音信不通のイトコと3体の喉仏様
自称・「<教育虐待>を世に知らしめるための事件を起こした」人がいる今日この頃、同じように<教育>を巡って親と行き違いが生じたイトコを尋ねました。伯父の死を知らせるためです。
電車を乗り継いて会いに行ったのは、伯母(父の姉)の子どもで、わたしより4才くらい年上のA。この人が音信不通の主。親が望む進路と本人の適性が違った人。彼の親は本当の彼を見ていなかったと思う。
亡くなった伯父は「妻よりも、子より大事な実の兄」という句を作ったことがあるくらい父と仲良しでした。作ったのは二十代のわたし。
10年ほど前、伯父はこの甥(A)と縁を切ることを決めました。
父から「Aと縁を切る。Aの父親がAに生前贈与をしたから、おまえも関わってはいけない。」と電話が来ました。
Aの家庭は伯母(父の姉)が亡くなって以来、コミュニケーションがうまく取れなくなっていました。伯父の縁切り宣言の後、Aは兄弟や親戚と連絡を取ろうとせず、父親とだけ会っているようです。この流れがいつから起きたかと言うと、あの戦争が終わる少し前から始まっていたのかもしれません。
ここから先は霊やオカルトの話になるので、「その手の事は信じない」という方はここでさようなら。ただわたしは
「分骨した喉仏は、3回忌や7回忌を機会にお墓におさめるものだ」という説を信じます。
目に見える理屈では証明できない何かが、この世にはある気がする。
今は遺骨をペンダントにしたり、自宅で手元供養が流行り始めているし、別に問題ないとするブログもたくさんある。けれど、「長期にわたって一部の、それも複数人の遺骨を家においた例」を書いた人はまだいないと思う。
これは80年間自宅に遺骨の一部を置き続けたある一族に起こったこと。ちょっとだけ身元を隠すために、そしてここには書けない事もあるのでその辺はぼかしてある。
昭和、平成、令和を通じて、わたしたち一族に何が起こったのか書いてみる。
きっかけは、戦争が終わる少し前、曾祖父が死に、祖母(大正6年生まれ、1917年)が喉仏を分骨して婚家に持ってきたことから始まったのだと思う。いや、そもそも曾祖母が親戚の反対を押し切って、年若い男女を一つ屋根の下に住まわせたことから始まったかもしれない。
戦争中、曾祖母の親戚が「娘を下宿させてほしい」と言ってきたのだという。何しろ曾祖母と曾祖父、未婚の一人息子がいる家だ。
既に結婚し、伯母を産んでいた祖母は「イトコとはいえ、間違いが起こると困るからやめた方がいい」といったが、曾祖母は「私の身内です。私がちゃんと監督しますから」と聞かなかった。
そして問題の娘が来た。最初は「その辺に置いといてください」と娘からの花に、本から目も上げなかった一人息子。娘はめげずに贈り物をしつづけ、次第にふたりは一緒に出かけるようになった。
昭和20年に曾祖父が死んだ。
曾祖父の死因は分かっていない。ただ突然だった。
長男一括相続でこの時は何ももらえなかったのではないかな。祖母は見合いで、自分の親の価値観が「会う=結婚の承諾」だとしらずに見合いへ行き、断ることができずに結婚した。年の頃、19か20才。この婚姻を逃せば後がない。そういう時代を生きていた。
自分の妹が背が低かったので、そうではない女性を探していた祖父(明治44年が45年生まれ、1911年? )は25歳くらいだった。祖父は「相手が座っていてよく見えなかった。もう一度合わせてくれ」といい「そんなことできるか、会ったんだから結婚しろ」と言われたという。事実、祖母は背が低かった。
結婚するにあたり、祖母は曾祖父から当時貴重だった腕時計とダイヤをもらった。それらは新婚旅行で枕元から盗まれたというから、とんだ新婚生活の始まりである。
伯母が生まれ、戦争中に祖母は、祖父の仕事の関係で中国大連に渡る。
祖父は先に赴任していた。祖母が幼かった伯母を連れて中国へ向かうと聞くと、「女子供だけでは不用心だ」と舅がついてきた。
ところがその舅(祖父の父)は曲者だった。車中で見知らぬ人と意気投合、「ワシはこの人といくから、あんたは別に行きなさい、港で会おう」ということになった。
「何のためについてきたのか、全く腹が立ちましたよ」と祖母は語る。
祖母は「子供は親に従う、妻は夫に従う。老いた親の面倒は長男が見る」で育ち、「夫や舅は自分を守るべき存在」とみていて、生涯これは変わらなかったと思う。
無事中国についてみれば、そこには国策による理不尽があちこちにあった。
幼い伯母の手袋が片方だけ盗まれた。伯母の手袋は、盗まれたものが集まるという泥棒市に「ちゃんとあった。自分のものを買いましたよ」。
着物を一式盗まれれば、警察から「見つかりました」と連絡が来る。たかが盗みで犯人はこの世から姿を消した。
祖母はその連絡に対し「誰が着たかもわからない着物は嫌じゃないですが、気持ち悪いから(引き取らない)」と断っている。
伯父は中国で生まれて、しばらくして帰国。祖父は遅れて帰国。中国の人が見送りに来てくれ、「内地は大変だから(換金できるよう)これを持って」と砂糖を渡されたが、「こちら(中国)の方が大変だから」と断ったという。祖母はあれがあったら家計が助かったのに、とわたしに愚痴った。小さかった伯母がクッキーを食べたいというので、仕方なく砂糖抜きで作った。伯母はそれを喜んて食べたのが不憫だったと語った。
そういう生活の中での曾祖父の死。数分間まで普通にしていて、「(駅に)つきましたよ」と声をかけたらもういけなかったんです。と祖母。
28才の祖母は喉仏を分骨した。これが80年前。終戦後は千葉に移り、父を産み、伯父は盲腸炎が破裂して死にかける。
父が物心つくときは一家は長野県の南信にいたという。この村の出身者に戦艦大和の艦長がいて、そのお墓が村にあるという。
父が小学校の頃だった。姑が若くしてある臓器が原因でなくなり、舅が「帰って来て、面倒を見ろ。帰って来なければ再婚する」と言ったので、婚家の土地に引っ越して、死ぬまでそこにいた。
祖母は遺骨を隠し持ちながら、中国、千葉、南信と転居していたのか。
ともかく、婚家の土地に戻ってからは、伯母、伯父、父は、喉仏のある家で育つことになる。
このころ、祖父の妹が同居していたという。「お姉さん、今日はわたしがお昼におそばを打ちます」と言ってソバを打ってくれるのだが、台所が粉だらけになって困ったという。この小姑は今は実家のお墓に入っている。父いわく「うーん、いつまで生きてたっけ。旦那さんが先に亡くなった。女子だけで嫁に行った」。
「女ばかりで、名字は絶えた。」こんな話ばっかりである。祖母の直系で生まれたひ孫世代に生まれた子は女だけ。祖母の弟も娘一人。しかし、名前は変わっても血は続いていくのである。
伯母のことを少し書いてみる。
父より6歳くらい年上だというから、昭和15年(1940年)の生れで、昭和30年初期、中学生だった伯母には夢があった。
名門女子校に進学したかったのである。当時、四当五落(よんとうごらく)といわれ、「睡眠時間四時間で勉強したものは合格し、睡眠時間五時間の生徒は落ちる」と言われていた。素直な伯母は睡眠時間を削り、勉強しようとした。ところがここで「待った」をかけたのが祖父である。
伯母が勉強していると、祖父がやってきて、
「いつまで勉強している、早く寝ろ」と怒ったと言う。
伯母は「勉強をやめて寝るしかなかった」「悔しかった」という。
その話を祖父の死後に伯母が父に話し、父が伯母の死後にわたしに話すのである。成績が上がらなかった伯母は憧れの学校を受けることすらできずに、別の学校を受けたのである。
一方、伯父や父は「四当五洛で勉強しろ」と言われた。
時は前後する。婚家の生活に嫌気がさした祖母は家を出ようとした。「行かないでくれ」とめる祖父。
「いえ、でていきます。」という祖母。
修羅場である。
そこへ帰ってきたのが中学生くらいの伯母。
祖父「お前も止めろ」
しかし、伯母はとめない。つったってるだけ。業を煮やした祖父。
祖父「なぜ止めない。お母さんがいなくなれば、お前が家事をすることになるんだぞ」
伯母は言う。
「お母さんは十分苦労した。出ていくなら私はとめない。」
祖母の手から落ちる荷物。
祖母はもう一度、やり直そうと思ったという。それからは祖父は祖母を大切にして、月に一度映画を二人で見に行くようになったという。これは母がわたしに語った話。
母が語った話には出てこないが、当時伯父と父は小学生で授業中のはずである。全員置いてこうとおもったんだろうか。
そんな伯母は卒業後、ペーパードライバーの祖父の外出の際に運転手となっていた。
見合い結婚して子供に恵まれるが、閉鎖的な地域に嫁いだため大変なストレスがかかって、人相が変わってしまった。この伯母は生涯を通じて金銭に苦労し、楽になった頃旅立ったとが悲観主義の母は言う。
伯母が嫁いだ後、祖母は自損事故を起こして運転免許を返納している。
一方、祖母の実家
戦後、一家の主となった一人息子は例の親戚の娘と結婚した。子供生まれたが、いつの間にか一人息子はアルコール中毒となり入院した。自分が取り持った嫁との折り合いが悪くなっていた曾祖母は、行き場をなくした。曾祖母が泣きついたのは、娘の夫(祖父)だった。
曾祖母はかつて、結婚の贈り物として家を買っていたのである。その家は戦争で焼けたけれども、その恩を祖父は忘れていなかったらしい。自分の両親を祖母が看取り終わったので、妻の母もどうぞ、というわけ。
こうして、曾祖母は(自分の夫の)喉仏のある家に引き取られることになった。しばらくは平穏に暮らしていたらしい。台所の横の、暗いおこたのある部屋にいたのを覚えている。
祖父が70才を前に他界。
死因は伯母と同じ臓器の不調。検査入院して、「異常はないようですね」と退院予定日の前日、看護婦さんと話をして、ふと見たら亡くなっていたという。
祖父の死は、ふたつの事件を起こした。一つは、曾祖母の死。優しい婿の死にショックを受けた曾祖母が数か月後に他界。
もうひとつは、争いのタネがまかれたのである。このとき、伯母は生活上、お金が欲しかった。とここまで書いたら、玄関で「フッフッフー」と変な声が。
高3が「ドアの前にゴキブリが張り付いててあけられない」
わたし「それ、3時間前からいるよ。ただの黒い虫だよ」
高3「ゴキブリに決まってる」
四十九日で魂となった伯父だろう。
話に戻る。お金が欲しかった伯母は夫と一緒に数回、遺産を分けてほしいと頼みに来たそうだ。しかし、伯父は渡さなかった。
伯母はそれを父に愚痴った。
父は、生前の曾祖父から「裏の土地はお前にやるから、そこに家を建てて住め」と言われていた。
【伯父が「そこはおれが使うから、お前には別の土地をやる」と別の土地をもらった。】と老いて記憶のあやしくなった父は言う。わたしが知る限り、祖父が死ぬ前、相続が起きる前に、父はその別の土地を畑にし、自分のものとして使っていた。
この畑がいつ父のものとして正式に登記されたのか分からない。祖母は舅の相続の時にもらったようなニュアンスでわたしに話した。
父は「おれには畑があるから(何もない)姉ちゃんに(お金を)やった。」という。
「父がもらったその土地はいつ、だれからもらった」については、それぞれ微妙に食い違う。
ともかく、父が伯母にいくばくかを融通したのは事実である。たぶん、それもあって、伯母はわたしに優しかった。すると今度は母がわたしに愚痴った。
「うちだってお金はいるのに」
伯母は自分の父の時はもらえず、母親より先に亡くなったので、実家からもらえたまとまった財産といえば、結婚の時の荷物と、この父からのお金だけだった。あとは毎年のお米。
曾祖母の死
祖母は同じように曾祖母の喉仏を分骨してもらい、小さな仏壇においた。これが約40年前の事。
その後10年くらい、喉仏さんが二体ある家に住んでいたのは祖母だけ。
ちなみに、曾祖母の死から一年後に、祖母の実家に不幸な死が訪れたという。祖母の弟である。ちなみにこのお葬式は弟嫁の宗教観により、全く違う宗教で行われたと、祖母が怒っていた。
弟の妻は祖母に「お義姉さん、いつでもきてくださいね。(曾祖母の遺品は)しまっておきますから」と言ってくれたそうだが、祖母は中国での着物を盗まれたときと同じ態度で「そんなの、いりませんよ」と応じ、引き取ることはなかった。祖母と弟一家との縁はここで終わる。
祖父の死から数年後
父の生家を建て替えた。喉仏さんはやはりお仏壇にあった。喉仏さんと家に住むのは祖母と伯父と伯父の妻、いとこ姉妹。
祖父の7回忌の法事に両親とわたし、妹、いとこ妹が参加したのを覚えている。場所は当然、喉仏さんのある家。法事を終えたわたしは喉仏さんのある仏間でこたつに当たり、のんびり本を読んでいた。
自分の家にはなかったが、白い包みの「喉仏のある家」はわたしにとって普通だった。
やがて、いとこ姉妹は県外に行き、家に残されたのは伯父ひとり。いつのころからか、伯父の妻と祖母は同じ敷地内の古い家で寝起きしていたと聞く。何があったか知らないが、伯父が住む家は花と酒瓶が並んでいた。
喉仏のある家に、月に一度来客があった。伯母である。昼間一人で暮らす祖母を心配して、片道1時間の道のりをやってくる。
伯母のふたりの子供AとBたちは、高校受験も大学受験も数年にわたり受験した。当時の長野県は1000人くらいの規模の中学校であれば、高校受験浪人が数人いた。その人たちは一年勉強に励み、現役の時より良い高校に行く。
伯母の夫の親しい同僚の横領が見つかったのもこの頃。
伯母は身寄りのない夫の親戚の面倒も一緒に見ていた。
伯母のこどもたち・ABが大学に在学中、伯母は自分の父と同じ、内臓の病で70の手前で他界した。出先のなじみのお店で買い物をして、お財布を出そうとして、次の瞬間に倒れたという。
曾祖父、祖父、伯母。この三人の亡くなり方は基本的に同じ。それまで日常生活を送っていて、突然他界するパターン。このとき倒れた伯母を迎えにいったのは、父。
伯母がなくなったのは水曜日で、その前に日曜日に、祖父の13回忌の法要、をして、祖母、伯母、伯母の夫、伯父、伯父の妻、父、母、わたし(いとこは覚えていない)であったばかり。わたしは「出たい」と主張したのである。
こうして祖母は子に先立たれた。長年にわたり、喉仏のある家に育ち、出入りしていた人物はもう一人いる。それは、
父(昭和21年 1946年生まれ)
父は姉や兄と同じように、見合いで結婚した。祖父母世帯と違うのは結婚前にデートする機会があって、断るチャンスがあったこと。
とはいっても祖父母世代同様、結婚式は細部まで双方の親が決めた。本人たちは当日会場に行くだけ。そして、結婚式ではご祝儀を盗まれたという。とんだ新婚生活の始まりだ。新婚旅行先で父はお腹を壊してホテルにかんずめ、「一人で行って来たら」と父、母は「一人じゃねえ」と観光せずにつまらなかったという。とんだ結婚生活の始まりである。
結婚してようやく子どもが生まれたと思ったら、オイルショック到来。市立病院だったのでボイラー費が削られ寒いわ、母乳の出が悪かった母は粉ミルクが足りずにわたしが泣いて困ったという。
あたりで、他家に嫁いだ祖父の妹が他界している。そのお葬式に父と伯父が参列した。
この人の夫は先に亡くなり、娘しかいなかった。その娘は他県にいるため、それ以後の付き合いがないという。母談。
二人目が生まれたとき、父は不況のなかコネで就職した会社を退職。
妻と自営業をはじめ、庭仕事をしたりお小遣いをもらったり、実家に頻繁に出入りしていた。
そんな我が家では従業員さんが急に辞めたり、レジのお金があわないのは日常茶飯事だったし、父がきっかけで経営に問題が生じる事もあった。
父も母も40代で病気で死にかけた。祖母や伯母はお見舞いに何度も来てくれた。伯父は一度かな。学校を卒業したわたしはいつまでもふらふらする。妹は県外で就職・結婚。母は借金返済にまい進することになる。
いつだったかうちに泥棒が入って父のバッグと免許証が盗まれたし、母方の祖母のお葬式の時には母の喪服一式が盗まれた。おまけに父の元同僚は警察に逮捕されている。
その少し前
ドクターコパ、という風水師が流行っていて、わたしは人生を換えようとこれに飛びついた。それが伯母のお葬式の5年後くらい。
この時、いとこBが東京にいるというので会った。Bも風水を実行していた。血は争えない、と二人で笑った。結婚がすべてではないけど、風水組のBは職に就き、家庭を手に入れた。コパさんありがとう。
Aは、羽振りの良い時もあった。喉仏のある家に父親が住むイトコたちの人生も表面的には、まあ普通だった。
伯母が亡くなった10年後
80を過ぎた祖母も亡くなり喉仏が3体になった。祖母は父が死にかけたのと同じ原因で、死んだ。
祖母のお葬式にもひと悶着あった。
伯父が突然
「おい、お前のお寺さんを紹介してくれ」
父に言い、それまでのお寺と縁を切ってしまったのである。父は婿養子なので、同じ仏教徒とはいえ宗派もお寺も別だった。
こうして、祖母は自分の弟と同じように、本人が思っていたのとは違う形式のお葬式で送られることになったのである。
これが20年前。無神論者の伯父は、祖母と同じようにお仏壇の面倒を見たのだろうか?
わたしやいとこ妹が結婚したのもこの頃。32歳、厄年だったわたしは第一子を生むときに持病が再発、経験豊富なドクターに「こんな症状初めて見ました」と言われた。仕事はしていなかったのに、妊婦としてどう生活してよいか分からず措置入院。その後は、妊婦によくある貧血で薬を飲んだり注射に通う。里帰りは直前でドクターの許可がおりなかった。
さらに持病とは全く関係なく、出産直後にトラブルが起きた。夫は「今日が峠です。無事に超えれば大丈夫」といわれたという。出産後は出産後で、原因不明の熱がでて夜中に隔離され、翌朝には平熱に戻って部屋に戻る。薬を飲んでも注射をしても貧血の数値は改善せず、「この数値だともっと大変そうなんだけどなぁ。普通にしてるのはどうして?」ドクターを不思議がらせ、退院は伸びに伸びた。
妹はかかりつけの産院から「大事をとって大きな病院で出産してほしい」と言われ転院した。妹の子は丈夫だが、妹自身が出産を機に体が弱くなった。
わたしの第一子も第二子も、いとこ妹の子どもも、幼い時に病院のお世話になっている。
単なるカンだけど、たぶんBはもう風水や片付けをしていないと思う。わたしは第一子を出産以来、ぼちぼちと神社にお詣りをするようになった。そのおかげかどうか分からないけれど、第二子のときは貧血の薬を処方されたくらいで、里帰りのできたし、普通の人と同じ期間で退院した。風水からはやや遠ざかったけれど、片付けは続けている。
伯父(昭和19年、1944年生まれ)
三体の喉仏さんの家に住んでいた伯父はどうか。見合い結婚。「これが縁か」という感じで結婚を決めたという。
伯父は三人きょうだいのなかでは一番、社会的には成功したと思う。しかし、そのことはここではくわしく書かない。
仲の良かった同僚が横領し、伯父と疎遠になった。お気づきだろうか、これで、別々の地域で生活している三人姉弟・全員の身近な仕事関係者(元含む)が、そろってお金にまつわる事件を起こしたことになる。
田舎は狭くて知り合いだらけだが、他の家でもこんなことってあるのだろうか? そのほかにもちまちま、死因とか病気とか「歴史は繰り返している」。
その後も60を過ぎた伯母(伯父の妻)は他の人が入院するような病でも入院しなかった。小さなことでは玄関の前にあった堂々たる松が枯れてしまった。伯父が別の木を枯らそうとして除草剤をまいたら、どうも根が一緒にあったらしい。あの家の男性が代々大切にしていた木。残念なことである。
松はお正月に飾るお飾りや門松に使われる。歳神さまのよりしろになる木だだという。この木にちなんだ名前を伯父はペットにつけていた。
その数年後、70を過ぎた伯父は病気になる。その昔姑の死因となった病である。さすがに現代の医学は素晴らしく、伯父は切り抜けた。
いとこ姉は職場を渡り歩くようになった。いとこ妹は結婚、子どもを一人で育てることにした。
Aは40を超えても人生の道筋が不明確で、結婚を世話をする前に伯父が職を世話しようとしたが嫌だという。晩婚化、少子化の時代でもあるが、伯母の直系はAとBでおしまいになる。
ひとつひとつは「時代」とか「他の家庭にもよくあること」だが、こうして書いてみると、親戚の家に喉仏さんがない家でも同じなのかな、と疑問に思う。
わたしは昭和48年1973年生まれ。団塊のジュニア世代で、就職氷河期世代。
夫と結婚してある日、思った。「あれ? 毎日が平穏すぎない? 結婚式や新婚旅行で泥棒にあわないし、家に泥棒は入らないし、ごたごたしないし、お金を貸してくれと言ってくるひともいないし、約束は守られるし、だれも大病で入院しないぞ?」。
それまでは「約束は状況に応じて変更するもので、守られないこともある。ほとんどの場合、守られなくてもフォローはない。お金はときどきなくなるもの。友人でもお金を貸したら全額返ってこないのが当然。幼子や働き盛りの人が入院&通院はあるよ」だった。
「もしかして、うち(実家)って、本当におかしい?」
確かに母は「うちはおかしいよ」という事はあった。でもどこからが「おかしく」て、どこからが「普通」かわたしにはわからない。
喉仏さんの影響を、知らず知らずのうちに父が持ち帰ってしまったのだろうか?
こうして考えると、早い人は受験期から影響が起きると言える。遅い場合は就職、結婚、厄年(自分や子どもの厄年、父と母が入院したのはわたしと妹が厄年の時。)出産の際に起きると言える。もしくはそのあたりに運(加護)がない、とも言いかえることができる。
とは言っても、今の自営の不透明さと実家の家族関係の不和まで喉仏さんのせいにするのはさすがにどうかなと思う。しかし、わたしが生まれる前から、父の生家に血縁者の喉仏さんがあったのは事実である。それが40年、20年と一体づつ増えていったことも。
そして今年、伯父が亡くなった。伯父の死に方は曾祖母と同じ。お葬式はその伯父が切り替えたお寺さんのまま行った。
喉仏さんの家に住んでいるのは、いとこ姉。たぶん伯母(伯父の妻)。
いとこ姉は伯父が病んだこともあって帰ってきたのだという。
いとこ姉の人生や人となりについてはよく分からない。が、高校生の頃の「使わなくなった物をみんな捨ててしまう」彼女はいない。たくさんのものと暮らしている。
いとこ妹は「三体の喉仏さん」を何とかしてくれると言った。わたしもそろそろ、この不穏な現状からおさばらしたい。そうそう、音信不通のいとこAとは会えなかった。
マンション住まいなので管理会社に連絡したら、Aにはわたしのことを「知らない」と言ったそうで、管理会社の人は「弁護士さんにならお会いになるそうです。」とのこと。
祖母・伯父・父がまいたタネはどこまで広がるんだろうか。
読んでくれてありがとう。ここまで読んだくれたあなたに、役に立つかどうか分からないけどお礼がわりに書いておきます。
伯母の家がしなくて、祖父母と伯父と父の家がしていた共通のことがあります。
それはペットを飼っていたこと。祖父母は父達が幼いころ猫を、うちでは妹が学校を卒業するまで犬を、伯父は喉仏さんの家に住むようになってからは、ほぼ40年間ペットがいました。
もしかしたら、喉仏さんの良くない影響がこの世にあるのだとしたら、そのペットたちが負の影響をいくらかでも引き受けてくれたのかもしれません。ありがとうペットたち。そういえばわたしが一年生の頃、犬が死んだ。外飼いで首輪が抜けてダンプにひかれた。小学一年生、それは子どもが一番事故にあう年齢だと言われています。
わたしの話はこれでおしまい。皆さんの平穏を祈っています。
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