289.アイスクリーム
1. 雪印の赤いカップアイス
アイスクリームの最初の記憶は、幼稚園入園前後に1964年頃、母に買ってもらった赤いカップに入ったアイスクリームです。普段は「グリコのおまけ」がついているキャラメルや小さなお菓子を買ってもらったりしましたが、たまに、母が「今日はアイスクリームにしましょうか」というと、心の中で躍り上がったものでした。
私の記憶の中では価格は確か10円。ひとまわり大きいサイズもあって、こちらは20円だったような記憶があります。今回日本アイスクリーム協会のサイトで画像を確認して、懐かしくなりましたが値段は確認できませんでした。
もっとも当時幼児だった私の記憶によれば、10円アイスはあっという間姿を消して、20円のものだけになってしまい、我が家では20円の高級品は滅多に買ってもらえなくなった記憶があります。我が家の子どものおやつの相場は5円か10円でした。
赤いカップの蓋には、牛乳瓶の蓋と同じように、小さな突起がついていて、そこを引っ張って蓋を開けます。蓋の裏にはしばしばアイスクリームが少しはりついているので。これを木のスプーンでこそげ取るというのが最初に行う作業でした。私は母が目を離した隙に、蓋の裏をペロペロ舐めた記憶もあります。
アイスクリームとは、なんとおいしい食べ物だったことでしょう。
当時「アイスクリームのうた」という歌があって、歌詞は「♬ おとぎばなしの王子でも むかしはとても たべられない アイスクリーム アイスクリーム ぼくは王子ではないけれど アイスクリームを めしあがる…」というもので、私も心の底から共感していました。いつもアイスクリームを食べるたびに「♬ アイスクリ〜ム〜」と口ずさんでいました。
2. ホームランバーとアイスキャンディ
少し大きくなって、小銭のおこづかいをもらうようになると、近所の子どもたちと一緒に(「じじばば」と呼ばれた)駄菓子屋へ行って、アイスを買いました。なんといっても「ホームランバー」は我々子どもたちの憧れの存在でした。一本10円というのは、当時の子どもたちにとっては高級品でした。さらに食べ終わると棒に「あたり」の焼き印があると、もう一本タダでもらえるという画期的なアイスでした。
私は一度、食べたホームランバーの当たりで引き換えてもらったアイスがまた当たりだったという、人生の運をすべて使い果たしたような出来事がありました。あまりに嬉しかったのか、その日に着ていたオレンジ色の縞模様の服まで覚えています。みんなが「じじばば」と呼んでいた駄菓子屋の店主が誰よりも喜んでくれたことが忘れられません。
ホームランバーは10円で高級品なので、普段の日は「アイスキャンディ」を買ってペロペロ舐めていました。5円のアイスキャンディを買うと、残った5円で、ビー玉や穴の空いた紙テープやラムネ菓子などが買えるからでした。チューチュー吸うアイスキャンディはもっと安くて人気がありましたが、私はもっぱら棒のついたアイスキャンディでした。
母方の祖父母は、駄菓子屋や夜店の食べ物は不衛生だという理由で、小さな母はこのようなものは一切買ってもらえなかったという悲しい思い出があるそうで、私たち子どもには、自由に買わせてくれました。それでもあまり着色料の強いアイスは買わないようにと言われていました。
あの頃の駄菓子にはのちに社会問題になる「チクロ」「サッカリン」などの人工甘味料が使われていて、我々子どもたちも毎日のように口にしていました。ところが1969年にチクロの発がん性が動物実験で証明されたと大々的に報道されて使用禁止になり、1973年にはサッカリンも同様の理由で使用禁止となりました。
実を言うと、私自身は長いこと、子どもの頃はチクロやサッカリンのような危険なお菓子を食べていたと信じ続けてきましたが、今回調べてみると、その後の実験では発がん性は再現できず、チクロは世界保健機関WHOでも安全性が確認され、今日も欧州各国を始め多くの国で用いられており、サッカリンに至っては厚生労働省も使用を認めており、国内でもさまざまな食品に使われているそうです。
1960年代後半から1970年代にかけて、数多くのお菓子や食品が生産中止となり、次々に会社が倒産していったことを子どもだった私でも覚えています。狂乱的なチクロ・サッカリン廃絶運動でした。
3. 赤城しぐれやモナカアイスなど
さて、アイスクリームです。
1960年代から70年代にかけて、アイスクリームの種類はどんどん増えていきました。
小学生の頃は、アイスキャンディーもアイスクリームもすべてひっくるめて「アイス」と総称され、カップに入ったかき氷というような「赤城しぐれ」も大人気でした。白いいみぞれや、いちごみぞれ、あずきみぞれ、それから練乳のかかったあずきみぞれ、それに真ん中に白いアイスクリームがはいっているみぞれなども大好きでした。
またモナカの餡子の代わりにアイスが挟まったモナカアイスは、子ども心に「よくぞこんな素晴らしいアイデアを思いついたものだ」と感心しました。ソフトクリームのようにコーンの中に(上に?)アイスクリームが入っているものも登場してきました。私は新製品が出るたびに心躍らせていました。
4. レディ・ボーデン
ところが、そんな私にとって衝撃的な新商品が登場しました。その名も「レディ・ボーデン」。当時、東京の西の郊外に住んでいた小6女子の世界においては、一大旋風を巻き起こしたといっても過言ではありませんでした。学校でも「レディ・ボーデン、もう食べた?」と確認し合った思い出があります。
アイスクリームが大きな容器に入っていることがまず衝撃でした。それをスプーンで救って、個別のガラス容器に分けるのです。私は少しでも多く入れてもらえないかと母の手元を見つめていました。そして「乳脂肪分」という言葉をレディ・ボーデンで初めて習得しました。改めて「アイスクリームの歌」を最初から最後まで唄いたくなるような味でした。
それまで、カップに入ったアイスクリームは、木のスプーンで食べるものと決まっていましたが、金のスプーンにふさわしいという新しい概念とともにレディ・ボーデンは登場したのでした。
この頃、家庭の冷蔵庫も冷凍室が独立した「2ドア型」が発売されました。1969年ことでした。それ以降、急速に普及していきました。平成生まれの人たちには、家庭用冷蔵庫というものは、冷蔵室、冷凍室、製氷室、野菜室、チルド室などに分かれているのが当たり前かもしれませんが、私が小さな子どもの頃には、ひとつの冷蔵庫にはひとつの扉しかありませんでした。
私の家は1970年(昭和45年)に引越ししましたが、新しい家にはこの2ドアの冷蔵庫がありました。レディ・ボーデンに販売戦略の背景には、この家庭用冷蔵庫の2ドア化があったのでしょうか。レディ・ボーデンは日本では、2ドア冷蔵庫が登場した2年後に、1971年に明治乳業が発売を始めました。
母のいない隙に、冷凍庫の中にレディ・ボーデンにカレー用スプーンを突き立てて「大人喰い」をしたことも、ちろんあります。
ソフトクリームも1970年代ころから生活に浸透してきました。1951年に日本で初めてソフトクリームを販売したNISSEIのサイトによれば、1970年の大阪万博会場に200台のソフトクリームフリーザーを置き、人々がソフトクリーム片手にパビリオンを巡り、第二次ソフトクリームブームを作り出したとあります。
5. 31(サーティワン)アイスクリーム
さて、1970年代半ばになると、これまた私にとっては画期的な新商品が登場しました。「31(サーティワン)アイスクリーム」でした。
それまでアイスクリームといったら、バニラとチョコレート味、せいぜいイチゴ味くらいしか知らなかった私に「チョコミント」なる「フレーバー」が登場してびっくりしました。他にもマシュマロやアーモンドの入った「ロッキーロード」や「ジャモカ・アーモンドファッジ」など、何十年経っても忘れられない名称のフレーバーに驚いたものでした。
刻んだ本物のフルーツが入っているものや、口の中で弾けるアイスクリームなど、アイスクリームの概念が変わるようなフレーバーが毎月31種類もあるのです。しかも可愛らしい小さなスプーンで味見をさせてもらうこともできました。
「31 アイスクリーム」は、1974年4月に目黒に第一号店ができて以来、瞬く間に少女たちの心を捉えていきました。
サーティワンといえば、私は壁から吊るす細長いカレンダーが忘れられません。一番下に「1日(ついたち)」と書かれていて、下から順番に、1日、2日、3日と印刷されて一番上が31日でした。一日分は縦2センチ×横5〜6センチのくらいで、その日が終わると、ピリピリと破いていく日めくりカレンダーのようなものでした。31日ある月に貰ったような記憶があります。
中学生から高校生の頃は、リボンの付録ではありませんが、お店のロゴが入ったノベルティを集めるのが流行っていて、このサーティワンのカレンダーの他にも、ミスタードーナッツでスタンプを集めてもらえるお皿やマグカップを手に入れたいと、友人と一緒にせっせとお店に通いました。
6. デイリー・クイーン
また、70年代から80年代にかけてよく通った「デイリークイーン」を忘れるわけにはいきません。ここのチョコソフトに私は初めて食べた日から虜になりました。濃厚で味わいのあるソフトクリームは、グルグル巻きではなく、雪だるまのように二段重ねなっています。それだけで食べてももちろんおいしいのですが、これを店員さんが熱く溶かしたチョコレートの中に逆さまに浸けて、ソフトクリームをチョコレートでコーティングしてくれるのです。
熱いチョコレートはソフトクリームの冷たさで一瞬のうちに固まり、パリパリになるのでした。私は、このチョコソフトが大好きで、できれば熱く溶かしたチョコレートの容器ごと家に持って帰りたいと思ったほどです。同じ仕組みで溶かしたキャラメルをコーティングするキャラメルソフトというのもありました。
7. 70年代のアイスの進化、そしてBOX販売へ
1970年代には、お菓子のバリエーションが一気に増えていきました。私の中では、60年代に登場したいろんなお菓子が淘汰され、進化していったという印象があります。
新商品が出ては消えていくアイスキャンディー・アイスクリーム業界でしたが、70年代には、ロングセラーとなる商品が次々に登場していきました。森永製菓のチョコモナカジャンボ(1972年)、井村屋のあずきバー(1973年)、森永乳業にピノ(1976年)などに私は心躍らせていました。
そして、家庭用冷蔵庫の大型化に伴って、アイスキャンディーやアイスクリームが箱に入って売られるようになったのもこの頃でした。それまでは「アイス」というものは、買いに行って食べるもの、あるいは出先で食べるものとされていたのが、5本入りや6本入りのBOX型登場によって、家に帰ったらアイスが待っていてくれる生活が始まったのもこの頃です。
8. ハーゲンダッツとガリガリ君
1980年代のアイスクリーム業界での大事件はハーゲンダッツの登場でした。1984年、青山の国道246号沿いにできたお店には、連日長蛇の列ができたと報じられました。このときまことしやかに囁かれていたのは、「アルバイト学生をサクラとして大量に雇って行列させた」と言うもので、都市伝説の走りのような噂話でした。
私は大学を卒業して3年目でしたが、私の周囲では「このサクラはサントリー宣伝部が仕掛けたものだ。さすがサントリー」という言説が飛び交っていました。今回、「サクラ伝説」の真偽のほどは確かめられませんでしたが、そのような「噂」が存在していたことは確認できました。
ハーゲンダッツの味に関しては、もはや説明の必要はないでしょう。定番のバニラやチョコレート以外にも、季節限定商品で顧客の関心を引き続けて、現在も全国のスーパーマーケットやコンビニエンスストアのアイスクリーム売り場には必ずといっていいほど置いてあります。
また、同じくスーパーやコンビニに必ずといって置いてある「ガリガリ君」の登場も1981年と、やはり80年代の出来事でした。こちらも通常のソーダ味に加えて季節限定や期間限定商品が販売されています。長く愛される秘訣は定番+限定商品なのでしょうか?
ちなみに私の大好物は、2018年4月に「ガリガリ君より売れてないのに20周年キャンペーン」を展開した赤城乳業「ガツン、とみかん」です。
9. 番外編:新幹線の車内販売
最後に、是非とも触れておきたいのが、新幹線の中で販売されていたアイスクリームです。祖父母が大阪に住んでいたので、私は小学生の頃からよく新幹線に乗せてもらっていましたが、その頃から車内販売アイスクリームを買ってもらうのが楽しみでなりませんでした。
1991年には、のちに「シンカンセンスゴイカタイアイス」とネット上で評判になり、公式販売名称にもなるスジャータスーパープレミアムアイスが登場しました。乳脂肪分が高く濃厚な味わいでした。スジャータの乳脂肪分は、ハーゲンダッツのバニラの15.0%を上回る15.5%なのだそうです。
私は、新幹線に乗るたびにコーヒーと一緒にアイスクリームを買って、なかなか溶けないアイスクリームに少しずつコーヒーを注ぎ、自家製アフォガードにして食べるのを旅の楽しみにひとつにしてきました。しかしながら、2023年10月に東海道新幹線はワゴン販売を終了してしまったため、グリーン車など一部を除いて車内で購入することができなくなってしまいました。駅のホームの自動販売機では買えるものの、残念に思っています。
◇ ◇ ◇
私は60年以上、アイスクリームの魅力的に取り憑かれてきました。小学生の頃は家でも、母と一緒に試行錯誤しながらアイスクリームを作りましたが、なかなか市販のアイスクリームのような味にはなりませんでした。子どもの頃からアイスクリームのない時代の王侯貴族より、数百円で好きなアイスクリームが食べられる今の庶民の方がずっといいと思ってきました。
「明日からダイエット」は呪文のように唱えながら、今日もまた、大好きなアイスクリームのある幸せな日々を送っています。
