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〈水曜日の教室で ~本日、開講~〉      第十回                  ――言葉が文芸に生まれ変わる現場を求めて――

文学とは何か? という問い 4

言葉に名付けようのないものがあらわれる

アリストテレスにはよく知られている『詩学』と題されたギリシャ悲劇を扱った思索があります。
原題は「ペリ・ポイエーティケース」。
古代ギリシャ語にはポイエーテースという〈創る〉を意味する語があって、この原題を直訳すると〈創ることについて〉となるなのだそうです。この〈ポイエーテース〉がやがて詩を創ることをもっぱら表すようになった。
当時のギリシャ悲劇の台詞はすべて韻文つまり詩だったわけで、タイトルが〈悲劇を創ることについて〉でなくてもそれほどちぐはぐではないわけです。
しかし、ギリシャ悲劇を論じたこの書を、人々がこのタイトルで何の疑義も覚えずに親しんで来ていたことからは、この論の対象が実はもっと広くて、現代ふうに言えばおよそ芸術と呼ばれれているもののすべてを暗に含んでいるのだと誰もが承知していたことが感じられてなりません。
 
この書の中で、アリストテレスはミメーシスということを言います。悲劇の台詞の詩句がやっていることは、ミメーシスだと。この言葉は、日本語にすれば、〈再現〉とか〈模倣〉とかを意味します。
よく知られているように、いわゆるギリシャ悲劇は、その題材はすべて当時のギリシャの人々には馴染みのある神話・伝承です。だからそのことだけを取り出せば、再現(ミメーシス)されるのは表向き当然神話伝承ということになります。
ところが、こういうことになるとけしてはっきりとは言葉を残したがらないアリストテレスは、それでも妙なやり方で、悲劇にミメーシスされているものが、そう簡単ではないことを匂わせてきます。
そのやり方とは、まず、悲劇の台詞の詩句が、悲劇以外の単独の詩作品たちのみならず、絵画・彫刻・音楽・舞踊などの仲間だとさりげなくあらかじめ記しておくのです。そして、もちろんはっきりとではなく暗になのですが、これらのすべてがその本質はミメーシスだと受け取ることが可能なように記します。
絵画や彫刻だけなら、具象的なそれらの再現しているもの、模倣しているものは見やすい。しかし、そこに音楽、そして舞踊が入ってきて、それらがすべてミメーシスという点で共通していることが示唆されると、わたしたちの前に大いなる謎の壁が立ち塞がります。
 
でも、ここに〈文学〉を並べて、文学にも音楽や舞踊や、あるいは抽象的な絵画や彫刻と同じものがやはりミメーシスされているのだと考えると、わたしは、例えばプラトンがイデアと呼んだもの、そしてまるでそのイデアの仲間のようなファンタジーたち、つまりわたしたちの目には見えないが、それでもわたしたちがあるやり方で知っているとしか言いようのないもの、そういうもののことを考えずにはいられなくなります。
そして、まさにそういうことについてのアリストテレスの答が、ヒュポケイメノンなのです。
 
わたしたちには、目にも見えず、それと指し示すことも出来ないけれど、それでもたしかにわたしたちはそれがあると感じるし、それに振り回されたりもする、そういうものがたしかにあって、人であれば誰でもそういうものを自分の中に持っている。
 
そしてそれが、人が創造者になる時、その手によってミメーシスされる。模倣され、再現される。
音楽で言えば、演奏でも作曲でも。絵画で言えば、具象画でも抽象画でも。
舞踊で言えば、身体の生み出すリズムと速度と軌跡とで。
 
では文学において、目にも見えず、触れることも出来ないけれど、誰でも脳内に持っているヒュポケイメノンは、どうやって表現されるものとなるか?
この名づけようのないものたちは、どうやったら言葉に乗って来るのか?
 
それを考えるために、少し道を迂回させます。
言葉を使うわたしたちにとって、やや変わった言葉の使われ方を眺めに行ってみようと思います。

一字一句の変更すらも作品を別物にしてしまうということ

ふつうにわたしたちが言葉を使うとき、言葉の連なりは、どのようにでも言い換えられる姿で用いられます。自己紹介も、約束の取り付けも、値段の交渉も、あるいは講演とかお知らせ案内にしても、どんなふうにも言い換えることが可能な緩やかさを含んだ状態で用いられます。
アリストテレスが自分の思索を学生さんに講義するときに、口述という形にこだわったのは、おそらく言葉がそのような言い換えの可能性の中に緩やかに置かれている姿を大切にしたからだとわたしには思えます。
けれど、文学、とわたしたちが呼ぶものは、それとは別の姿をしている言葉たちです。
 
わたしの場合、文学に親しみ始めたのは中学の二年生からでした。
目の前に並ぶ活字のページが、詩のように短かろうが、ゲーテの長編のように長かろうが、どちらも同じ感触を備えていることがたまらない魅力でした。
でも、その感触には、わたしは名付けることが出来ませんでした。
 
あるとき、誰のどんな本だったのかもう思い出すことは出来ませんが、一人の作家の文章の中に、たとえ〈てにをは〉の一字だろうと、それを変えられたら、自分の作品ではなくなるという言い回しを見つけました。
そう、たったそれだけのことだったのです。わたしが魅力を感じた感触は。
文字をひとつ取り替えただけで、別のものになってしまう、……そういう言葉たち。
わたしたちは、文学の言葉たちをそういうものとして受け取っている、そういうものとして書き付けている……。
たったそれだけのことで、〈名付けようのないものたち〉が、けして言葉から離れないもの、それなのに言葉の意味としてはけして捕まえることの出来ないもの、として立ち上がるのです。
 
不思議だと思いませんか?

鸚鵡(おうむ)返し

かねがね、わたしは、何かを考えていて困難に出会うと、よくこの困難は何に似ているか? と考えて解決のヒントを見つけたものです。似た感触の何かは、たしかにしばしば本質を共有するからです。
一字一句の変更も利かない作品たち、それは長さはずいぶん違うけれど、構造的には〈鸚鵡返し〉に似ています。一字一句も変えずに、相手に言葉を返す行為。

鸚鵡返し。……わたしたちは、みな、この行為を行うことで、言葉を身につけて来るのですが、そのことは置いておいて、もう少し年齢が進んでからこの行為がわたしたちに戻って来た時のことをここで考えてみようと思います。

大きく分けて、それは二種類あります。
ひとつはイジメに近い意地悪です。
そしてもうひとつは、その真逆で、そこに無類の仲良しさがそこから出現する場合です。

意地悪な〈鸚鵡返し〉

まず意地悪な〈鸚鵡返し〉です。
小学生の小競り合いを想像してみます。
教室で、一人の子が、異様に机を接近させて、もう一人の子に嫌な思いをさせた、とします。
嫌な思いをさせられた子は言います。
〈どけろよ〉
すると言われた子が、すかさず口にします。《どけろよ》
〈この線からはみ出すなよ〉
すると、また彼は同じことを返します。
《この線からはみ出すなよ》
言いながらニヤニヤ笑うかもしれません。
一字一句も変更せずに、こんなふうに相手から返されると、やられた方の精神は、あっという間に破壊されて、相手にこの口まねををやめさせるには、暴力がいる。例えばナイフ。あるいはいきなり椅子を振り上げて相手の脳天に叩きつける。とにかく何らかの方法で相手を破壊しなければ、絶対にやめさせられない。
つまり相手を困らせるのに、際限の見えない口まねという手段を取ると、相手に殺意やそれに似たものを発生させる可能性がきわめて高くなります。
それほどに悪意ある鸚鵡返しの破壊力は、凄まじい。

仲良しの〈鸚鵡返し〉

次に、その真逆、無類の仲良しを実現する〈鸚鵡返し〉の例を眺めます。
これは小学生より、もう少し歳の行った人同士で考えた方が分かりやすくなります。
例えば高校生の少年と少女の二人とか。
〈じゃあ、明日十時、改札で。〉
〈うん。じゃあ、明日十時、改札で。〉
とか、
〈君は葛餅だったね〉
〈葛餅だったね〉
とか。
相手が口にした言葉を、言い回しもすべて同じに揃えて、繰り返す。その繰り返す行為に、纏わり付くもののすべてをまるごと相手に届ける行為。
これは、何を届けていることになるのだろう?

一字一句の変更もその作品を違ったものにすると言われる文学作品は、それを最初に書く時は、鸚鵡返しの最初の文言だってそうであるように、ごくふつうに意味が重視される言葉群として並べられて行くわけです。しかし、それを推敲し、直し、よしと思われる言葉の並びをただひとつに定めて行く動きの中で、それはちょうど鸚鵡返しで返されて来る言葉の感触に似て行きます。
あるいはまた、それらを誰かが読む時も、似たようなことが起こります。最初に読む時には、鸚鵡返しの最初の句のように、ふつうの意味の連鎖の文言として入ってくるが、繰り返し読むと、まるで鸚鵡返しされて繰り返された文言のように、最初とは異なるものが読まれるようになるのです。

つまり、鸚鵡返しの返しというものは、全く同じ言葉の並びが、意地悪の場合でも仲良しの場合でも、最初に述べられたこととは異なる内容をもって述べられることになります。

誰かの口にする〈どけろよ〉は、相手に対してはみ出しているものを引っ込めろという要求が意味内容です。しかし悪意をもって繰り返される〈どけろよ〉は、何かを引っ込めろという意味は持たされていない。
それは〈どけない〉でもなく、〈何言ってんだ、バーカ。〉でもない。
こういう二つは、相手の言った〈どけろよ〉を意味として受け取って、それにリアクションしていることを示すから、その意味では、言ったことが通じてはいるという極めて消極的な状態での最低限の交流がちゃんとあると言えます。

けれど〈どけろよ〉に対して〈どけろよ〉と応じることは、その消極的な交流さえも拒否するよ、という姿勢の表明になります。
最初に〈どけろよ〉と言った者が相手の対応に頭に来てさらに次々と繰り出す言葉を、すべて同様に鸚鵡返しで返し続けたならば、その悪意ある鸚鵡返しを放ち続ける者は、〈破壊衝動〉の対象にされる可能性が極めて高まります。
破壊のターゲットは、もちろんその悪意ある者に言葉を発生させている彼の脳内アプリケーション・ソフトです。だって、それを破壊する以外に、止めようがないからです。

では、もうひとつのケースはどうなるでしょう?
〈じゃあ、明日十時改札で〉
〈うん、じゃあ、明日十時改札で〉
とか、
〈君は葛餅だったね〉
〈葛餅だったね〉
のような鸚鵡返し。

始めに言い出された方の句は、どちらの場合もごくふつうに人に届く意味内容が備わっています。
ひとつは翌日の待ち合わせの取り決めだし、もうひとつは何種類かの和菓子を選べる状況で、配る人がある人の好みを承知していて、いつもこれだから、今日もこれでいいだろうか、と確認を取っている言葉ということになります。
それでは、鸚鵡返しされたその句は、どうなるでしょうか?

先に見た意地悪、悪意ある鸚鵡返しの場合は、極端な話、相手の言葉の機能を根こそぎ破壊しかねない要素が、あの繰り返された二度目の句には含まれていました。
では、この仲良しの鸚鵡返しの場合には、何が生じていると言えばいいのでしょうか?

たしかに、悪意あるケースと同様に、この場合も意味ある語群のやり取りは、この鸚鵡返しで止まってしまいます。つまりこの場合でも、鸚鵡返しされた二度目の句は、相手の言葉機能のいわば根元に飛び込んで、そこの動きを停止させることになるからです。

ただし、この仲良しの場合は、悪意あるそれとは異なって、自分はたった今あなたが言ったことを了解しただけにとどまらず、そのように言葉を使ったあなたの全言葉機能、すなわちあなた自身をそっくりまるごと受け入れたよ、という表明としてその後の個別の言葉群をとどめる動きと言えるでしょう。

具体的に言えば、〈君は葛餅だったね〉〈葛餅だったね〉において、この二つ目の鸚鵡返しされた句から伝わって来るものは、自分の好みを把握してくれていて、かつそのことを好意的に感じている最初の発語者に対して、あなたのその意識の全体を、まるごとわたしは受け取らせてもらいますという、ふつうに言葉で言おうとしたら厄介なことこの上もない意味内容が込められているわけです。
つまり相手の人に備わっている一番肯定したいその人の核とでも言えるような〈もの〉を、鸚鵡返しという方法は、個別に名指すこと無しに実現していることになります。

ここには、文学が表現しようとしている人間の姿の捉え方に極めて近いものがたしかにある
表現したい対象の核を捉えるその捉え方において。

すると、ここに新しい問いが生まれます。
全く同じ言葉の並びなのに、その二つが同じだとは言えない、……これはいったいどういうことなのか? 
そしてなぜそれが、通常の言葉使用では表に出すことの出来ないものを引き出せるのか?

***

今日は、ここまでにします。
また来週、水曜日に。この続きを。

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