乗組員は、ひとりだけ【やりとり手帖】022
ふっと風向きが変わるように、
心の向きを変えられる小舟がいる。
「あっ」と
何かに目をとめた瞬間には、
もう真新しい景色の中にいるような、
そんな軽やかさ。
見ていて、とても気持ちがいい。
あるいは、
水しぶきを上げて走るモーターボート。
あの勢いもまた、いいものだ。
気になる場所を見つけたら、
呼ばれるまま、
おもしろそうな方へと、
迷うより先に突き進んでいける。
ヨットの生き方も、また粋だ。
彼らは風を読む。
あらがうのではなく、流れを見つける。
季節の移ろいとともに航路を変えていく、
そんな旅も悪くない。
それからね。
向きをひとつ変えるのにも、
ずいぶんと時間がかかる大きな船もいる。
出航の前に、
何度も海図を見返し、
燃料を確かめ、
天気の移り変わりをじっと精査する。
それから、
乗っている人たちの顔をゆっくりと見渡して、
「よし」と、
静かに舵をきるんだ。
こういう船は、
一度走り始めるとめっぽう強い。
多少の荒波くらいでは、
びくともしない。
むしろ旅が長くなればなるほど、
その船にしかない “らしさ” が、
じんわりと滲み出てくる。
いろんな港へ寄りたいし、
いろんな景色も拝みたい。
たくさんの人にだって出逢いたくてね。
そんな欲張りなほどの好奇心を
たっぷり積み込んでいるものだから、
その航路は案外、忙しい。
ただ、燃費はあまり良くないんだね。
静かな港へ身をよせる時間や、
誰とも言葉を交わさない時間、
ただぼんやりと海を眺める時間もね。
そうした “寄港” がなければ、
遠くまで走り続けることはできない。
乗客だって、大勢かかえてる。
慎重な人、
大胆な人。
今は休みたがっている人、
うずうずと動きたがっている人。
誰かを守りたい人や、
まだ見ぬ世界へ焦がれる人。
これだけいれば、
誰かひとりの声だけで
進路を決めるわけにはいかない。
けれど、不思議なものでね。
これほど大きな船を動かしている
乗組員は、
たったひとりしかいないんだ。
舵を取るのも、
機関室を操るのも、
甲板を見回るのも、
全部ひとりでこなしている。
だから、いつも全体のことに
目をくばらなきゃいけない。
だからといって、
ずっと重苦しく
船にしばられているわけじゃないのが、
この船乗りの小気味いいところ。
ときどき、
小さなモーターボートをひょいと海へ降ろして、
少しだけ船を離れることがある。
気になった景色をのぞきに行ったり、
助けを呼ぶ声へかけつけたり、
ふと見つけた新しい航路を確かめに行ったり。
そのときの足取りは、
おどろくほど身軽で、軽快だ。
しばらくすると、またふらりと戻ってくる。
見上げれば、
大きな船はちゃんと海に浮かんでいて、
乗客たちも思い思いの時間を過ごしている。
「さてと」
そう呟いて、また静かに舵を握る。
豪華客船。
きっと、この船にしか似合わない海がある。
速くはなくても、
器用じゃなくても、
どこまでも遠くへ旅を続けられる船。
そんな不器用で、
けれど、確かな強さを持った船もまた、
この広い海には生きている。
この『やりとり手帖』 は、
日々の暮らしのなかで生まれた気づきを入り口に、
人との関わりや、自分自身との対話について
小さな手帖に書き留めるように綴っていくシリーズです。
理解しようとすることや、
言葉を交わすことのおもしろさを、
ゆっくり味わっていけたらと思っています。
いいなと思ったら応援しよう!
貴重な時間を使い、記事を読んでいただきありがとうございました。ぜひ応援していただけると嬉しいです。いただいたチップは、書籍を購入したり、他のクリエイターの有料記事を購入したり、noteの執筆や交流の時間を増やすために活用させていただきます。