してみせた。虚構をぶつけることでしか直視できない現実があるという怪獣映画の形式を、作り手自身が宣言したのである。
もっとも「対」というのは正確ではないかもしれない。ラカンは「真理はフィクションの構造を持つ」と言った。虚構は現実の対戦相手ではない。直視できない現実が、かろうじて語られるための唯一の構造なのだ。原爆の真理は、記録映像ではなくゴジラにおいてはじめて語りえたのだと思う。日本人が抱えた負の想像力の結実した姿が怪獣なのである。
社会学者の大澤真幸は『私たちの想像力は資本主義を超えるか (角川ソフィア文庫) 』でフィクションについてこう説明する。
私は、しばしば社会現象を説明したり、理論的に分析したりするさいに、小説や映画、マンガ、アニメなどのフィクションを活用してきた。抽象的な概念を与えただけでは、説明に命が宿らない。概念がフィクションにおいて具体化されたとき、説明は、真に理解可能なものになる。このときフィクションは、概念を例解するための補助的な素材ではない。概念はフィクションに受肉されてはじめて、ひとつの概念として完成するのだ。
フィクションは、社会を理解するための補助的な素材ではない。概念はフィクションに受肉されてはじめて、理解可能なものになる。つまり、ゴジラが生まれたことで、ぼくたちは原爆を理解可能なものとして捉えられたのである。
日本の想像力は、社会が直視できない現実を、怪獣や異能者という「キャラクター」に翻訳することで、かろうじてそれと向き合ってきた歴史がある。古くは、祟りや怨霊であり、怪異だった。地震を鯰絵にしたこともあった。『ばけばけ』の小泉八雲はそうした怪異に惹かれ、怪談を再編集した。これらの系譜に怪獣がいる。処理できない問題の置き場である。言葉にすれば政治になり、直視すれば絶望になるものを、物語として保持するための容れ物。それが怪獣なのだ。
ガス人間は、その系譜の正統な末裔である。原爆的なるもの、原発的なるものの想像力から生まれた名付けようのないものだったのだ。
ヨン・サンホとは何者なのか?
ただし今回、一つ引っかかることがあった。この翻訳作業を実行したのが、日本人ではなく韓国人だったことだ。
正直に言えば、ぼくは最初そこに驚いていた。日本の戦後が生んだ想像力の系譜を、なぜ隣国の作家が描けたのだろうか。だが8話を見終えたいま、この驚き方自体が間違っていたと思う。国籍は、この話の本質ではない。
驚くべきはむしろ、怪獣が「方法」だったという事実のほうである。着ぐるみ、東宝の意匠、円谷の光学合成など、その様式自体を真似ることはできる。だが真似られた様式は、日本風の怪獣を生むだけであり、それはコスプレにすぎない。しかしながら、方法は違う。直視できない現実を怪物に編集するという方法は、様式から切り離して取り出すことができ、取り出された方法は、それぞれの社会の、それぞれの現実を食べて動くようになる。
では、ヨン・サンホはどのようにしてこの方法を取り出したのか。彼の経歴と発言に、その答えがある。
まず経歴である。ヨン・サンホは実写ではなくアニメーションの出身だ。長編アニメ『豚の王』でデビューし、有名な『新感染』の前日譚もアニメで作った。中学生の頃に『AKIRA』を読んで大友克洋の画風に夢中になり、いまも『大友克洋全集』を買い集めていると語る。好きな監督には不世出のアニメ監督・今敏の名を挙げる。ここにもAKIRAの方法が息づいている。
WWDのインタビューで、彼は自分の作り方を明かしている。関心があるのは、生きるか死ぬかの究極の選択に置かれた人間の心情であり、その動機となるアイデンティティーや愛や信仰であり、自己犠牲のヒロイズムだ。そのうえで「物語を構築する段階でゾンビやSFなどのジャンルと結合させます」と語る。
順序に注目してほしい。人間の真理がまずあって、怪物というジャンルは後から「結合」される容れ物なのだ。これは、悲恋の物語にガス人間という異形を結合させた本多猪四郎の作り方の、そのままの言い換えではないか。
しかもこの方法の取り出しは、天才の直感ではない。訓練なのである。2024年9月のWWDJAPANのインタビューで彼はこう言っている。
ヨン・サンホ(以下、サンホ):まだ具体的な内容はお伝えできませんが、現在制作中の作品の参考資料として日本の小説や映画をみています。小説は大江健三郎の「万延元年のフットボール」や奥田英朗の「オリンピックの身代金」。映画は今村昌平の「復讐するは我にあり」や時代劇などです。
「寄生獣 -ザ・グレイ-」監督ヨン・サンホ 極限状況での人間の選択への興味
2024年9月といえば、ちょうど『ガス人間』がクランクインした時期だ。(Netflixによると、ガス人間の撮影期間は2024年9月頭から2025年4月末までの8カ月弱だという)日本の観客に向けた作品を制作中だ、とも言っている。この読書リストは、時期から見てほぼ間違いなく『ガス人間』のための準備だったのである。
そして注目すべきはその読み方だ。インタビューはこう続く。
過去の日本の社会的背景や人々の情緒や感受性が知りたいですし、 日本の作品をインプットすることで韓国との違いが見えてくることが多いため読んでいます。例えば「オリンピックの身代金」は東京オリンピックが題材であり、韓国映画「上渓洞(サンゲドン)オリンピック1988」はソウルオリンピック。「上渓洞」は社会的弱者を彼らが住む地域から追い出してそこに競技場を建設しようとする話なのですが、両作品を比較しながら読んでいます。
まさに答えはここにある。
比較することによって、はじめて方法を取り出せるのだ。様式の内側にいる人間には、自分たちが何をどう物語に変換してきたのかなかなか見えてこない。日本と韓国、二つの社会を並べたときにはじめて、「国家の祭典の裏で誰かが犠牲になる」という構造が、固有の事件から取り出し可能な方法として浮かび上がる。日本人か韓国人かは関係がない。比較したかどうかだけが、様式の使い手と方法の使い手を分ける。
その構造が『ガス人間』では、万博的な祭典(作中では「世界こども平和博」という名称)と「人間燃料」に変換されている。偶然ではないだろう。そしてこの線上には、海洋博に潰されてしまった金城哲夫の姿まで見えてくる。
KAIJUは世界語になった
考えてみれば、この装置の輸出はとっくに始まっていた。「怪獣」は翻訳されずに "KAIJU" としてそのまま英語になり、ハリウッドは『パシフィック・リム』で、劇中の登場人物たちに堂々と「カイジュウ」と発音させた。ギレルモ・デル・トロが東宝と円谷への愛から作ったあの映画は、日本の怪獣が様式として世界に愛された瞬間の記録である。
そのデル・トロが、ヨン・サンホに直接明かしたという逸話がある。「『ヘルボーイ2』のヨハン・クラウスは『ガス人間第一号』から着想を得た——デル・トロからそう直接聞かされた」と、ヨン・サンホ自身が語っている。メキシコ人がガス人間からキャラクターを作り、韓国人がガス人間をリブートする。本多猪四郎の想像力は、とっくに世界の共有財産になっていたのだ。ちなみに、白組などの制作陣はそうとも知らずに、「ヘルボーイ2」を参考にしていたという逸話も残っている。すでに無意識のうちに還流は起きていたのだ。
環流の証拠は、画面の中にもある。
劇中、ガス人間が眠る姿を見て、ぼくは『ストレンジャー・シングス』のヴェクナが眠る姿を思い出した。あのシリーズが『AKIRA』の影響下にあることは、よく知られている。研究所で作られた超能力の子ども、イレブンの造形は、まっすぐアキラの子どもたちに遡る。つまり、大友克洋がアメリカのドラマに流れ込み、そのアメリカのドラマの造形が、韓国人の書いた日本のドラマとして還ってくる。方法はもう、日本から一方向に輸出されているのではない。世界を環流しているのだ。
考えてみれば、Stranger(よそもの、見知らぬもの、名指せないもの)とは、怪獣の別名である。人は、名付けようのないものに出会ったとき、それでも生きていくために、ひとまず怪物の形を与えてきた。ゴジラも、ヴェクナも、ガス人間も、名付けえぬ現実に与えられた仮の名なのだ。
怪獣という方法は死なない
怪獣とは、社会が向き合えない現実を物語へ変換する編集装置である。そしてこの装置は、はじめから誰のものでもなかった。
本多猪四郎が発明したのは、日本の様式ではなく、人類が使える方法だった。だからメキシコ人がガス人間からキャラクターを生み、韓国人がガス人間を蘇らせ、そのたびに装置は新しい現実を食べて動き出す。継承の条件は国籍でも血統でもない。向き合えない現実を抱えていること、それだけが条件だ。そして向き合えない現実を抱えていない社会など、どこにもない。いまもまた、世界のどこかで新しいKAIJUが生まれているだろう。
8月9日の体育館で見せられたあの写真に、2026年のNetflixで再会するとは思わなかった。特撮という様式は古びるかもしれない。だが、怪獣という方法は死なない。『ガス人間』は、その証明なのである。
参考|
WWD 2024/09/25インタビュー
「寄生獣 -ザ・グレイ-」監督ヨン・サンホ 極限状況での人間の選択への興味

