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Optima Roast — 答えを導き出す公式 —

割引あり

〜デバッガーが書き換えた、コーヒーの新しい風景〜

まえがき

プロローグ:三つの波と、置き去りにされた青年


よく、こんなものにお金を払えるな…

職場で、たまに起きるイベントがあった。

上司が気まぐれに「今日は俺が奢るよ」と言い出す日だ。自販機の前に全員が集められて、一人ずつ「何にする?」と聞かれる

――はずなのだが、そうならない日もある。

面倒くさくなった誰かが、「とりあえずコーヒーでいいよね?」とまとめて買いに行く。
戻ってきたその人は、無言で缶を配り始める。

逃げ場はない。

手渡されたのは、決まって缶コーヒーだった。

のどが渇いているときなら、もしかしたら飲めるかもしれない。
そう思って、何度かは缶を開けてみた。

——うげ。

甘くて、苦くて、後味が舌に張り付く。

「よく、こんなものにお金を払えるな」

本気でそう思った。ありがたがって飲む理由が、まったく分からなかった。

そのうち、缶を開けなくなった。
机の引き出しにしまって、あとで誰かにあげる。
それが一番、平和な解決策だった。

当時の俺
——真壁慧(まかべ けい)にとって、コーヒーとはそういう飲み物だった。

後になって知ったことだが、あの缶コーヒーの文化は、
「ファーストウェーブ」と呼ばれる時代の名残らしい。

正確に言えば、俺が職場で経験したのは、その「残響」だった。

ファーストウェーブの全盛期は、俺が生まれる前の時代。1970年代から1980年代。高度成長期のサラリーマンたちが、自販機の前で缶コーヒーを手に取っていた時代。

当時、日本に入ってきたコーヒーは、長い船旅を経て、品質が安定しない豆ばかりだった。

生豆には欠点が多く、そのまま浅く焼けば、青臭さや雑味が前面に出てしまう。

だから当時の焙煎士たちは、深く焼いた。
高温で長時間焙煎し、豆が持つネガティブな要素を焼き消す。
そして、焦げの香ばしさと苦味で「コーヒーらしさ」を作り上げる。

それは、時代の要請であり、技術の正解だった。

缶コーヒーは、その思想を大量生産に落とし込んだものだ。
安定供給、均一な味、誰が飲んでも「これがコーヒー」と認識できる。

でも、その文化は形を変えて残っていた。

「とりあえずコーヒーでいいよね」という、何も考えない親切。
俺の上司世代が、若い頃に刷り込まれた「コーヒー=缶コーヒー」という等式。

俺が拒絶したのは、ファーストウェーブそのものではない。
その時代の価値観が、惰性で引き継がれている状況だった。

25歳まで、俺はやりたいことが分からなかった。

自動車整備、板金塗装、工業団地での建設作業、リース会社での機械メンテナンス。
どれも悪くはなかったが、どれも「これだ」とは思えなかった。

ある日、知り合いが言った。

「真壁くん、プログラマーに向いてそう」

理由は覚えていない。
でも、簡単なレクチャーを受けて、1か月ほどで現場に放り込まれた。

最初は必死だった。
でも、コードを書いているうちに、気づいた。

これは、俺に合っている。

論理を組み立て、問題を分解し、最適解を導き出す。
その過程が、初めて「楽しい」と思えた。

それから数年。
俺は一人前のプログラマーになった。

でも、まだ何かが足りなかった。

仕事は、生きるための手段だ。
それ以上でも、それ以下でもない。

——俺が本当に情熱を注げるものは、何だろう?

その答えに出会ったのは、もう少し後のことだった。

転機は、地方出張の夜のことだった。


ホテルのエスプレッソマシン

宿泊したビジネスホテルのロビーに、セルフサービスのエスプレッソマシンが置いてあり、宿泊者は自由に飲めるという。

期待などしていなかったが、何事も経験だ。
伏せてあったカップをマシンにセットし、ボタンを押してみた。

「ブブブ……」

振動音がロビーに響き、小さな陶器製カップに、きめ細やかな黄金色の泡(クレマ)が重なっていく。

カップを手に取り、口に含んで、少し驚いた。

苦い。でも、ただ苦いだけじゃない。奥に、コクと、はっきりとした甘みがある。

「あ、これは美味しい」

飲み干したカップを再びマシンにセットし、2杯、3杯…
仕事中に不調になるかも?と、少し気になったので、カップを回収箱にそっと置いた。

それが、俺の中でコーヒーが"飲み物"から"味わい"に変わった瞬間だった。


その頃、街にはおしゃれなコーヒー専門店が増え始めていた。

イタリアンバールを模した店。シアトル系のチェーン店。カフェラテやカプチーノといった、ミルクを使ったメニューが主役の時代。

これが、「セカンドウェーブ」だったらしい。

1990年代から2000年代にかけて、コーヒーは「カフェ文化」として定着した。

焙煎の技術も進化し、豆の品質も以前より安定してきた。深煎り一辺倒ではなく、中煎りのバランスの取れた味わいが求められるようになった。

エスプレッソという抽出方法が、コーヒーの新しい可能性を示していた。

ある日、仕事の空き時間に、先輩に連れられてスターバックスに入った。メニューを見て、「エスプレッソをください」と言うと、少し怪訝な顔をされた。

「エスプレッソって、量、少ないですよ?」

「知ってます」

それ以上、特に会話は続かなかった。
その店は悪くなかった。でも、俺の居場所でもなかった。

ラテやカプチーノのような、ミルクを使ったレシピにも惹かれなかった。
ブラックで飲めるものが、飲みたい。

別の日、河川敷のイベント会場でベトナムコーヒー(ブラック)の試飲が無料でできる、というのを見つけた。

注文して何気なく飲んでみる。

これもまた、今まで知らなかった味だった。
苦味の奥に独特なフレーバーと濃厚な香り。
美味しかった。

「コーヒーって、こんなに違うんだ」

「フレーバー」というフレーズがコーヒーに結びついた瞬間だった。

少しずつ、世界が広がっていく感覚があった。

ネットでベトナムコーヒーについて調べて、コーヒー粉とベトナムコーヒー用のフィルターを手に入れた。

コンデンスミルクを入れるのが一般的らしいが、俺は入れない派だ。

「フレーバー」を求めて、ハワイのライオンコーヒーも試した。
フレーバー付きだと聞いていたが、実際に飲んでみると、確かに悪くない。

バニラマカダミアやチョコレートマカダミア、色々試した。


しばらくして、どこかで、こんな言葉を目にした。

「酸味が分かるのが、本当のコーヒー通だ」

正確な言い回しは覚えていない。
でも、そのニュアンスは、強く残っている。

その頃の俺は、酸味のあるコーヒーが苦手だった。
だから、心の中でこう思った。

「酸っぱいコーヒーは、苦手だ」

そして同時に、自分はまだ"コーヒー好き"の入り口にすら立っていないのかもしれない、とも感じた。


後から知ったことだが、その頃すでに、コーヒーの世界には「サードウェーブ」と呼ばれる新しい潮流が生まれていた。

2000年代後半から広がり始めた動き。
高品質なスペシャルティコーヒー。

産地や農園を明確にしたトレーサビリティ。
そして、豆が本来持っているフルーティーな酸味や、複雑なフレーバーを引き出す「浅煎り」という焙煎技術。

かつて、豆の品質が悪かった時代には、深煎りでネガティブを消すことが正解だった。

しかし今、高品質な豆が手に入る時代には、その豆が持つポテンシャルを最大限に引き出すことが求められている。

酸味は、もはやネガティブではない。
豆が持つフルーツの種としての個性そのものだ。

だが、当時の俺は、その波にも乗れていなかった。


後になって気づいたことがある。

コーヒーの「波(ウェーブ)」は、順番にきれいに入れ替わったわけじゃない。

むしろ、地層のように重なっている。

ファーストウェーブに乗った人は、今もその地層に住んでいる。
セカンドウェーブに乗った人も、
サードウェーブに乗った人も、それぞれの地層に居着いている。

そして、それぞれの地層の住人は、自分の地層の「正義」を掲げている。


それぞれの地層

俺が職場で配られた缶コーヒーは、ファーストウェーブの「化石」だった。上司世代が若い頃に刷り込まれた価値観が、形を変えずに残っている。

スターバックスで感じた違和感は、セカンドウェーブの「表層」だった。

そして、酸味への戸惑いは、サードウェーブの「入口」だった。

俺は、それぞれの波をリアルタイムで経験したわけじゃない。
ただ、それぞれの地層に、短い時間だけ足を踏み入れた。

そして
——どの地層にも、居場所を見つけられなかった。

・ファーストウェーブの缶コーヒーを拒絶し、
・セカンドウェーブのミルク文化にも馴染めず、
・サードウェーブの酸味も理解できない。

俺は、どの波にも乗れなかった青年だった。

コーヒーに興味を持ち始めてから、自然と、コーヒーに関する情報を探すようになった。ネットには、いくらでも情報があった。

焙煎した豆は、時間とともに劣化していくこと。
スーパーに並んでいる豆は、すでにエージングがかなり進んでいること。

「なるほど」と思った。

だったら、焙煎したての豆を買えばいい。

探してみると、ネット注文で受注焙煎してくれるショップがいくつも見つかった。焙煎度合も、ある程度は選べるらしい。

しばらくの間、俺はその世界で遊んでいた。
産地×焙煎度合。
この掛け算で、味がどう変わるのかを確かめる。

少しずつ、「分かってきた気」にはなっていた。

でも、だんだん違和感が積み上がってきた。

同じ「浅煎り」という表記なのに、届く豆の見た目が、店ごとにまったく違う。

ある日、研究のために取り寄せた豆を見て絶句した。

ラベルの表記は、間違いなく「浅煎り」だが、袋を開けた瞬間に絶句した。

豆が、テカテカと黒光りしている。
——油、浮いてる?
浅煎りなのに?

どう見ても、それは「深煎り」の範疇だった。

「……定義が、バグってる」真壁は思わず額を押さえた。

うちではこれが最も浅煎り」ってやつか。

浅煎りを頼んでこれが出てくるのなら、この店で「深煎り」をオーダーしたら一体何が届くというのか。

(……炭か?炭化して消滅する寸前の、黒い石礫でも届くのか?)

もはや笑うしかない。
(いや、笑えない。時間と金かえせ!…と言いたくなる)

「浅煎り」という言葉が、どこにも共通の基準を持っていないことに気づいた。

言葉は同じなのに、指しているものが違う。

それは、思っていた以上に、厄介だった。

取り寄せた「炭色」のテカった豆をゴミ箱へ放り投げ、真壁は深い溜息をついた。


テカった豆

「……結局、これの繰り返しなのか」

ネットを叩けば、無限にショップが出てくる。

レビューを読み漁り、今度こそはと期待して「浅煎り」を選び、注文ボタンを押す。

だが、届くのは浅煎りとは名ばかりで、「酸味が苦手」という大多数のユーザーに日和った、酸味が控え目な面白みのない味わいがほとんどだ。

全滅ではないが、リピート買いしたショップは1件だけだった。
「熱風式焙煎機で焙煎したコーヒーのフルーティーな美味しさを知ってほしい」という内容の一文が頭の片隅に残っている。

「熱風式焙煎機」というフレーズが脳裏に刻み込まれた。

求めている方向の味わいが微かに感じられる。
ヒントくらいにはなりそうな味わい。

それは、色々な産地の豆を10種類ほど各1〜2杯程の量のセットにしたお手軽価格の「お試しセット」だった。

「こんなに探して、手がかりはこれだけか?」

便利であるはずのネットが、今や方位磁針を狂わせる深い樹海のように感じられた。

進めば進むほど、自分の理想とする「澄んだ果実の味わい」からは遠ざかっていく。

費やした時間と、積み重なった空のパッケージ。

その山を眺めていると、冷徹な理性がささやいた。

(……時間とお金の無駄じゃないのか?
他人の焙煎に自分の理想の味を期待するのは、もう限界だ)

不確かな外部モジュールに頼るのをやめ、自らコアロジックを組む。

エンジニアにとって、それは最も合理的で、最も確実な解決策だ。

「……これ、自分でやるしかないんじゃないか?」

真壁はブラウザのタブをすべて閉じ、新たな検索ワードを打ち込んだ。

『家庭用焙煎機 熱風式』。

他人が描いた地図を捨てる。自分だけの羅針盤を、自分の手で設計するために。

ランニングコストを計算して、置き場所のことも考えて、失敗したらどうするかも想像した。

衝動ではなかった。むしろ、一つ一つ、冷静に潰していった。

プログラミングで問題を分解するように、焙煎という未知の領域を、データと論理で攻略する。

その過程で、気づいた。

——これだ。

俺が本当に情熱を注げるものは、コーヒーを飲むことでも、店を開くことでもない。

焙煎という現象の、謎を解き明かすこと。

それを理論化し、実装すること。

それが、俺のライフワークになる。
そう直感した。

「長い目で見たら、やったほうが、たぶん早い」

そして、もう一つ。

「自分が飲みたいコーヒーを、他人の基準に委ね続けるのは、もうやめだ」

そう思ったときに何か吹っ切れた気がした。

選択肢は一つしか残っていなかった。

——やるしかない。

真壁慧、28歳。職業、プログラマー。

そして今日から、
自称「コーヒー焙煎研究家」でもある。


第一章:「浅煎り」という誤解

焙煎を始めて三ヶ月が経った頃。

俺は、近所の喫茶店「古田珈琲」のカウンターに座っていた。

店主の古田誠一さん(推定60代、灰色の髪、焙煎機と同じくらい年季の入った白いエプロン)は、この道30年以上のベテランだ。

俺が焙煎を始めたと知ってから、何かと声をかけてくれるようになった。

「おう、真壁。今日も焙煎の話か?」

古田さんは、いつも気さくだ。

ただ、最近、少しずつ違和感も感じ始めていた。

焙煎を始めたばかりの頃、俺には、焙煎に関する知識がほとんどなかった。

だから、焙煎機に用意されているプリセットのレシピを使った。

取扱説明書の解説に「水抜きをしっかり」「前半はゆっくり」
――いかにも"それっぽい"言葉が並んでいる。

最初は、それを疑う理由すらなかった。

——機械の取説が言うんだから、たぶん正しいんだろう。

そう思って、何度か焙煎してみた。

でも、どうにも納得がいかない。
飲めなくはない。
でも、俺が探していた味ではない。

「何が正解なんだろう?」

そう思って、ネットで調べ始めた。
すると、出てくる、出てくる。

・水抜きが大事だという人
・前半は抑えろという人
・RORを一定に保てという人
・いや、落とせという人
・浅煎りは10分以内だという人
・いや、15分は必要だという人

どれも、断言調だ。
そして、どれも、少しずつ違う。

気づけば、混迷の中にいた。


フルーティーな浅煎り

ある動画を見た。
サードウェーブ系のショップを営んでいる人が、こんなことを話していた。

「コーヒーは、フルーツの"種"なんです。酸味そのものが主役じゃない。酸味を、甘みで包んであげると、すごく美味しくなる。酸味が苦手だと思っている人ほど、一度、試してほしいですね」

その言葉が、妙に引っかかった。

——それ、ちょっと飲んでみたい。

いや、正直に言えば、「完熟オレンジ感じる浅煎り」……いや違う、その先にある「爽快レモン香る極浅煎り」……そう、「心地よい酸味」の限界点を見極めてみたくなった。

自分で焙煎するなら、そこまで攻められるはずだ。

でも、ここで素朴な疑問が出てくる。

「浅煎りって……どうやるんだ?」

ネットを見ても、答えはバラバラだ。

「古田さん、浅煎りってやったことあります?」

カウンター越しに尋ねると、古田さんは少し間を置いてから答えた。

「やったことはないけど、知ってるよ」

——あ、出た。

「1ハゼの直後に、煎り止めすればいいんだよ」

なるほど。確かに、そう聞いたことはある。

でも、俺の頭の中には、さっきの動画の言葉が残っていた。

「酸味を、甘みで包む」

1ハゼ直後で止めて、本当に、"包む"ところまで行けるだろうか?酸味は出る。でも、甘みは?

その瞬間、はっきりと分かった。

これは、焙煎度の話じゃない。「浅煎り」という同じ言葉を使って、まったく違う地点を指している。

古田さんが言っている浅煎りは、「どこで止めるか」の話。動画の中で語られていた浅煎りは、「どう熱を入れてきたか」の話。

どちらも、浅煎りだ。でも、そこに至る道が、まるで違う。

言われた通り、やってみることにした。

「1ハゼ直後で煎り止め」。
浅煎り。
「心地よい酸味」の限界点。

焙煎を始める。
前半は、正直よく分からない。
温度は上がっている。豆は色づいていく。

しばらくして、——パチ。

1ハゼだ。……来た。

もう一度、——パチ。

「直後って、どこまで?」

一瞬迷ったが、思い切って止めた。
これでいい。これが、浅煎り。

冷却して、数日置いて、挽く。
粉の色は、かなり明るい。
期待と不安が半分ずつ。

ドリップする。
お湯を注いだ瞬間、立ち上る香りは、悪くない。

——これは、いけるかも。

一口、飲む。

……。

酸っぱい。
レモンというより、未熟な果実。
鋭くて、刺さる。
口の中に、甘みが残らない。

動画で聞いた「包む」という感じは、どこにもない。

失敗だ。
少なくとも、俺が求めていた味ではない。

でも、不思議と、ガッカリはしなかった。
むしろ、頭の中が、少し静かになった。

ああ、そうか。

これは、「浅煎りにした」だけだ。「浅煎りを作った」わけじゃない。

止める位置を早くしただけで、そこまでの道のりは、何も変えていない。

この焙煎で、はっきり分かったことがある。
1ハゼは、ゴールじゃない。
結果として起きる、ただの現象だ。

そこに至るまでに、どう熱を入れてきたか。
どこで、どれだけスピードを変えたか。
その積み重ねがなければ、「1ハゼ直後」は、ただの未完成になる。

ここでようやく、古田さんの言葉と、動画の言葉が、別物だった理由が腑に落ちた。

同じ「浅煎り」でも、見ている場所が、まったく違ったんだ。

数日後、また古田珈琲に行った。

失敗した浅煎りを持参して、カップに注ぐ。

古田さんは一口飲んで、少し顔をしかめた。

「……酸っぱいな」

「ですよね」

「やっぱり、水抜きが足りてないんじゃないの?」

——来た。

水抜き。
焙煎を始めてから、何度聞いたか分からない言葉。

「……水抜きって、終わったかどうか、どう判断してきたんですか?」

古田さんは、少し考えてから答える。

「そりゃあ……匂いとか、音とか。あと、昔はさ、豆が悪かったからね」

——ああ、そこか。

古田さんの言葉の端々から、伝わってくるものがある。
酸味は、基本ネガティブ。
苦味は、コーヒーらしさ。
浅煎りは、未完成。

口にはしないけど、ずっとそう思ってきた。

「やっぱりさ、コーヒーはもう少し苦くないと。酸っぱいのって、コーヒーじゃないよね」

言い切らないけど、立場ははっきりしている。

俺は、もう一度豆を見る。
ニュークロップ。
欠点豆も少ない。

この豆で、本当に「水抜き不足」が起きているんだろうか。


浅煎りとノルディックロースト

そんなとき、偶然目にした言葉があった。

——ノルディックロースト。

最初は、焙煎度の名前だと思った。
でも、調べていくうちに、どうも違うらしい。
それは、「どこで止めるか」ではなく、「どうやって、そこに至るか」の話だった。

「古田さん、ノルディックローストって聞いたことあります?」

古田さんは首を傾げた。

「ん?何それ。新しい豆の産地か?」

——やっぱり、知らないんだ。

古田さんは、ファーストウェーブの時代に自分の焙煎を確立した。
その技術は、確かに一つの完成形だ。

でも、時代は変わった。豆も変わった。

古田さんの知識は、そこで止まっている。

悪いことじゃない。
むしろ、一つの時代を生き抜いた証だ。

でも、俺が知りたいのは、その先だった。

「ノルディックロースト」を調べていく中で、不思議なことに気づいた。

どの情報を見ても、「水抜き」という言葉が、ほとんど出てこない。

あれだけ、焙煎の基本として刷り込まれてきた言葉なのに。

俺が最初に触れた焙煎の世界では、決まってこう言われていた。

「まず、水抜きをしっかり」

焙煎の最初は、豆の中の水分を抜くフェーズ。
ここを丁寧にやらないと、後半が崩れる。
——そう、教わった。

だから当然、ノルディックローストでも同じはずだと思っていた。
むしろ、浅煎りなら、なおさら水抜きが重要なはずだ、と。

でも、どこを探しても、その前提が出てこない。

代わりに出てくるのは、こんな言葉だった。

「勢いを殺さない」
「エネルギーを入れる」
「減速させるタイミング」

水分の話ではなく、動きの話ばかりだ。

ここで、小さな疑問が生まれた。

水抜きって、本当に"独立したフェーズ"なんだろうか?
それとも、後付けの説明なんじゃないか?

思い返してみる。
今までの焙煎で、「水抜きができた」と判断したことはあっただろうか。

水分量を測ったわけでもない。
抜けた瞬間が分かるわけでもない。
結局、温度と時間を見て、「このくらいかな」と思っていただけだ。

それなのに、この言葉は、やたらと強い。「水抜きが足りない」「水抜きが甘い」

便利だけど、逃げ道にもなる言葉。
失敗を、すべてここに押し込められる。

もしかして。
水抜きが重要なのではなく、
水抜きという言葉が、考えるのを止めさせていたんじゃないか。

そんな考えが、初めて頭をよぎった。

その夜、焙煎ノートを開いた。
そこには、今まで書き散らしてきた言葉が並んでいる。

・水抜きしっかり
・序盤は抑えめ
・焦らない
・豆が落ち着くまで

……落ち着くって、何だ?

ふと思い出す。
焙煎を始めた頃、水抜きの終わりをどう判断していたか。

「音が静かになる」
「香りが変わる」
「豆が軽くなる感じ」

どれも、数字じゃない。
どれも、感覚だ。

悪いわけじゃない。
むしろ、焙煎は感覚の世界だ。

でも——

(その感覚って、どんな豆を前提に作られたものだ?)

古田さんの言葉が、頭をよぎる。

「昔は豆が悪かったからね」

そう。水抜きが強く語られてきた時代は、生豆の水分値がバラついていた。保管状態も今ほど良くなかった。
欠点豆も多かった。

「とりあえず余分な水分を飛ばす」こと自体に意味があった。

でも今、目の前にある豆は違う。
ニュークロップ。
適切な保管。
欠点豆は最小限。

この豆に対して、同じ"水抜き"を同じ意味で当てはめていいのか?

焙煎カーブを眺める。
序盤で、温度上昇を抑えたときのカーブ。
確かに、安心感はある。
でも、その後の味はどうだったか。

思い出す。
酸が鈍る。
香りが平坦。
甘みが出る前に終わる。

悪くはない。
でも、感動はない。

「水抜きって……ネガティブを消すための工程だったよな」

独り言のように呟く。

欠点を消す。
青臭さを抑える。
雑味を減らす。
それ自体は、間違っていない。

でも、高品質な豆に対して同じことをすると、ポジティブまで一緒に削っていないか?

ここで、考え方が少しだけズレる。
いや、反転する。

「水抜きが足りないから酸っぱい」ではなく、「最初に熱が足りなかったから、化学反応が育っていない」のでは?

水分を飛ばすことが目的なのではなく、豆の内部にどう熱を届けるか。

ノートに一行書いた。

水抜き=低速という前提、誰が決めた?

ここで、ようやく一つの仮説が立つ。

「序盤は、抑えるのではなく、むしろしっかり上げるべきでは?」

水を飛ばすためにゆっくりするのではなく、水がある状態だからこそ、一気に熱を入れる。
そうすれば、内部まで熱が届く。

後半の反応が素直になる。
酸が"刺さらず"立ち上がる。

そんな気がした。

まだ、確信はない。
でも、方向は見えた。


第二章:フルスロットルの発見


エスニック雑貨店の熱風式焙煎機

その少し前。

車で30分ほどの場所にある、エスニック雑貨店のことを思い出した。

香辛料やら、よく分からない置物やら、
なぜかハンモックまで売っている店。

その一角に、小さなコーヒーショップがある。

「その場で焙煎しますよ」

初めて行ったとき、そう言われて軽く驚いた。

焙煎機は、ドラムではなく熱風式。
正直、そのときは焙煎方式の違いなんてよく分かっていなかった。

「浅煎りでお願いします」

そう頼むと、店主はあっさり頷いた。

焙煎が始まる。
音が違う。
テンポが違う。
何より——早い。

「……もうですか?」

思わず聞いてしまった。

「はい、もう終わりです」

時計を見る。
4分ちょっと。

(え?)

豆の色は、確かに浅い。
でも、青くはない。

家に帰って、すぐに淹れてみる。

一口飲んで、止まった。

(……美味しい)

酸はある。
でも、刺さらない。
フルーティーで、ちゃんと甘い。

(あれ?水抜きは?)
(4分で、水抜き、終わる?)

頭の中で、今までの前提が少しずつずれる。

ノートを開く。
箇条書きで、メモを取る。

・熱風式
・浅煎り
・焙煎時間 4〜5分
・内部に熱が入りやすい?
・表面を焼かずに進む?

さらに調べる。
すると、出てくる言葉。

「熱風式は浅煎りに向いている」

理由を読む。

・熱が均一に当たる
・内部まで熱が届きやすい
・短時間でも反応が進む

ノートの余白に丸をつける。

(短時間=未熟じゃない)

ここで、はっきりする。

時間が短いから浅いのではない。
熱の入り方が違うから、短くて済む。

古田さんの声が、頭の中で再生される。

「水抜きが足りないんじゃない?」

(でも、この豆はちゃんと美味しい)

点と点が、静かにつながる。

・水がある状態
・内部に熱が入り
・反応が育ち
・結果として短時間

「……最初から抑えなくていいんだ」

そう書いた。

あとから分かったことだが、あの店の焙煎機はプリセットできる熱風式焙煎機だった。
つまり、その場で焙煎士がつまみを回して判断していたわけではない。
豆ごとに、あらかじめプロファイルが組まれている。

焙煎中、店主はほとんど何もしない。

生豆を計り入れ、画面を一度操作して、あとは待つだけ。

(つまり……)
(これは"偶然うまくいった"焙煎じゃない)
(最初からそうなるように設計されている)

あの4〜5分の浅煎りは、思いつきでも、無理矢理でも、勢い任せでもない。「この豆なら、この熱の入れ方が最短」が、最初から前提として書き込まれていた。

(時間が短い、のではなく)
(客を待たせないように、短くなるように組まれている)

ここで、もう一度ノートに戻る。
さっき書いた仮説に、線を足す。

仮説:最初は最速&最大速でいい

条件:内部に熱が届く設計なら(熱風式焙煎機なら可能)

つまり、焙煎機、熱の伝え方、豆の状態。
これらが揃っていれば、「最初はフルスロットル」という思想は机上の空論じゃない。

プログラムで言えば、最適化アルゴリズムだ。

ボトルネックを先に潰す。
無駄なループを削る。

焙煎も、同じ構造なんじゃないか。

次の焙煎で、試してみることにした。

「最初は、最速&最大速でいいんじゃないか?」

豆はニュークロップ。
量は、あえて少なめ。

——今日は、安定を捨てる。

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