ブラームス第1交響曲終結部のコラール:感情優先のテンポ操作の罠
ブラームス交響曲第1番作品68第4楽章の有名なコラールについて、前回、それが小節を単位とする5拍子を骨格としていることを話題にした。さらに、このコラール自体は、その前後の流れから、5つの小節を単位とする、さらに大きな4拍子の「2拍目」の部分に過ぎないとも述べた。つまり、このコラールがいかに印象的なものであっても、全体の流れから切り離して考えてはならないのである。
それは、ロダンの「地獄の門」と「考える人」の関係をどう扱うのかという難しい課題と共通する。「考える人」を門から独立させて捉える場合と、門の一部である場合とでは、その解釈は当然変わってくるだろう。このコラールもまた、独立的に重要視しようとするあまり、骨格を失って音響肥大の惨めなビール腹を晒してしまうことがあるのだ。そうなると、スラースタッカートによる美しい呼吸は台無しになる。
このコラールは、その終結部において、よりスケールを大きくして再現される。その再現が誇張的に演奏されることを受け入れられるかどうかは、聴く側のセンスが問われるところだ。
音響的な印象のみを追う、あるいは作品の論理を掴まずに印象的な部分を聴くという場合、そのスケールを大きくしたテンポダウンは、「世紀の名演奏」となり得るかもしれない。しかし、それは「考える人」を独立させる行為と同じであり、全体の文脈から印象的な部分を切り取っただけに過ぎないのである。
この作品全体の文脈において、この終結部における407小節目からのコラール再現がどのような位置づけにあるのか。それを理解している必要がある。安易に感じたままテンポ操作を行うのは事故の元となる。
このコラール再現がややテンポを落とすように感じられるのは、楽譜設定上の仕組みの問題である。このコラール再現とその前では、音楽の単位が変更されているのだ。
piu allegroに向かう過程で、その直前の4小節前(387小節目)から、音楽は4つの小節を単位とする形となる。楽譜を見れば、この点は明確だ。ここを起点に4つの小節を単位とする大きな4拍子が展開する。その4拍子を越えた403小節目から、2つの小節を単位とする音楽にシフトダウンする。この点も楽譜を見れば明らかな変化である。この基本単位の変化が、テンポダウン感の効果に貢献しているのだ。そして407小節目に至る。結局、コラール再現は403小節目を起点に2つの小節を分母とした大きな6拍子で描かれる。
だが、その雰囲気に流されてここでテンポを落としてしまうと、その後にテンポプリモするチャンスを失う。この大きな6拍子はもう1回転するからだ。これも楽譜を見れば明らかである。楽譜上で4つの小節を単位とする音楽に戻るのは427小節目からだ。
この第4楽章終結部で繰り広げられる緩急対比は、グルックの「アウリスのイフィゲニア」序曲やベートーヴェン作品62に見られるのと同じような古典派的な手法に依っている。つまり、演奏者があまりに主観的にテンポ操作を行うべきところではないのだ。
また、別の見方をすれば、piu allegroの開始から続いて、コラール再現までは4つの小節を単位とする大きな6拍子の弧の中にあると見ることもできる。コラール再現は流れの中のパーツなのだという事がより明確になる。
コラール再現で大見得を切る演奏は、403小節目あたりから大幅にテンポを落とし、417小節目からテンポを元に戻そうとする。そのやり方はとても不自然だ。おもむろなテンポ操作感が否めない。そのような指示は楽譜のどこにも書かれておらず、構造的にも読み取れるものではない。つまり、そのような恣意的な改変は、楽譜を読めていない証に過ぎないのである。
コラールは、全体の流れの中の一つのフレーズでしかない。むしろ、最初の提示の際のスラースタッカートの括りを忘れてはならない。前回、このスラースタッカートを「過剰なロマン的演奏への防波堤」と呼んだ。スラースタッカートの中では、それぞれの音の個性よりも繋がりが重要であり、だからこそ、それぞれの連鎖を断ち切るようなテンポ操作はあり得ない。それは終結部におけるこの再現部分にも言えることではないだろうか。ここにはスラースタッカートはないが、再現である以上、その楽譜の意図を忘れるべきではない。それぞれの音符を誇張して響きを聞かせるのではなく、一つの息として繋げる意志を尊重すべきなのだ。
この楽譜設定の意図が分かると、極端なコラールの誇張は文脈から見て邪魔なものとなる。それはドラマの進行を遮るものでしかない。さらに416小節目からのリズム感の把握を混乱させる元凶にもなるのだ。それは、論説文が読みこなせない受験生と同じだ。フレーズに共感しても、作品の論理が読めなくては意味がない。「難しい内容はわからなくても、そのフレーズには共感する。自分はそこに感動するのだから」と、その共感だけで作品の論理の流れを破壊する。部分の印象的なフレーズを誇張しすぎるのは、そのような子供っぽい開き直りに過ぎないのである。
