書評『麦と兵隊』(後編)

前編より続く)
 『麦と兵隊』の「麦」は、作戦の決行地である中国江蘇省の北端・徐州に至る行軍の間、麦畑が延々と続き広がっていることに由来する。畑や麦自体の描写も多いし、それを植え育てる中国の農民についても度々触れている。日本の農民(や庶民)との比較もある。書きぶりは往々にして蔑視とも受け取れるのだが――これには、日本(人)の優位性を印象付けたい軍の思惑が働いているのだろう――、わたし個人はいわば低層の民に火野の視線が向いていることにほっとする。

 もっと多いのは、もちろん兵隊の描写だ。兵隊が元気で朗らかなことを喜び、誇る。一方で行軍の合間は食事以外泥のように眠る様について書くことも忘れない。火野のこの程度の将兵描写は、戦争賛美に「値する」ものなのだろうか、と考える。

 『麦と兵隊』刊行当時の国民の戦争礼賛(?)ぶりは想像するしかないのだが、軍当局は、最前線の「兵隊さん」たちの働きぶりをつぶさに文字化させ国民に見せることで、国民の兵隊さんへの理解と支持がいや増すと踏んだ――のだろう。

 そして国民もまたそれに「乗った」ことも忘れてはならないだろう。

 ただわたしは、書かれていないこと、書ききれなかったこと、書くわけにいかなかった兵隊さんたちの振る舞いや挫折、心や体の傷、そして火野の心中を想像して切なくなる。こんなきれいごとですまなかったはずだ、と。実際に検閲で削除されたらしき形跡も多々あるようだ。(のちに火野は削除が27カ所に上ったこと、戦後その部分を加えて再版したかったが、戦時中のこととて版元(改造社)にも原稿が残っていなかったことなどを書き残している。)

 もちろんわたしは、戦後の情報によって戦場の悲惨さを多少なりとも知っている。そもそも戦後の教育を受けた目で、戦争を見ている。それを承知であえて言えば。

 火野は中国との戦争のことを作品の中でしばしば「この偉大な戦争」と表現している。戦争は愚かだと言われる。偉大な戦争などあるはずがない、と多くの人は言うだろう。だが火野は必ずしも戦争そのものを賛美しているわけではないとわたしは理解した。火野が言いたかったのは、見ていたのは、ひとつの目標なり使命なりを共有し、私心、命まで捨ててそこに向かう心持ちのことではなかったか。

 命を捨ててまで果たす必要のある使命などない、と戦後のほとんどの人は思うだろう。しかしそうしなければ自分や自分の大切な人びとが属する共同体が失われるとしたら? 「兵隊さん」たちは、濃淡はあったにせよ、その想いを共有しながら戦ったのだ、とわたしは思う。偉大という言葉を当てるのはおかしいことだろうか。
 
《参考》
角川文庫「麦と兵隊・土と兵隊」火野葦平 
あけび書房「火野葦平小説集 戦後の兵士たち 」

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