半生を紡ぐ 家族の記憶を言葉にのせて
祖父母の家の記憶をたどっていると、
私の中にいつも浮かんでくる人がいます。
あなたの記憶に、最初に浮かぶのは誰でしょうか。
私にとっては、父でした。
祖父母の家の記憶については、
前の回に書いています。
第2章 父の背中
父は十六歳で三菱重工業の付属学校に入り、そのまま定年まで、ひとつの場所に根をはって家族の生活を支え続けた。それが父の何よりの誇りだったのかもしれない。
勤務先での継続表彰で贈られたパールのネックレスは、いま私のもとにある。作業着のまま出勤する父の姿は、子ども時代の私にはあたりまえの風景だった。
父は、健康とは言えない人だった。胃腸が弱く、無理を重ねればすぐに体に出た。それでも休まず働いた。時には海外に年単位で単身赴任もした。
私は父が不在の間、たくさん手紙を書いた。何を書いたのかはもう思いだせないけれど、便箋を広げて父を思いながらペンを走らせていた気持ちは、まだ覚えている。
父はときに、小学生の私に難題を出した。
「前に紹介した『杜子春』はもう読みましたか?どんな感想を持ったか送ってください。」
父に成長を認めてもらいたくて、精一杯背伸びした返事を書いた。父はそれらの手紙を、妹たちの分も含めてすべて保管していた。
父が亡くなったあと、それらの手紙は私の本棚におさまった。
その隣には、もう一冊のアルバムがある。
父がメキシコに単身赴任していたとき、私たちが訪ねた旅の記録だ。
あのときの父は、まさに「企業戦士」という言葉が似合っていた。独学で覚えたスペイン語を駆使して現地の人々とやりとりし、同僚たちのなかで堂々としていた。
少し照れくさそうに、それでも誇らしげに街を案内してくれた父の背中は、思った以上に大きかった。私にとっての父の新しい一面だった。
休暇をとって、アカプルコなどのリゾート地にも連れて行ってくれた。海沿いのホテル、強い陽射し、フルーツの甘い香り。あの時間には、家族の空気がたしかに流れていた。
記憶のなかの父は、少し日焼けして、笑っている。
旅の記憶と手紙たち。
私の子ども時代の大切な父のかけらは、いまも静かに本棚の一角におさまっている。
父の生い立ちは、寂しいものだった。実の父とは最後まで親子の名乗りをしなかった。父の母は親戚に父を養子に出し、父は子どもを持たなかったその養母と二人きりで暮らした。
就職して初めてネクタイを締めようとしたとき、誰にもやり方を教わってこなかった父は結び方がわからず、その場で泣いたという。
単身赴任の多かった父とは、思春期になるとどこかに一線が引かれていた。夫婦としての父と母は、子どもから見て仲が良いとは言えなかったし、私はいつも母側の気持ちでいた。
それでも大人になって母から離婚の話を聞いたとき、私は父と暮らすことを選んだ。父の誠実さ、三姉妹への深い愛情、生い立ちに起因する孤独を、私はようやく理解し始めていた。父のそばにいたいと思った。
父と三姉妹で暮らしたある時期、父と私は一緒に飲みに出かけたり、カラオケに行ったりした。並んでカウンターに座った父は静かにグラスを傾け、ときおりふっと笑った。
あの頃の父の横顔には、どこかほっとした穏やかな表情が浮かんでいた。父が再婚相手と出会う前の、短くて大切な、父と娘の時間だった。
やがて父は、心を寄せてくれる女性と再婚した。新しい家庭のなかで、父は孫たちを本当によく可愛がった。
だが若い頃から弱かった胃腸のためにがんを患い、入退院を繰り返すようになった。
あの年の冬、病をおして父と継母、私たち三姉妹とその家族、孫たちも一緒に旅行に出かけた。
夜、宿の広間でカラオケが始まり、父は「千の風になって」を歌った。少し震える声だったけれど、静かに、ゆっくりと、丁寧に。
それは、私たちへの最後のメッセージのようだった。
病気が進み、転移が頭に及ぶと、父は言葉の端々に違和感を覚えるようになった。頭痛、混乱、記憶の揺らぎ。そんな自分自身を父は誰より悔しがった。
ある日、「自分が自分じゃなくなっていくのが怖い」と父は涙をこぼした。継母がその手を握っていた。年月が静かに折り重なり、愛になっていた。
容態が悪化したという連絡を受けた日、私は病院に向かった。それまでずっと継母が付き添っていたが、その日は初めて私がかわった。
父はもう、はっきりと言葉を話せる状態ではなかった。瞳はうつろで、呼吸も浅く、まどろみと覚醒のあいだを行き来していた。それでもときおり、かすれた声で人の名前を呼んだ。
そして朦朧とした意識のなかで、父は一度だけ、確かに継母の名前を呼んだ。
短く弱々しい声だったけれど、そこには拠りどころを求めるような深い響きがあった。
私は、不思議と寂しくはなかった。むしろ、その呼び声に少し安心した。ああ、父はちゃんと愛情の中にいたのだと思った。
三姉妹はそれぞれ伴侶を得て家庭を持ち、子どもたちに恵まれていた。多くを語らない父でも、そんな私たちを見て、もう役目は果たしたと感じていたのかもしれない。
あのとき呼んだ名前には、願いではなく祈りがあった。これまでのすべてを託して最後の時をともに過ごす人への静かな信頼。
それは、愛されてきた者の誇らしい最期のすがただった。
父は最後の場所に「家」を望んだ。病院のベッドではなく、自分の暮らした家で静かに旅立ちたいと願った。
私たちはすぐに準備をして、父を連れて帰った。リビングの隣の和室にベッドを置き、窓を少し開けると新緑の香りが通り抜けた。
ベッドに横たわる父の顔を見て、私と妹はどこか安心した。これでよかった、と心から思った。
だから買い物に出かけた。夕飯の材料と、父が好きだった白ワインを一本。戻ったら、ほんの少しでも一緒に飲もう。そんな穏やかな時間がまだ続くと信じて。
けれど、すぐに電話が鳴った。
「お父さんが、もう危ない」
私たちは急いで家に戻った。
枕元には継母と末の妹がいた。継母がほんの少し白ワインを父の口元に含ませると、父は小さくうなずいたという。それはまるで「ありがとう」と言うように。
そして父は静かに息を引き取った。呼吸の音が止まり、風がひとすじ抜けていった。
私たちは遅れてその部屋に入った。まだ父の体はあたたかかった。父の手を握りながら、言葉では間に合わなかった「ありがとう」を胸の中で何度も繰り返した。
それから何年も経ったいまでも、私は父の夢を見る。
電話をかけるのを忘れてしまった父の誕生日。
「ああ、またか。」と、あきれたように怒られる。
怒られているのに、どこかうれしい。
どこか、ほっとしている。
私は、父に怒られるのが嫌いではなかった。それはきっと、父の愛情をいちばん真っ直ぐに受け取れる時間だったからだ。
いまでも、父に怒られたい私がいる。
子どものように、「まったく、おまえは……」と、言ってほしい。
あの背中はもう見えないけれど、
私の中に父のまっすぐなまなざしと優しい叱咤は、いまも変わらず生きている。
ここまで、読んでくださった方、ありがとうございます。
人は、去ってからもなお、言葉にできない教えや、生き方のかたちのようなものを残していくものだと感じています。
私の中に残っている父の背中を、
これからも静かに抱いて生きていきたいです。
