コウモリは遠くまで飛べない ― 映画『白鳥とコウモリ』
なぜ白鳥とコウモリなのか
白鳥とコウモリ。この二つの生き物を並べたとき、そこにはあまりに残酷な対比が浮かび上がる。
白鳥は鳥類、卵から生まれ、日の光の下を優雅に泳ぐ。国境をも越えて、どこまでも飛んでいける自由を持つ生き物だ。世間はその姿に迷いなく「清らかさ」を見る。正しい光の側にいる存在として、疑うことなく受け入れられる。
一方でコウモリは、哺乳類でありながら空を飛ぶ、分類そのものが宙ぶらりんな生き物だ。鳥なのか獣なのか、昼なのか夜なのか。誰にも言い切ってもらえない存在は、暗闇にぶら下がって生きるしかない。そして白鳥と違い、コウモリは遠くへは行けない。国境を越える自由も、飛び続ける体力もない。一度生まれ落ちた場所から、逃げることすらできない。
この映画が描いていたのは、まさにこの二つの生き物のあいだで引き裂かれる人間たちの姿だった。
親が遺した十字架
白鳥の側にいるとされた被害者の遺族も、コウモリの側に落とされた加害者の家族も、その内実は同じだった。どちらも、ただずっと両親に大切に育てられてきた子供たちだったということ。
親の過去が明らかになっていくにつれ、子供たちはそれぞれのやり方で「なぜ」を追いかける。父は何を隠していたのか。父は本当は何を守ろうとしていたのか。それは謎を解いていく物語であると同時に、親がひとりで抱えてきた重荷に、子がそっと寄り添っていく時間でもあった。家族というのは、こういうときにこそ重い。良くも悪くも、いつまでたっても家族なのだ。
父の過去を聞かされた彼女の芝居に、言葉はなかった。何も言えない。けれど、その沈黙の奥にある表情が雄弁だった。確信的な言葉がある訳ではないのに、「きっとそうなんだろう」と受け止めてしまう顔。知ってしまった、というより、知りたかったのに、知りたくなかったという顔だ。
点と点だった記憶が、一気に線として繋がり、ひとつの形になる。けれど、そうして出来上がったものは、コウモリではなかったと思う。鳥でも獣でもない、ただ人間が人間として抱える、名づけようのない何かだった。
紺色に染まっていく
物語の中で、もっとも痛切だったのは色の変化だ。
加害者の息子という立場を背負わされた瞬間から、彼の全身は一気に紺色に染まっていく。序盤、彼は帽子を目深にかぶり、世間の目から逃れるように歩いていた。けれど物語の終盤、彼はもう帽子をかぶっていない。人の視線から隠れる必要すら、もはやないのだ。
なのに、たとえ冤罪だったと分かったとしても、決して白には戻れない。周りの視線を気にしなくなったという意味では自由になったはずなのに、彼の色は最後まで紺色のままだった。一度染まった色は、潔白が証明されても白には戻らない。それがこの映画の、静かな絶望だった。
対する彼女は、インナーは白色で、赤いマフラーにベージュを基調にしたコートをまとって物語に現れる。清らかさと正義の象徴そのものの装いだ。けれど父の過去という事実を知ったとき、彼女もまた紺色を身にまとっていく。
加害者の側も、被害者の側も、事実を知ってしまえば同じ色に染まる。白でも黒でもない、深い紺色に。この映画がたどり着いた"真実"の色は、単純な善悪の言葉では括れない場所にあるのだと、そっと教えられた気がした。
もうひとつの正義
この物語で忘れてはならないのが、刑事を演じた柄本佑の存在だ。彼の追及は冷たく、じわじわと距離を詰めてくるようでいて、どこか優しい。
警察もまた、真っ白ではない。正義感を持った人間の集まりであっても、規則は規則であり、上からの指示は絶対だ。一度黒だと決まったものを、簡単に白へ戻すことなどできない組織の中で、彼もまた不自由だった。それでも、自分の見立てが間違っていたと知ったとき、素直に頭を下げられる。その姿にこそ、この映画がもうひとつ提示した"正義"のかたちがあったと思う。完璧な正しさではなく、間違いを認められる強さとしての正義だ。
可哀想な人同士なら
余談だが、ちょうど昨日最終回を迎えたばかりの、あるドラマにも似た問いがあった。バス事故によって伴侶を失った二組の夫婦の物語。
深く傷ついた咲子が、自分たちはいつ幸せになっていいのだろうかと迷う場面。それに対して、相手役の中島歩が「可哀想な人同士ならいいんじゃないですか」とこぼす一言があった。
この映画の彼と彼女にも、同じ問いが重なる。出会うはずのなかった、加害者の子と被害者の子。傷を抱えた者同士が寄り添うことは、赦しなのか、それとも都合のいい夢なのか。答えは出ないまま、それでも二人は隣にいることを選んだ。
灰色という帰結
映画が終わり、エンドロールが流れ始める。隣に座っていた男性が、一度は席を立ちかけて、そのまま座り直した。きっと同じ気持ちだったのだと思う。
主題歌として流れる大森元貴の「灰色」が、暗い場内にゆっくりと満ちていく。その旋律は、声高に何かを結論づけることをしない。ただ静かに、観る者それぞれの胸の内に居座っていた感情を、そのままそっとすくい上げていくような歌だった。だからこそ、席を立てなかったのだと思う。物語はもう終わっているのに、その余韻だけがいつまでも席に縫い付けてくる。
この曲もまた、この物語の色そのものだった。白でもなく、黒でもなく、紺色でもない。すべての色が混ざり合ったあとに残る色。
白鳥にもコウモリにもなれなかった二人が、それでも隣り合って歩いていく。紺色のまま生きるしかない。それは弱さではなく、人間が人間である限り避けられない、ごく当たり前の姿なのだと思う。
だとすればこの映画が差し出した救いとは、罪が消えることでも、白に戻ることでもなく、"紺色のままの自分"を受け入れられる相手が隣にいること、なのかもしれない。

