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2025年に読んだ海外文学ベスト10

早いもので年末ですね。今年も昨年同様、海外文学を中心にいろいろ読みましたが、実は今年から日本文学にも挑戦しています。
これまで小説というものをほとんど読んでこなかった私は、その面白さに気づいた段階で先に海外文学から読み始めてしまったために、読書家なら当然読んでいるであろう日本の文学作品をほとんど素通りしてしまっているのです。
いままでそれを気にしたことなかったのですが、海外の現代文学を読んでいると日本の作家や作品に言及されていたり、逆に好きな海外作家が日本の作家に大きな影響を受けていることを知ったり。
徐々に関心が沸き始めたところに、電撃的に中上健司の作品に出合ったことで一気に興味が開花しました。

日本文学を知ることで、海外文学と文化レベルでの比較ができるようになるのも魅力です。海外文学の読み方が深まった……と思いたい。

この記事では海外文学に絞って面白かった作品について紹介していきますが、この後日本文学の方も別記事で投稿したいと思っています。

2025年の一年間で読んだ海外文学は全部で50冊。その中から特に面白かった10作品を以下の通り、順不同で紹介します。



ミラン・クンデラ『不滅』

クンデラは『存在の耐えられない軽さ』があまりにも良すぎて、毎回かなり期待して読み進めるのだが、必ず期待を超えてくる稀有な作家。ここまでガッカリさせられたことがない作家はあまりいないかもしれない。

主人公となる人物は、ある日パリにある屋内プールで見かけただけの、名前も知らない女性。クンデラの分身である「私」が彼女を目撃し、勝手に「アニェス」と名付け、彼女と言葉を交わさないまま好き勝手に妄想し(彼女には妹がいそうだな、名前は「ローラ」にしよう、とか)、その妄想だけで物語が展開していくという破天荒な小説。ちょっと気持ち悪い気もする。
だけど、その気持ち悪さとは裏腹に、文体はクンデラらしく非常に内省的で哲学的。それでいてリアルな中年女性像がちゃんと浮かび上がってくるところが、すごい。

例えば以下の一説は特にクンデラっぽくて好きなのだが、単にアニェスがドイツ人であることを示しているだけなのだ。この味わい深さといったらないだろう。

アニェスがドイツ人でないのは、ヒトラーが戦争に負けたからである。歴史上はじめて、敗者には名誉が残されなかった。いかなる名誉も、壊滅という悲痛な名誉さえも。勝者は勝つだけで満足せず、敗者を裁こうと決め、そして国全体を裁いた。それゆえにドイツ語を話すこと、ドイツ人であることが、その時代にはあまり易しいことではなかったのである。

「私」はアニェスが幼少期からどのように育ったのか、両親や妹はどんな人なのか、最愛の人とどのように出会ったのか、どのような修羅場を潜り抜けてきたが、毎日をどのように倦みながら過ごしているのか、等々をスラスラ語る。もちろん全部「私」の妄想なんだけど、彼女の人となりがくっきりと立ち現われ、毛穴の感じまでわかるくらいのリアリティを帯びていく。

印象的なのは、彼女と今は亡き父親との関係。詩と自然を愛しながらも不器用だった父親は、死の間際に彼女に詩を暗唱する。必ずしも円満ではなかった父と娘の関係だが、暗唱された詩が彼女の記憶の深い部分に刻まれる。より自然なもの、詩的なものを指向する彼女の人格の一部が形成された瞬間を、これほどみずみずしく描けるなんて。

クンデラの手に掛かると、創作された人物が、私の知り合いや家族に似通ってくる。アニェスと妹ローラの性格や関係性は、私の母と叔母のそれにそっくりだ。『存在の耐えられない軽さ』のトマーシュやサビナが私の会社の同僚にすごく似ているのと同様に。

全体としては私小説っぽくて、何か劇的な事件が起こることも特にないのだが、ただ心が静謐のなかに沈み込んでいくような、静かな満足感に満たされる作品である。


ナサニエル・ホーソーン『緋文字』

これ、大学で文学専攻に行った人は必ず読む作品らしいが、こんな面白い作品を授業で扱ってもらえるなんて羨ましい。私も文学部に行きたかった。

最初の「税関」という前置きみたいなやつがやや退屈で、はじめは読み進めるのに苦労したが、中盤くらいから急に面白くなってきて、最後は味わい深いカタルシス。やはり読み継がれる理由があるのだなと納得する。

ものがたりは、未だ清教徒的「清廉潔白」「信仰と服従」の色が濃いアメリカ開拓期のボストンで始まる。主人公へスター・プリンは、生まれたばかりの赤子を抱いて、処刑台の上に立たされている。彼女の胸には「姦淫」を表す緋文字の「A」が縫い付けられているーー。

夫のある身でありながら別の男と関係を持ち、あまつさえ赤子までもうけてしまった彼女は、敬虔な村人達から罪人扱いされ、それでも相手の男が誰なのか決して口外しようとしない。その毅然とした態度に村人たちはある種の畏怖さえ覚えるが、彼女は完全に村八分の存在となってしまう。
村人の誰ひとり助けてくれる者もいないまま、女手一つで子どもを育てていかなければならない。突然彼女の両肩に重い重圧がのしかかる。

しかしながら、ここからヘスター・プリンの超人的なたくましさが発揮されるのだ。

彼女は非常に近代的な女性であり(というか状況的にそうならざるを得なかった)、裁縫という技能を武器に、村人達の需要に応えたくましく日銭を稼ぐ。この裁縫の仕事というのも、「姦淫」の罪を人々に知らしめるために自分で衣服に縫い付けざるを得なかった緋文字の「A」の出来栄えが素晴らしくて、「ぜひああいう刺繍の装飾を私のドレスに!」という感じで発注が入るのだ。
こういう事態になることを見越して、あえて派手な装飾で「A」を縫い付けたのではないか?それくらい戦略的に動ける女性なのだ。

彼女の周囲に目を転じてみると、支配的地位にいる男性を含め、村人ほぼ全員が何らかのシステムに守られながら安寧を享受している。生活を脅かされることなく、うわさ話に花を咲かせながら、狭い共同体の中で守られながら何となく生きている。

彼女だけが、自分の技能で稼ぎ、人脈を築き、現状打破に向けて精力的に働き続けているのが、余計に際立ってくる。しかも彼女はこの時代、徹底的に抑圧されてきた女性であり、性的規範の逸脱者なのだ。圧倒的不利な環境下でも懸命に働き、幼い命を守ろうとする母親のバイタリティに感銘を受ける。

また、生まれながらに「姦淫の子」「悪魔の子」の烙印を押されたヘスターの娘パールも、男の子顔負けにたくましく育っていく。母親が自主自立の精神を持ちながらも村人達に下手に出たり、上手く気に入られたりしながら自活していくのに対して、彼女は母親を馬鹿にする男の子どもがいようものなら奇声を発して飛びかかろうとするくらい、勇敢で正義感の強い女の子に育っていく。

パールはやがて、ボストンも母親も捨てて新天地で新しい人生を切り開くのだが、これはパール自身の努力もさることながら、彼女自身が軽蔑していた母親の犠牲の上に成り立つものでもある。というのも、最後はへスターはひとりボストンに舞い戻り、パールは遠い異国の地で新しい家族を持つからだ。
へスターは、自分を窮地に追い詰めたボストンの人々に表立って反抗することなく、よく言えばしなやかに、悪く言えば大衆迎合的にふるまって何とか身銭を稼いできた。そうしなければ幼いわが子を養うことができなかったのだ。
一方、パールは不正や理不尽を決してる許さず、公然と反抗するタイプ。
一心に娘の幸せを願ってきたへスターの犠牲の上に、パールの新しい生活が開けたのだが、だからといってパールが親不孝者だとも言い切れない。
ボストンのしがらみを切り離すためには、結局母親を切り離すしかないと考えたのではないかと想像できるのだ。

宗教的規範・村落共同体のしがらみ・抑圧される性としての女性……。何重にも重ねられた地獄の網の目から抜け出すのに、女2代にわたる戦いが繰り広げられた。当時はこうした出来事が無数にあったのだろうと思うと感無量である。


ウラジーミル・ナボコフ『ディフェンス』

ナボコフは前年に読んだ『ロリータ』が未だに尾を引くくらいの怪作だったのだが、今回はかなり毛色の違う、しかしながらやはり怪作と呼ぶしかないような作品だった。
手触りは意外にも『アルジャーノンに花束を』に近いかもしれない。崩壊しかけた人格の一人称視点による小説だ。

チェスに天才的な才能を発揮する男ルージンの、幼少期から死までを辿る作品。

誤解を恐れず言うと、もともと社会性がなく(特に人間の感情を読み取る能力が決定的に欠けている)、こだわりや強迫観念の強いルージン少年は、ある日をきっかけにチェス・ゲームに強い関心を抱くようになり、異常な執着心を発揮する。

瞬く間に天才少年として名を馳せ、スター選手に駆け上るのだが、彼の一人称視点は常に現実をゆがめた形で認識しており、日常生活も危うい感じがする。
やがてライバルが現れ、チェス・ゲームが高度になるにつれ、彼の生活そのものがチェス・ゲームに侵食されていく。
全ての人生のイベントやシーンがチェス・プロブレムに換喩され、コンビネーションの反復の中に永遠に囚われていると錯覚するようになってしまうのだ。そこから脱出しようとして、ルージンの自己破壊的な奇行が始まる。

見かねた妻や家族の支えによって一度チェスから強制的に離されて、精神的に安定していたルージンだったが、それもつかの間。

再びチェスの魔力に取りつかれてしまった彼は、ついに自分の世界を終わらせるために窓枠によじ登り……。

ナボコフの翻訳で有名な若島正先生は、詰め将棋家でチェス・プロブレム作家でもある。
小説の中のライバルとの白熱した勝負シーンも、さすが若島先生の面目躍如、スリリングで手に汗握る。
ちなみにあとがきで、「ナボコフは(作家として優秀だけど)チェス・プロブレム作家としては凡庸」とこきおろしているのは思わず笑ってしまった。

個人的に、ナボコフとフォークナーが「読みにくい海外作家」二大巨頭なのだが、この作品は比較的読みやすい方ではないかと思われる。とはいえ数多くの暗喩や換喩、レトリックやアイロニーがふんだんに盛り込まれているので再読必須ではある。


マリオ・バルガス=リョサ『悪い娘の悪戯』

これはもう神が書いたといってもいいくらいの大傑作。それなりに文学を読んできたつもりが、まだこんな爆弾級の作品があったのか。こんなものを読んでしまったら、この後何を読めばいいのか分からなくなるぞ。

魔性の美女ニーニャ・マラに恋をしてしまった冴えない青年リカルド。世界をまたにかける恋愛と裏切りの応酬の物語。
ニーニャ・マラは家が貧しく、二度とみじめな貧困を味わいたくないという強い思いから、自身の美貌を活かして、富裕層の男を次から次と手籠めにし、経済状況が傾くとすぐに新しい男に乗り換えて……という強烈な悪女っぷりを発揮する。
最初は全く歯牙にもかけてもらえなかったリカルドだったが、偶然なのか運命なのか、パリで、ロンドンで、スイスで、東京で、何度も彼女に出会い、そのたびにこっぴどくフラれたり裏切られたりしながらも、結局は彼女の姿を探し求めてしまう。

ちなみにバルガス=リョサは大の親日家であり、この作品も東京が舞台になるということで楽しみにしていたが、予想のはるか上をいく禍々しい描写に笑ってしまった。
ありとあらゆる性的倒錯玩具がそろった東京新宿のラブホテルの描写などは、さすがにやりすぎでは……と苦笑を禁じ得ない。

胸糞悪い場面や、抱腹絶倒なユーモアもありつつ、最後はじんわりと温かい気持ちになれる(本当に!)、意外とハートフルな作品だった。

それにしてもバルガス=リョサは「これ面白い!」と思った作品を、その次に手に取った作品が凌駕していくという、すさまじい手腕を持った作家。
某ポッドキャストのパーソナリティである日中比較文学の先生のお言葉を借りるなら、まさに「南米の司馬遼太郎」。
さすがに『悪い娘の悪戯』がバルガス=リョサの至高だろうと思いきや、そのあと読んだ『チボの狂宴』が猛烈な追い上げを見せ、番付が入れ替わりつつあるのも驚異的だ。
今回はよりエンタメ性が高くみんなが楽しんで読めるこちらに軍配を上げることにしたが、もっと禍々しい暴力と圧政の独裁政権を味わいたいなら、ぜひ『チボの狂宴』もおすすめする。

ちなみに今年2025年にバルガス=リョサが逝去してから、一人で勝手にバルガス=リョサ祭りと称して彼の全作品を読むというのを自分に課している。今ようやく9冊目に突入したのだが、これも来年度中には完了してしっかりnoteに記録を残したいと思っている。


アーネスト・ヘミングウェイ『日はまた昇る』

ヘミングウェイは短編の名手、という言説が繰り返されるたびに、私は『日はまた昇る』を出してきて反論することにしている。この長編小説は、ヘミングウェイ文学の根幹をなす「魚釣り」「闘牛」「美酒と美食」「悲恋」「マチスモ」を存分に盛り込んだ、全部盛り定食みたいな作品である。面白すぎて2日で読了した。

ヘミングウェイの作品にはだいたい作者の分身みたいな奴がいて、だいたいスカした奴なのだが、今作も例にもれず主人公ジェイクがそれに当たる。
そして作者の分身は必ず美女と相思相愛になりながら、その恋は成就しないのがお決まりなのだが、この作品もぴったりその構造に当てはまる(ブレッド・アシュリー)。たぶんこういうところからヘミングウェイは特にフェミニズム界隈から批判されるのだろう。

物語の舞台はスペイン・パンプローナ。闘牛の聖地であり、一般市民が闘牛に追いかけられる「サン・フェルミン」の祭りでよく知られた街だ。

ジェイクは友人のマイク(破産してる)、マイクの美人妻のブレッド(ジェイクと相思相愛の尻軽女)、ロバート・コーン(ユダヤ人のインセル)と一緒に闘牛を楽しむために来ている。
ほとんど毎日酒を浴びるように飲み、バカ騒ぎし、前後不覚でホテルの部屋にたどり着いて昼過ぎまで眠り、再び街へ繰り出すような、昼夜逆転で退廃的なお祭り騒ぎを謳歌する。
しかしその背後で男女関係のもつれーーロバート・コーンがブレッドに執着し、ブレッドはジェイクに助けを求め、そのうちブレッドに新しい男ができてーーがもつれにもつれまくって、友人4人の関係をギクシャクさせていく。

マス釣りと闘牛の描写などは、森の中を流れる清流のしっとり冷たい感じや、牛の鋭い角が脇腹ギリギリをかすめていく感じを、まるでそのまま体感するが如くのリアリティがある。非常に迫力のある生き物の描写はヘミングウェイの最も得意とするところだ。
対照的にフィエスタの乱痴気騒ぎは、疑似二日酔いのような気持ち悪さに襲われることもあった。とにかくみんな我を忘れて酒を飲みすぎだ。自身の体調など一切顧みない。これが「失われた世代」の実態なのか……。

ちなみにこの作品は社会にあたえた影響も大きく、ブレッドの辛辣な物言いとショートカットは女性の間で大流行したそうだし、作品自体も若者に広く受け入れられた。
一方ヘミングウェイ自身は、この作品でモデルにした人々からの白眼視を受けてパリに居づらくなり、アメリカのキー・ウェストに居を移している。

あとがきに、私が最も好きな一説がある。翻訳者である高見浩先生がサン・フェルミンに合わせてパンプローナにあるヘミングウェイ像を訪れた時の話だ。

パンプローナを去る前日、この胸像を訪れると、周囲の街角のあちこちに国際色豊かな若者たちが酔っ払って寝そべっていた。彼らの一人のわきに、表紙がワインの赤いしみで汚れた『日はまた昇る』のペーパーバックが一冊、放り出されているのが印象的だった……。


ルシア・ベルリン『すべての月、すべての年』

メキシコ移民や若いシングルマザーの地獄を書かせたら彼女の右に出るものはいないだろう。彼女自身の経験に根差した鋭い短編作品が収められた、珠玉の短編集。

しばしば強烈に感情を揺さぶられて、しばらく続きが読めなくなることがある。例えば激務の医療従事者を主人公にした「救急救命室ノート」などは、若い移民の妊婦の、まともに生きることすらままならないような現実が客観的ながら克明に描かれていて胸が詰まる。

中には表題作「すべての月、すべての年」のような、瑞々しい南国のさわやかでチルな作品もあり、これが地獄における箸休めとなる。

しかしそのあとの「ミヒート」を読めば、これまでの地獄はまだほんの序の口だったことが分かる。妊娠中絶というものが、一人の若い妊婦にとってどれほど心身の負担を強いるか、中絶を取り巻くシステムがどれほど不条理か、いやでも突きつけられる。
しかも、淡々と冷めた文体で。時にユーモアさえ交えつつ。
ここが著者のすごいところだ。

ユーモアとペーソスなんてクリシェで軽々しく彼女の文章を表現したくない。そのユーモアは、作者が意図的に紛れ込ませたものではなく、過酷な現実を何とか生き抜くために登場人物自らが体得しなければならなかったものなのだ。
著者自身、壮絶な人生を歩み、シングルマザーとして4人の息子を育て上げた経験を持つ。非難がましく窮状を訴えるのではなく、ただ淡々と、どれだけ残酷に見えても「それがその人たちにとっての日常である」ということを明らかにしていくやり方に、彼女の信念を感じないではいられない。


コーマック・マッカーシー『すべての美しい馬』

コーマック・マッカーシーの作品を思い出すときにはいつも、一枚絵のような光景が思い浮かぶ。

『ノー・カントリー』なら、額を銃弾に撃ち抜かれた老婆が安楽椅子に揺れているところ。
『ザ・ロード』なら、どこまでも続く一本道に黒い煤が舞っているモノクロの景色。
『ステラ・マリス』なら、海中に沈んだ旅客機のなかで、シートベルトを締めたままの死体が座席に固定され、髪の毛だけがユラユラ揺れているシーン。

そして今作は、セピア色に色あせた荒涼とした大地の真ん中に、人馬の影がひとつ小さく見えるだけの、厳しくももの寂しい光景が思い浮かぶ。

馬をこよなく愛する青年ジョン・グレイディは、親友のロリンズと共に南部の故郷を捨ててメキシコを目指す。時はモータリゼーション真っ只中の1950年代。しかし国境を越えた向こうはいまだに馬車とカウボーイの世界であり、そこで馬とかかわる仕事をしたいと考えたのだ。

二人は道中、厄介者の家出少年ブレヴィンスと出会い、そこから物語が急展開を見せていく。うまく牧場に職を見つけられたのもつかの間、たちまちにしてメキシコの不条理な暴力の渦に巻き込まれていく。十代の少年にはあまりに過酷すぎる刑務所生活や逃亡劇は、「子供らしさ」をどんどん擦り減らしていく。
ざっとネットで書評などを確認するところでは、グレイディとアレハンドラ(牧場主の娘)との悲恋に注目する人が多い感じがするが、私はそれよりもブレヴィンスのことを引き摺ってしまっている。

陰惨な暴力と不条理の犠牲者が無数に埋まっている広大なメキシコの大地に軽々しく足を踏み入れてしまった少年の末路というべきか。ただ盗まれた馬を取り返したかっただけなのに、そんなことすらこの世界では決して許されず、あまりに高い代償を支払わされてしまう……。

「硬貨を投げて裏と表どちらが出るかは、貨幣鋳造人が溶かした金属をどちらの型板から流し入れるかによって決まる」というのはまさにこの世界を言い当てる表現だ。「奇跡」なんてものはないのだ。

ジャンルとしてはビルドゥングス・ロマンなのだが、世界は極めてシビアであり、物語のために世界が作られるのではなく、過酷な世界がまずあって、物語はそれによって過酷なものへと変えられてしまう……そんな感じだ。

コーマック・マッカーシーの文章には句読点や「」がほとんどなく、読みにくいと言えばそうなのだが、この文体だからこそ全体の雰囲気がよりハードボイルドに仕上がる。
特にこの作品はヘミングウェイとフォークナーの合いの子のような印象を受けた。ハードボイルド文体はヘミングウェイから、そして南部世界の残酷さはフォークナーからそれぞれ遺伝子を受け継いだような。


ジャック・ロンドン『ザ・ロード アメリカ放浪記』

これだけ小説ではなくエッセイなのだが、あまりに面白過ぎたのでランクインさせることにした。
真実は小説より奇なり、ではないが、まるで緻密に構成されたユーモア小説を読んでるかのような面白さがある。

著者のジャック・ロンドンは、まだ十代の青年のころ、走行中の汽車に飛び乗り全米を旅するホーボーだった。その頃の経験が詰め込まれたのがこの本なのだが、ホーボーとして生きるのにも高度なテクニック要求される。

たとえば無賃乗車するテクニック。車掌や制動手を撒くために、どのタイミングで前から何列目の車両に乗るべきか。車両の屋根に乗るとすぐに見つかるから、車輪と車輪の隙間に身をひそめたり(めちゃめちゃ危険)、煙突のすぐ裏に隠れたり(制動手に水をかけられるかもしれないが)。
こういうことが、いちいち写真付きで説明されていたりして思わず笑ってしまう。

それにホーボー達はいわゆるホームレスなので、食べていくために物乞いしなくてはならない。どんな雰囲気の家を狙うべきか、家主が出てきたらどんな挨拶をし、どのようにふるまうべきか。どんな冒険譚を聞かせてやれば気に入られるか、といった処世術の詳しい解説まである。

一人で生きていく技能を身につけ、風のように自由にさすらい、時折出会うホーボー達とバカ騒ぎをして、記念碑的に給水塔に名前を刻んで、去っていく。もう二度と出会うことのない仲間達のことを思いながら、雪が吹きすさぶなか車両と車両の結合部分にうずくまる。たしかに過酷だけど、こんな世界もありかもしれないと思わせてくれる。


アンディー・ウィアー『プロジェクト・ヘイル・メアリー』

この記事で紹介した作品のなかでは、これだけAudibleで読了した。はじめに申し上げておきたいのだが、Audible版『プロジェクト・ヘイル・メアリー』はかなり良い。もしかしたら紙の本を凌駕しているのではないかと思わされたのは初めてだ。

この作品については何を語ってもネタバレになるという難しさがあるのだが、主観では「火星の人」と「E.T.」を混ぜたような感じ、くらいは言っておいてもいいだろう。もし読もうと思っているなら、何の情報も入れないで早く読み始めた方がいい。よけいな情報が入れば入るだけ面白さが減退する……とまでは言わないまでも、興奮は若干冷めてしまうだろう。

この作品の良さについてだが、物語の根底に生物学の気配がずっと流れているのがまず面白い。天体物理学や量子力学ではなく、生物学の気配が。生命とは何か、を突き詰める作品だといっても過言ではないと思う。これだけでも結構なネタバレかもしれないが……。

物語の展開にしても、「火星の人」同様、様々な問題にぶち当たるのだが、それを徹底的なエンジニアリングで解決していく。スペース・オペラにありがちな、何か新しい技術や量子力学の未知の領域を使って、読者には良くわからないけれどそれっぽい説明をして、なんとか解決、みたいな展開にはならないのだ。
すごく地味だけど、身の回りにあるもので使えそうなものを探し、実際に作って、実験して、時間をかけて検証し解決していく。ここの根気強い執筆がとても好印象。圧倒的なリアリティと没入感はここから生まれているのではないかと推察する。

さらにそこに軽妙なユーモアのスパイスが効いている。主人公は孤独なのだが、なんかずっと親父ギャグみたいなことを言ってるし、妙にテンションが高い(まさに一昔前の日本人が想像する陽気なアメリカ人みたいな感じ)。だから、絶望的な状況に陥っても、そこまで悲壮感がない。思いっきり凹んだり、暗い気持ちになったりすることがなく、楽しく読み進めていくことができるのも魅力だ。

加えて、胸が温かくなるハートフルストーリーでもある。

2026年3月に上映予定だそうで、今から楽しみで仕方ない。ちなみに映画のトレーラーも見ない方がいい、あれも相当なネタバレなので。


ガブリエル・ガルシア=マルケス『予告された殺人の記録』

この記事を書いていた12月下旬、早く書き終わらなきゃと焦っていたタイミングで、気晴らしがてらに地元の図書館から借りてきたこの本が、トップ10の番付を狂わせ、記事投稿を遅らせた張本人である。

ガルシア=マルケスは『百年の孤独』が神の読み物レベルで面白かったのだが、そのあと『族長の秋』を読んで、しばらくはもういいかなという気持ちになっていた。あまりにもマジック・リアリズムの「マジック」の部分が強すぎてわざとらしく感じてしまい、ちょっと辟易したのだ。

ところがこの作品はかなりリアリズム寄り、というかジャーナリスティックなのである。

南米のとある閉鎖的な僻村で、サンティアゴという青年が無残に惨殺される。興味深いのは、この殺人が起こることを村人のほとんど全員が知っていたということだ。
なぜみんな知っていたのか?なぜ知っていたにも関わらず事件を防げなかったのか?

主人公はサンティアゴと親友関係でありながら、彼を殺した殺人犯の兄弟とも血縁関係にあるという中立的な立場を利用して、事件の全貌を明らかにしようと関係者への聞き取りを開始する。

殺人事件が起こる前日、村では壮大な結婚式が行われていて、村人はお案釣り騒ぎの中にあった。村一番の大金持ち(国民の英雄とされている大佐の息子)が、貧しい家の娘を娶ったのだ。お祭り騒ぎは深夜まで続き、若者は夜通し飲み明かした。その中にサンティアゴの姿もあった。
翌日は、著名なカトリックの司祭が船で川を遡ってやって来て、村を訪れる筈だった。
しかし司祭は(悪事を予見したのか、はたまた初めからそのつもりが無かっただけか)船に乗ったまま村を素通りし、たくさんの貢物を用意していた村人はガッカリする。
殺人が起きたのはそんな最中である。
サンティアゴは、善良な食肉業者の双子の兄弟パブロとペドロによって、肉切り包丁で滅多刺しにされた。

この殺人が起こることを知らなかったのは、サンティアゴ自身と彼の母親だけである。ほんとにみんな知っていたのだ。

もうなんというか不幸なタイミングが重なりまくった結果の惨事としか言いようがないのだが、それがいちいち妙に面白い。村の男達は「一族の名誉を守るための殺人」だとして殊更止めようともしないし、警察も「酔っ払いのたわごと」として本気にせず、唯一女達だけがあの手この手で本人に情報を伝えようとしたり、犯人を酒に酔わせて時間稼ぎしようとするのだが、マチスモの強い社会では女手では凶行を止められない。
なんなら犯人である双子の兄弟自身が、できれば人なんか殺したくないと思っていて、自分達の計画を言いふらしまくる。それでも止められない。
かくして村人誰もが殺人が起こる事も、誰が誰を殺すかも、その日付も知っていながら、防ぐ事ができなかったのだ。

なんだかコントみたいだが、その裏には根強い女性蔑視や少数民族差別といった負の側面も介在していて、意外に読み応えがあるのだ。

何より、ガルシア=マルケスがここまでちゃんと構成とか考えて緻密に書いてきたのが驚きである。たとえるなら毎回ピカソみたいな絵を描いてくる奴が突然ミケランジェロみたいな緻密で写実的な絵を持ってきたイメージだ。お前こんなん描けたんか!とツッコミたくなる。

なんといっても『百年の孤独』の面白さが取り上げられがちな作家だけど、実はこっちの作品に軍配をあげてる人も割といる。私個人としても、『百年の孤独』と比べるとやや見劣りするものの、『族長の秋』に比べたら格段に面白いと思っている。特に初めてガルシア=マルケスに手を出す人には、ページ数の少ないこっちが断然おすすめ。下手な短編集に手を出すよりずっといいと思う。
で、この作品が肌に合ったら、まず間違いなく『百年の孤独』はいけるはず。マコンド村にようこそ!


ここまで2025年に読んだ外国文学ベスト10を紹介してきましたが、現代文学が本当になくて、しかも往年の名作とされる作品が多かったように思います。悪く言えば、みんなが知ってて評価も定まっている作品に、無意味に高評価を一つ付け加えただけというか。なので来年はマイナー文学や現代文学にもしっかり手を伸ばしたいです。
とりいそぎ、今読んでいるローラン・ビネ『言語の七番目の機能』はいきなり2026年ベスト10にランクインしてきそうなくらい面白いのでお知らせしておきます。ロラン・バルトが謎の組織に殺されて、事件を捜査しようにも関係者がみんな構造主義者ばかりで何言ってるのか意味不明で難航する……というジワジワ笑けてくる傑作ですよ。

それでは良いお年を〜!






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