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悪魔との取引― 悪魔とは誰だったのか ―

【あらすじ】

僕は昔、悪魔と契約した。
その代償は、人の気持ちが分からなくなること。
感情を閉じたまま生きることは、思ったより楽だった。

ある日、夢を見るようになる。

終わらない廊下。
こちらを見続ける絵の中の女性。
そして、何度も繰り返される「元気ですか」という言葉。
夢は、少しずつ現実へ滲み出していく。目を覚ましたあとも、あの廊下の気配が消えない。

やがて僕は、忘れていたはずの記憶に追い詰められていく。

河川敷の夜。
笑っていた少女。
そして、逃げ出した自分。

悪魔との契約だと思っていたものは、本当に契約だったのか。――だとすれば、悪魔とは、誰だったのか。

これは、何度失っても消えなかった想いと、
自分自身の奥底に眠る“声”に向き合う物語。


幼少期①

何をやっても、怒られた。

理由がわかるときもあった。でも、わからないときの方が多かった。だから僕は、何もしないことを覚えた。息を潜めて、部屋の隅で、ただ小さくなっていた。

夜、一人になると、頭の中で言葉が鳴り響いた。

駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。

声に出さなくても、頭がガンガンした。布団の中で膝を抱えて、ただその言葉が鳴り止むのを待った。

でも——その痛みの奥に、どこか静かな場所があった。

もう、頑張らなくていい。

そう思った瞬間だけ、楽になれた。それだけが、あの頃の僕の唯一の逃げ場だった。

ある夜、もう限界だった。頭の中で——叫んだ。声には出さなかった。でも、全力で叫んだ。

誰か。誰でもいい。この苦しみを消してくれ。感情も罪悪感も、全部消してくれ。

返事は——なかった。静寂だけが、あった。

そうか。やっぱり、誰もいないのか。

膝を抱えたまま、眠れた。朝になると、忘れた。

それから——感情が、薄くなっていった。

怒られても、さほど痛くなくなった。嬉しいことがあっても、どこか遠くから見ているような感覚だった。

俺は——壊れたのかもしれない。そう思ったこともあった。

でも——頭の中で、声がした。

あなたは悪くない。感情が消えたのは、あなたを守るためだ。

その声を聞くたびに——少し、楽になれた。

その声が、どこから来ているのか。ずっと——考えなかった。

* * *

公園で一人でいると、いつもの場所に誰かが座っていた。

おじさん、とだけ思っていた。名前も知らなかった。顔も、なぜかうまく思い出せなかった。

でも声は——はっきり聞こえた。

「お前、いつも一人だな」「そうだよ」「いいじゃないか。お前は悪くないんだよ」

あなたは悪くない。

その言葉が——妙に、心地よかった。

帰り際、振り返った。誰もいなかった。ベンチは、空だった。

でも、声は確かに聞こえた。それだけは、確かだった。

その夜の夢の中で——誰かが手を引いていた。

小さな手だった。温かかった。

でも——その温かさは、初めて触れるものではない気がした。どこかで、何度も触れたことがあるような。慣れた温かさだった。

笑っていた。こちらに向かって、笑っていた。

その笑い方に——迷いがなかった。また来たよ、と言わんばかりの、静かな確かさがあった。

「ねえ、約束しよう」

何の約束か——わからなかった。でも——うなずいた。

その手が、何かを握らせた。小さくて、柔らかい何かだった。布のような感触だった。

白かった。小さな青い花が、散っていた。

朝になると、忘れた。でも——手の中の温かさだけが、少しだけ残っていた。

幼少期②

最初に「あの場所」へ行ったのは、それからすぐの夜だった。

気づいたら、立っていた。

廊下のような、でも廊下ではない空間だった。天井が高すぎて、上が見えない。壁は石のようで、触ると少しだけ温かかった。生きているような、温かさだった。

突き当たりに、扉があった。古い木の扉だった。取っ手が、妙に磨り減っていた。誰かが何度も、何度も触った跡だった。

握った。温かくなった。気のせいじゃなかった。開けた。

部屋の奥に——絵が、飾られていた。

大きな絵だった。絵の中に——女性が、描かれていた。椅子に座っていた。こちらに背を向けていた。長い髪が、肩から流れていた。

服に、柄があった。白地に、小さな青い花が散っていた。

ただの、絵だった。でも——なぜか、目が離せなかった。見ていると——髪が、揺れた気がした。風は、なかった。

部屋を出ようとした。その瞬間——

——逃げて。

絵の中から、声がした。薄い声だった。振り返った。絵の中の女性が——少しだけ、こちらを向いていた。顔は、まだ見えなかった。

目が覚めた。

朝、鏡の前に立った。いつもの顔だった。

でも——一瞬だけ。鏡の中の自分が、横を向いていた気がした。見直すと、正面を向いていた。

気のせいだ、と思った。

また、行った。同じ廊下。同じ扉。同じ部屋。

でも今回は——壁に紙が貼ってあった。読めない文字が、びっしりと。絵だけが——紙に覆われていなかった。

絵の中の女性は——また、少しだけこちらを向いていた。昨日より、数センチ。

服の柄が——もう少しはっきり見えた。白地に、小さな青い花。

部屋を出ようとした時、声が聞こえた。

——聞いて。お願い。

振り返った。絵の中の髪が——風もないのに、揺れていた。

目が覚めた。汗がにじんでいた。

また、行った。

今回は——廊下が、少し変わっていた。

壁に掛かっていた何もないはずの額が、一つだけ増えていた。

何が入っているのか——見なかった。

でも——通り過ぎる時、その額の前で足が止まった。

引き寄せられるように。

見てしまった。

額の中に——子供の手形があった。

白い紙に、赤い手形が、一つだけ。

小さかった。由美くらいの、子供の手形だった。

その手形が——僕の手形と、ほぼ同じ大きさだった。

廊下を歩いた。扉の前に立った。

今日は——開けなかった。

扉の前で、ただ立っていた。

扉の向こうから——何かの気配がした。

待っている。ずっと、待っている。そんな気配が。

目が覚めた。汗がにじんでいた。

また公園へ行くと、またその声がした。

「あの子——普通じゃないと思わないか」長い髪の、女の子を指していた。

「別に普通だろ」「そうかな。あの子には何か見えている」

振り返ると——やはり、誰もいなかった。でも声は、確かに聞こえた。

由美、という名前だと——後から知った。宮司の家の子だと——後から知った。

幼少期③

それから、夢は続いた。毎回、少しずつ違った。壁の紙が増えた。絵の女性が、少しずつこちらを向いてきた。

ある夜、絵に近づいた。

女性の顔が——もう少しで見えそうだった。髪の隙間から、目が見えた。一つだけ。こちらを——見ていた。瞬きを、しなかった。

——思い出して。お願い。思い出して。

今日は——懇願するような声だった。

一歩、近づいた。もう一歩、近づいた。

その瞬間——部屋の電気が、消えた。真っ暗になった。

帰ろうとした。出口が見えた気がした。その瞬間——

——ねえ。

耳の後ろから。すぐ真後ろから。息がかかるような距離で、囁いた。

振り返れなかった。振り返ったら——何かが、終わる気がした。

目が覚めた。冬だった。なのに、汗が出ていた。体が——動かなかった。

耳の後ろが——まだ、温かかった。

また、行った。

廊下に入った瞬間——床が、ぬかるんでいた。水じゃなかった。もっと重たい、粘りつくような何かだった。

歩くたびに、音がした。剥がれるような、湿った音が。

扉の前に立った。扉に——手形があった。内側から押したような、手形が。小さかった。子供の手形だった。

開けた。

絵が——近かった。扉を開けた瞬間、すぐそこにあった。

絵の中の女性が——こちらを向いていた。前より、ずっとはっきりと。

床が、動いた。足元から——手が、伸びてきた。床の下から。細い手だった。長い髪が、床の隙間から流れ出していた。

掴まれた。足首を。引っ張られた。声が出なかった。

——思い出して。あの夜を。

頭の中で、声が叫んだ。

見るな。振り払え。今すぐ。感情を閉じろ。

足を、動かした。廊下を走った。

帰ろうとした。その瞬間——

——ねえ。

また、耳の後ろから。すぐ真後ろから。今回は息が首にあたった。

振り返った。

その瞬間——さらに後ろから、声がした。

——ねえ。

足首を、はっきりと掴まれた。

——つかまえた。

目が覚めた。

足首が、冷たかった。布団を握った。布団は、温かかった。でも足首だけが、冷たかった。

小学校を卒業する頃には、夢を見なくなっていた。

でも——あの冷たさだけが、足首に。ずっと、残っていた。

そして——あの夢の中で握らされた、あの布の感触も。

白地に、小さな青い花。それだけは——消えなかった。

青年期①

中学に入った頃から、友人が増えた。

つるんで歩いた。笑った。どこかへ行った。それだけで十分なはずだった。

でも僕の心には、いつも隙間があった。楽しいのに、どこか遠くから見ているような感覚があった。

感情が、薄い。ずっとそうだった。怒られ続けた幼少期から、自分を守るために感情を閉ざした。そう思っていた。

でも——頭の中の声は言った。

あなたは悪くない。感情が消えたのは悪魔との取引の代償だ。

その声を聞くたびに——少し、楽になれた。

悪魔との取引。そう思い込むことで——自分が壊れているのではなく、取引をしたのだ、と思えた。

その方が——楽だった。

ある夜、友人たちと商店街を歩いていた。

一人が——笑いながら言った。「見ろよ、簡単だろ」手の中に、タグがついたままの商品があった。

僕は何も言わなかった。止めもしなかった。

あなたは悪くない。感情がないから、止められなかった。

声が言った。そうだ、と思った。

その夜、風呂に入った。

湯船に浸かっていると、突然笑いがこみ上げてきた。理由はわからなかった。ただ、腹の底から何かが溢れてきた。

顔を湯の中に突っ込んだ。

ククク——アハハ——

浴室に反響した。笑い声というより、何か別の記号のようだった。水の中で歪んで、壁に跳ね返って、自分の耳に戻ってくる頃には、もう自分の声じゃないみたいだった。

顔を上げた。息を整えた。何事もなかったように、髪を洗った。

鏡に映った自分が、まだ笑っていた。

数日後、友人と飯を食った。帰り際、友人が僕の顔を見て、何か言いかけた。

「お前、目が……」少し間があった。「……いや、なんでもない」

僕は「そうか」と言って歩き出した。特に気にならなかった。

青年期②

高校に入った頃、僕は川沿いの町に住んでいた。

学校の帰り道、よく川沿いを歩いた。家に帰りたくなかった。川の水は、いつも同じ速さで流れていた。見ていると、頭が空っぽになった。空っぽになると、楽だった。

その頃、気になっている子がいた。

同じ学年にいる、長い髪の子。よく笑う子。廊下ですれ違うたびに、少しだけ空気が変わるような子だった。

感情が薄い自分には、近づく理由がないと思っていた。

放課後の教室だった。忘れ物を取りに戻っただけだった。

夕方の教室は、少しだけ色が違って見えた。机の影が長く伸びていて、窓の外では部活の声が遠くに聞こえていた。

その子が、いた。

黒板の前に立って、誰かの落書きを見て笑っていた。一人だった。

チョークを取って、落書きの横に、小さな花を描いた。白いチョークの花だった。

それから満足そうに笑った。その時——僕の方を、見た。

入口で固まっている僕に気づいて、少し驚いた顔をした。でも——すぐに笑った。さっきの笑い方で。

何も言わずに、ただ笑った。

胸の奥が——変な感じがした。薄いはずの感情が——動いた。

その時、廊下の向こうから誰かが走ってきた。「由美ー、先帰るよ」

由美。

その名前が、胸の奥に落ちた。

たった二文字だった。それだけなのに、何かが急に形を持った。

長い髪。笑う顔。白地に、小さな青い花柄の服。黒板の白い花。窓から入る夕方の光。

それらが全部、「由美」という名前の中に入っていった。

由美は、僕に気づいた。「あれ。忘れ物?」

「ああ」——それだけ言うのが、精一杯だった。

由美は少し笑った。「いつも静かだよね。でも——ちゃんと見てるよね」

頭の中で、声がした。

感情を閉じろ。関係ない。

でも——声が、遠かった。由美が笑うと——声が、遠くなった。

忘れ物を取って、教室を出た。廊下を歩きながら、何度も心の中で名前を繰り返した。

由美。由美。由美。頭の中で呼ぶだけで、少し息がしやすくなった。初めてだった。

翌日、図書室に行くと、由美がいた。

一人で本を読んでいた。僕が入ってきたのに気づいて——顔を上げた。そして、笑った。

「また会ったね」

その言葉の声に——ほんの少しだけ、安堵が混ざっていた気がした。

「また」という言葉に——なぜか、重みがあった。

「座っていい?」由美が、隣の椅子を少し引いた。

頭の中で、声がした。

感情を閉じろ。関係ない。

でも——足が、動いた。

しばらく、二人とも黙って本を読んだ。沈黙が、嫌じゃなかった。

感情が薄いはずなのに——由美の隣は、静かだった。頭の中の声が——ずっと遠かった。

ふと、由美が本から目を上げた。

「ねえ、好きな本ある?」

「……別に」

「また別に」由美が笑った。「じゃあ、嫌いな本は?」

「……登場人物が全員うまくいく本」

由美が——少し、目を丸くした。

それから、笑った。声に出して、笑った。

「そっか。じゃあ私の好きな本は嫌いかもね」

「……どんな本だ」

「みんながそれぞれちゃんとうまくいく本」

「それは違う」「え、何が」「みんながうまくいくのと、全員うまくいくのは違う」

由美が——また笑った。今度は、少し違う笑い方で。

「……鋭いね」

「別に」

「また別に」

気づいたら——声が遠かった。いつもの声が、ずっと遠かった。

帰り際、由美が言った。「また来る?」「わからない」「そっか」

由美は、また笑った。「私は来ると思うけどな」

その言葉に——またあの「安堵」があった。嬉しそうで、でも少し疲れたような。

次の日も、由美は図書室にいた。「また会ったね」

同じ言葉だった。でも——嬉しそうだった。そして少しだけ——ほっとしたような顔だった。

「昨日の続き読んでた」「何の話だ」「みんながちゃんとうまくいく話」「……そうか」

また、二人で本を読んだ。声が遠かった。

それから、何度か続いた。

図書室で会う。廊下ですれ違う。たまに同じ帰り道になる。

そのたびに、由美は「また会ったね」と言った。僕は「偶然だろ」と言った。

由美は、少し間を置いてから「そうだね」と言った。でも——その「そうだね」の後に、微かに笑っていた。

帰り道が一緒になる日は、たいてい由美が話した。

川のこと。空のこと。一族のこと——少しだけ。

「一族って、みんな何か見えるの?」

「見えるけど、私ほどじゃない。私は——見えすぎる」

「何が見える」

「境界の向こう。過去とか、未来の断片とか」

少し、間があった。

「怖くないのか」

由美は——少し考えた。「怖いよ。でも——あなたの前だと、あまり見えなくなる」

「……俺の前だと?」

「うん。不思議だよね。でも——落ち着く」

声が遠かった。

由美が横を向いている時の顔を——見ていた。

笑っていなかった。遠くを見ていた。でも——穏やかだった。

こんな顔は、見たことがなかった。

ある日、由美が言った。

「あなたって、感情が薄いよね。でも——それって、怖いからじゃない?」

足が、止まった。「怖い?」「うん。感情を出したら、また傷つくから。だから閉じてる」

由美は、そう言った。当たり前のように。

「違う」「そうだよ。私には見えるもん。境界の向こうにあるもの。あなたの中にあるものも」

境界の向こう。宮司の家の子だと、聞いたことがあった。

「怖くないよ。あなたの中のもの」由美は、少し笑った。

それだけ言って、歩き出した。振り返らなかった。でも——なんとなく、泣いているような気がした。

ある午後、廊下を歩いていると——角の向こうから由美の声が聞こえた。足が、止まった。

「あの子、なんか面白いんだよね」

由美の声だった。「静かなのに、ちゃんと見てるっていうか。なんか——すごく、ちゃんとしてる」

「誰の話?」「えー、ひみつ」

笑い声がした。由美の、あの笑い方だった。

僕は——動けなかった。由美は——感情が薄い自分を見て、それでも面白いと言っていた。

胸の奥が——痛かった。感情が薄いはずなのに。

ある日、廊下の隅で、由美が一人でいた。うつむいていた。

声をかけるつもりはなかった。通り過ぎるつもりだった。でも——足が、止まった。

「大丈夫か?」

声に出していた。自分でも驚いた。頭の中で、声がした。

感情を閉じろ。関係ない。

でも——由美が、顔を上げた。

目が、赤かった。由美は一瞬——驚いた顔をした。「一族の人たちが……」それだけ言って、止まった。

それから——笑った。泣いた後の、ぎこちない笑い方だった。「ありがとう。大丈夫」

それだけだった。僕は頷いて、歩き出した。振り返らなかった。

由美のことは——すぐに忘れた。

でも。

由美は——忘れなかった。

一族の中で孤独だった由美が——初めて「ちゃんと見てもらえた」と思えた瞬間だった。

青年期③

ある日——由美に、神社に連れて行かれた。

「うちの一族の神社。見せたいものがある」

「神社?」「うん。そんな遠くないよ」

川沿いを歩いて、小さな坂を上ると——古い石段があった。

苔が生えていた。誰かが、定期的に掃き清めているのか——落ち葉だけがなかった。

「一族の人が毎日来る」由美が言った。「でも——私はあまり来ない」「なんで」「怖いから」

「神社が?」「神社じゃなくて——見えすぎるから。ここは境界が薄い」

境界。

由美がよく使う言葉だった。

社殿の前に立った。古い木の匂いがした。杉の香りと、土の香りが混ざっていた。

由美は手を合わせた。目を閉じた。

横顔が——静かだった。

神社では、遠くを見ていなかった。目を閉じていた。

「何をお願いするんだ」

しばらくして、由美は目を開けた。「お願いじゃなくて——報告」

「報告?」「うん。ちゃんとやってるよって」

「誰に」

由美は少し笑った。「先祖に。一族に。ここにいる全部に」

「……変わってるな」「そう?」「普通、お願いするだろ」

「お願いばっかりしてたら、きりがないよ」

由美は——また笑った。今度は、少し遠くを見た。

「私には見えすぎるから——お願いしてもしょうがない時がある。だから報告だけする」

「……見えすぎるのが嫌か」

「うーん」由美は少し考えた。「嫌というより——疲れる。でも、最近は少し楽になった」

「なんで」

由美は——こちらを見た。「あなたの前だと、あまり見えなくなるから」

声が、遠くなった。いつもの声が、ずっと遠かった。

帰り道、川沿いを並んで歩いた。

由美が缶コーヒーを二本買って、一本渡してきた。

「ブラックでいいよね」「ああ」「合うね」

また、あの笑い方で笑った。

川が、夕方の光を受けていた。

由美は川を見ながら、缶コーヒーを飲んだ。

何も言わなかった。

でも——沈黙が、嫌じゃなかった。

声も、遠かった。

「また来よう」

由美が——ぽつりと言った。

「神社に?」「川沿いに」

「……ああ」

由美は、少し笑った。「約束ね」

その言葉が——後になって、ずっと耳に残った。

あんなに軽く言ったのに。

事件の前日、由美と話した。

昇降口の近くでぼんやりしていると、由美がいた。白地に、小さな青い花柄の服。

「帰らないの?」「別に」

由美は少し笑った。「また、別に。便利だよね、その言葉」

由美は僕の隣に立った。距離が近かった。雨の匂いがした。

「あなたって、感情がないみたいに見えるけど——違うよね。「大丈夫か?」って声をかけてくれた。あの時、感情がなかったら言えない」

何も言えなかった。

「私もね、一族の中では浮いてる。見えすぎるから。感情、ちゃんとあるよ。ただ閉じてるだけ」

「でもね」——由美が、少し間を置いて言った。

「あなたの前だと、なんか安心する。ちゃんと見てくれる気がするから」

声が遠かった。いつもの声が、ずっと遠かった。

由美は少し迷ったようにしてから、言った。「じゃあ、また明日」

数歩進んでから、振り返った。

「ねえ、もし私が困ってたら——」

由美は、少し止まった。

「……今回は、助けてね」

今回は。その言葉が——引っかかった。「今回は?」

由美は——少し、目を逸らした。それから、笑った。

「あ、ごめん。今度は、助けてね」

言い直した。でも——「今回は」という言葉が、頭から離れなかった。

今回、とはどういう意味だ。前回があるのか。

「……助けるよ」

由美は、少し驚いた顔をした。それから——笑った。今まで見たことがないような笑い方で。

「約束ね」そう言って、由美は帰っていった。

次の日。

放課後だった。由美と一緒に川沿いを歩いていた。

神社の帰りだった。いつもと同じ道だった。

由美は少し先を歩いていた。白地に、小さな青い花柄の服。

夕方の光が、川に反射していた。由美の髪が、風で少し揺れていた。

きれいだと思った。感情が薄いはずなのに——きれいだと思った。

由美が——振り返った。

顔色が、変わっていた。

さっきまでと——全然違う顔だった。

「走って」

その声が、冷たかった。

笑い方を知っている声が——今日は、違った。

恐怖が混じっていた。でも——それだけじゃなかった。

俺を逃がそうとしていた。俺を——守ろうとしていた。

後ろに、誰かがいた。

振り返る前から——わかった。足音が、近かった。

由美がもう一度言った。「走って」

頭の中で、声がした。

お前には無理だ。感情がないお前には。逃げろ。

足が——動かなかった。

由美を見ていた。由美の目を見ていた。

由美が——笑った。

怖い顔のまま——笑った。

図書室で初めて隣に座った時の、あの笑い方だった。

神社で「報告だけする」と言った時の、あの笑い方だった。

缶コーヒーを渡しながら「合うね」と言った時の、あの笑い方だった。

「また会ったね」と言う時の、あの笑い方だった。

「大丈夫。行って」

由美は——笑いながら、そう言った。

俺を見て、笑いながら。

全部知っていたような顔で。

全部見えていたような顔で。

胸の奥が——崩れた。

逃げろ。今すぐ。

足が——動いた。

走った。

一人で。由美を置いて。

由美が笑っているのを——見た最後にして。

後ろを振り返らなかった。

振り返れなかった。

振り返ったら——あの笑い方が、また見える気がした。

見えたら——止まる気がした。

止まったら——何かが変わる気がした。

だから——振り返らなかった。

走りながら——由美の笑い方が、頭から離れなかった。

「行って」と言いながら笑っていた由美が。

怖い顔で、でも笑っていた由美が。

全部知っていたような顔で笑っていた由美が。

頭から——離れなかった。

立ち止まった。後ろを——見た。

誰もいなかった。

由美がいた場所に——誰もいなかった。

街灯だけが、水面を照らしていた。川が、静かに流れていた。

声が言った。

よかった。逃げられた。お前は悪くない。感情がなかった。仕方ない。

そうだ、と思った。

でも——足首が、冷たかった。

由美がいた場所を——見ていた。ずっと、見ていた。

由美の笑い方が——頭から、離れなかった。

次の朝、スマホを見た。地元のニュースサイトに、小さな記事があった。

『河川敷付近で女性が倒れているのを発見。意識あり。警察は何者かによる事件として捜査』

日付は——昨夜だった。

スマホを閉じた。川が、光っていた。

お前には無理だった。感情がなかった。仕方ない。

声が言った。そうだ、と思った。

その後、学校で由美を見かけなくなった。転校した、と誰かが言っていた。

由美という名前が——頭の中から、少しずつ消えていった。消えていくのを、止めなかった。

でも——「約束ね」という言葉が。白地に、小さな青い花柄の服の感触が。

「ちゃんと見てくれる」という、あの言葉が。「また会ったね」という、あの安堵の混じった声が。

そして——「今回は」という、言い直された言葉が。

頭から、離れなかった。

あの声が、どれだけ「無理だ」「関係ない」と言っても。それだけは——消えなかった。

その夜の夢は、いつもと少し違った。

廊下に入った瞬間、足元が濡れていた。水だった。冷たかった。

部屋の中が——水で満ちていた。冷たい水の中に、女性が立っていた。髪が、水に広がっていた。

由美が白い服を着ていた。

口が、動いた。水の中なのに、はっきりと聞こえた。

——なんで、走ったの。

近づいた。顔が、見えてきた。もう少し。もう少しで——水が、口に入った。溺れた。もがいた。

目が覚めた。

息が上がっていた。足首が、冷たかった。

由美という名前が——もう、出てこなかった。でも——「また会ったね」という言葉の温度だけが、残っていた。

高校を卒業した。地元を出た。逃げた——と、ずっと後になって気づいた。

夢は、しばらく見なかった。声だけが、ついてきた。

大丈夫。お前には無理だった。感情がなかったから。仕方ない。

新しい部屋で、その声を聞きながら眠った。

由美

これが何度目か、由美はもう数えていなかった。

最初の頃。

また、終わった。

白い部屋の中で、由美は一人だった。さっきまでそこにいた彼が——消えていた。

また逃げた。また走った。また、届かなかった。

由美は、椅子に座った。

深呼吸した。

仕方ない。最初から、こんなに簡単ではないとわかっていた。

由美は机の前に座り直した。便箋を一枚、取り出した。

彼の字を思い出しながら——書いた。

元気ですか。

自分の字より、丁寧に書いた。

彼が読んでくれるように。

届かなくても——いつか、積み重なるように。

封筒に入れた。机の上に、置いた。

一枚だけが、白い机の上に、静かに置かれていた。

大丈夫。次がある。

そう思いながら——また、立ち上がった。

理由は、考えなかった。

考えるまでも、なかった。

* * *

何度か経ってから。

また、終わった。

白い部屋の中で、由美は一人だった。

封筒が、積み上がっていた。十枚くらいになっていた。

由美は——少し、笑った。

笑い方が——最初の頃と、少し違っていた。

軽くなっていた。少し疲れたような。

彼は——今回も、逃げた。

川沿いで由美が振り返った時、後ろを見ずに走った。

由美には、その足音が聞こえていた。

遠くなっていく足音が。

責める気持ちは——なかった。

ただ——どうしたら届くのか、それだけを考えていた。

いつか——あの声が届く日が来る。

「大丈夫か?」と声をかけてくれたあの日の彼が。

あれは本物だったから。

感情がないと思い込んでいる彼が、それでも足を止めた。

あれは——本物だった。

大丈夫。次がある。

まだ、そう思えた。

* * *

それから、もっと経ってから。

また、終わった。

白い部屋の中で、由美は一人だった。

封筒が、積み上がっていた。何枚あるか、数えるのをやめていた。

今回は——違うループで、高校まで一緒にいられた。

別の時間の流れの中で——彼と、話した。

「また会ったね」と言うたびに、彼は「偶然だろ」と言った。

でも——笑っていた。

声が遠くなると言っていた。由美の隣にいると、頭の声が遠くなると。

それが——嬉しかった。

そしてそれが——終わった。

また川沿いで、また「走って」と言って、また——逃げられた。

今回は——少し長くいられた分だけ、痛かった。

由美は——泣いていた。

笑おうとした。でも——今日は、笑えなかった。

由美は、手首をそっと触れた。

細いバンドを、いつも巻いている。

その下に——傷が残っている。

あの頃の傷が。

家の中で、一人だった頃の傷が。

一族が外から守っていた。でも——中には入れなかった。

見えすぎていた。境界の向こうが見えた。一族が見えた。でも——来られない一族が見えた。

それが——一番つらかった。

彼だけが——ちゃんと見てくれた。

「大丈夫か?」と。

ただそれだけで——由美は、生きていられた。

その一言が、ずっと由美を支えていた。

だから——来る。何度でも来る。

あの一言の重さを、彼には知ってほしくない。

知ったら——重すぎるから。

ただ——届いてほしかった。

エゴかもしれない。執着かもしれない。

どこかで——彼がループの中にいる間は、一緒にいられると思っている自分もいる。

一族の中でも孤独だった由美には——彼の隣が、唯一、静かだった。

それは、救いなのか。執着なのか。

由美にも、もう分からなかった。

でも。

それでも——彼を解放したいのは、本当だ。

あの日みたいに——「大丈夫か?」と、誰かに声をかけられるような人になってほしい。

感情を持ったまま、傷付きながら、それでも生きていける人に。

私に出来ることだけをやっていく。

いつか積み重なった何かが、あふれ出す日が来る。

そう信じることにしている。

由美は立ち上がった。

また、行こう。

好きだったから。

それだけで——また行ける。

理由は、それだけでいい。

また会ったね、と言いに。

今度こそ、届くといい。

そう思いながら——また、歩き出した。

社会人期①

新しい町は、静かだった。誰も僕のことを知らなかった。それが、よかった。

アパートの一室。六畳。窓から川が見えた。最初に見た時、少し嫌だと思った。でも慣れた。

田中という男がいた。同じ部署だった。

入社初日、向こうから話しかけてきた。「ここだよ」と自分の隣の席を指さした。

愛想のいい笑い方だった。どこかで、会った気がした。でも——思い出せなかった。

悪い奴じゃなかった。一緒にいると、頭が静かだった。あの声も、遠くなった。

田中といると——安心するというより、何かを忘れやすかった。

それが——少し、不思議だった。

田中はよく飯に誘ってきた。

「ラーメンと定食、どっちがいい」「どっちでも」「どっちでも、か。お前本当に感情ないな」

「悪いか」「悪くないけど、一緒にいて楽だよ。こっちが気を遣わなくていい」

田中が、箸を動かしながら言った。「俺も昔、感情が邪魔だなって思ったことある」

「……そうか」「でも今は、邪魔でもいいかなって思う。ないとつまんないから」

その言葉が——少し、引っかかった。

でも——何も言わなかった。

別の日、昼休みに田中が言った。

「お前、夢見る方か?」「……なんで」「なんか最近、うなされてるみたいな顔して来るから」

「……見る」「どんな夢」「川の夢」「川?」「走る夢」

田中が——少し、黙った。

「走るのか、走られるのか」「……走る」

また、田中が黙った。「そうか」それだけ言った。

それ以上は——聞かなかった。

ある昼休みのことだった。田中が弁当を食いながら言った。

「今週末、合コンどうよ」「無理だ」「なんで」「彼女がいる。さやか、っていうんだ。カフェで知り合った」

田中が、箸を止めた。「……知らないな。中学からの付き合いだけど、聞いたことないぞ」

「……話してなかっただけだ」田中は弁当に戻った。それだけだった。

さやかのことを、少し話しておく。

カフェで知り合った。偶然隣に座って、偶然同じ本を読んでいた。

明るい人だった。よく笑った。長い髪を、いつも少し揺らしながら歩いた。

最初に気づいたのは、コーヒーのことだった。

さやかは、ブラックで飲んだ。「昔から。あなたも?」「ああ」「合うね」

さやかが笑った。その笑い方が——どこかで、見たことがある気がした。でも——思い出せなかった。

さやかは、白地に小さな花柄のものをよく身につけていた。スカーフだったり、ハンカチだったり。

「その柄、好きなのか」「……うん。なんか落ち着くから。ずっと前から好きで」

ずっと前から。その言葉が——引っかかった。

さやかは——たまに、不思議なことを言った。

「ねえ、昔どこかで会ったことない?」「……ない」「そう。でもなんか——懐かしい感じがする」

「気のせいだろ」「そうかな。気のせいって、案外当たってること多いよ」

さやかは、それだけ言って笑った。

別の日——さやかが言った。

「夢に出てくる人って、本当に知ってる人だと思う?」「……何の話だ」「なんとなく。夢って、知らない人は出てこないって聞いたから」

「そんなことはない」「そうかな」

さやかは少し遠くを見た。「でも私、あなたに会う前から——なんか、あなたに似た人の夢、見てた気がするんだよね」

頭の中で、声がした。

ちがう。感情を閉じろ。

でも——さやかの横顔が、どこかで見た横顔に——重なった。

思い出せなかった。でも——重なった。

さやかの口癖があった。

偶然どこかで会うと——「また会ったね」と言った。

その言葉の響きが——由美の「また会ったね」と、同じだった。同じ言葉。同じ安堵の混じった声。

でも——思い出す前に、頭の中の声が遮った。

ちがう。感情を閉じろ。

さやかと話していると、頭の中が静かだった。あの声が、完全に消えた。初めてだった。

さやかの横顔を見るたびに——何かを、思い出しそうになった。

あの横顔。「ちゃんと見てくれる」という言葉の温度。「また会ったね」という安堵。

でも——思い出す前に、いつも声が遮った。

ちがう。感情を閉じろ。

家に帰った夜、さやかの連絡先を——探した。なかった。

明日、聞けばいい。そう思って、眠った。

でも眠る直前に——さやかの顔が、うまく浮かばなかった。

輪郭はある。でも顔の中心が——霧の中だった。

でも——「また会ったね」という言葉の温度だけが。「安心する」という笑い方だけが。鮮明だった。

その夜、夢を見た。廊下だった。扉を開けた。川沿いだった。

前を——由美が歩いていた。今度は青い服を着ていた。前回と——違った。

後ろから、誰かが来た。由美が振り返った。「走って」

僕は、また走り出した。

夢の中で——思った。またか、と。

この夢を——何度も見た気がした。でも、何度見ても——結末が変わらない。

目が覚めた。鏡を見に行った。いつもの顔だった。

でも——しばらく、見ていた。一ミリも、動かずに、見ていた。

社会人期②

それから、少しずつ、おかしくなっていった。

ある朝、郵便受けを開けると、封筒が入っていた。差出人の名前が——なかった。

開けた。白い便箋に、一行だけ書いてあった。

元気ですか。

それだけだった。筆跡を、じっと見た。どこかで見たことがある気がした。でも——誰の字か、思い出せなかった。

封筒を、机の引き出しに入れた。

感情を閉じろ。関係ない。

声が言った。でも——引き出しを閉める手が、少し、震えていた。

翌週、また届いた。同じ封筒。同じ字。同じ一行。

元気ですか。

引き出しに、重ねた。

その週も、また届いた。

引き出しに、重ねた。

また届いた。また重ねた。

ある日——引き出しを開けた。

封筒が、五枚になっていた。

全部、同じ字だった。自分の字よりも、少しだけ丁寧な字だった。

誰が書いているのか——わからなかった。

でも——その字が、何度見ても、どこかで見た気がした。

ある朝、電車に乗った。窓の外を見た。川が見えた。川沿いに、誰かが立っていた。女性だった。こちらを見ていた。

電車が速くて、すぐに見えなくなった。見間違いだと思った。

昼休み、田中と飯を食った。田中がふと言った。

「最近お前おかしいぞ」「大丈夫だ」「由美の事だって——」「由美?」

田中の顔が、止まった。完全に止まった。「……覚えてないのか」「誰だ、それ」

由美。その名前を、頭の中で繰り返した。

知らなかった。知らないはずだった。

でも——胸の奥が、痛かった。知らない名前のはずなのに。

「また会ったね」という言葉の温度が——一瞬、浮かんで消えた。「今回は」という言い直しが——浮かんで消えた。

田中が——ゆっくりと立ち上がった。「おまえ、病院、行った方がいいぞ」

それだけ言った。振り返らずに、行った。

夕方、引き出しを開けた。

元気ですか。

筆跡を、もう一度じっと見た。——自分の字に、似ていた。いや。

自分の字よりも、少しだけ丁寧だった。手が、冷たくなった。

夕方、川沿いを歩いた。街灯の下で、足が止まった。

アスファルトに、古いシミがあった。薄かった。でも——あった。

「走って」——「約束ね」——「また会ったね」——「今回は」——

お前には無理だった。感情がなかった。仕方ない。

「うるさい」声に出した。川沿いに、声が響いた。

夜、部屋に帰った。「ただいま」言った。静かだった。

さやかは——いなかった。さやかの荷物が——なかった。でも今日は——探さなかった。

ほんとうにいたのか。

その考えが、浮かんだ。声が——何も言わなかった。その沈黙が——何よりも、怖かった。

その夜の夢は——いつもと、全く違った。

廊下に入った瞬間——扉が、たくさんあった。

廊下の両側に、いくつも扉が並んでいた。どれも、古い木の扉だった。どれも、取っ手が磨り減っていた。

最初の扉を開けた。

子供がいた。部屋の隅で、膝を抱えていた。僕だった。子供の頃の、僕だった。怒鳴られている声が、部屋に満ちていた。

扉を閉めた。見ていられなかった。

次の扉を開けた。商店街だった。夜だった。

あなたは悪くない。感情がないから、止められなかった。

扉を閉めた。

次の扉を開けた。河川敷だった。誰かが、誰かを殴っていた。

右手の拳が——痛かった。見ていただけのはずだった。でも右手が、痛かった。

お前には無理だ。感情がないお前には関係ない。

扉を閉めた。手が、震えていた。

次の扉を開けた。

川沿いだった。夜だった。街灯が一つ、水面を照らしていた。

前を——由美が歩いていた。白地に、小さな青い花柄の服を着ていた。

後ろから、誰かが来た。由美が振り返った。顔色が変わった。「走って」

僕の足が——動かなかった。

お前には無理だ。感情がないお前には。逃げろ。

僕は——走り出した。でも夢の中では——振り返れた。

倒れていた。

扉を閉めた。

また、扉があった。開けた。

また川沿いだった。今度は——雨だった。

由美が走りながら振り返った。「早く」

今度は——間に合いそうだった。足が動いた。走った。手が届きそうだった。

あと一歩——

足が、止まった。

お前には関係ない。

由美が——倒れた。

また、扉があった。開けた。

また川沿いだった。今度は——晴れていた。昼間だった。

由美が振り返った。笑っていた。「また会ったね」

何もない日だった。

でも——その夜、由美が一人で歩いているのを見た。後ろから、誰かが来ていた。

気づかなかった。

その日も、由美は倒れた。

扉を閉めた。廊下に出た。床に、座り込んだ。立てなかった。

三つ目が——一番、きつかった。気づかなかったから。

最後の扉が、一つ残っていた。いつもの扉だった。開けた。

白い部屋だった。女性が——椅子に座っていた。こちらを向いていた。

顔が——見えた。若い女性だった。明るそうな顔だった。長い髪が、肩から流れていた。

「……誰だ」

——全部、見たでしょう。

「……ああ」

女性が——少し、間を置いた。それから、静かに言った。

——また失敗したね。

「……何がだ」

女性は——何も言わなかった。ただ、笑った。あの笑い方で。

——ううん、何でもない。

「また」という言葉が——頭から離れなかった。

また失敗した。また、とはどういう意味だ。

気づいたら、泣いていた。夢の中で、泣いていた。感情を閉じているはずなのに——泣いていた。

目が覚めた。

汗が出ていた。布団が、湿っていた。

あなたは悪くない。感情がなかった。仕方ない。

声が言った。「……本当に?」

声が——答えなかった。

社会人期③

田中にメッセージを送った。「由美って誰だ」

既読がついた。返信は——来なかった。

午後、田中が来た。「ちょっといいか」

会議室に入った。二人だけになった。

田中が——窓の外を見たまま、言った。

「由美のこと、本当に覚えてないのか」「ああ」

田中が、少し息を吐いた。

「小学校の同じクラスだった。お前も俺も。明るい子だった。よく笑う子だった。どこかいつも遠くを見てた。宮司の家の子でさ。普通じゃないものが見えるって、みんな言ってた」

小学校。

その言葉が——引っかかった。

俺の記憶の中の由美は——高校にいた。図書室で。神社で。川沿いで。

でも田中は、小学校だと言う。

どちらかが——間違っている。

それとも——どちらも、本当なのか。

考えようとすると——頭の奥が、霞んだ。

宮司の家。胸の奥が——動いた。

「ある日——川沿いで倒れてたって、後から聞いた。一緒にいた人間が、逃げたって」

空気が、止まった。

田中が——こちらを向いた。「お前、あの夜——どこにいたんだ」

頭の中で、声が言いかけた。

お前には無理だった。感情がなかった。関係——

その瞬間——

「ダメ」

声が、した。頭の中じゃなかった。外から、した。はっきりと。すぐ近くから。

体が、固まった。汗が、顎から落ちた。

田中が——振り返った。「どうした?」「……何でもない」

少し間があった。「そうか」それだけ言って、出て行った。

ダメ。

まだ、耳の奥に残っていた。手が、震えていた。由美の声だった。現実に、聞こえた。

夕方、川沿いを歩いた。街灯の下に来た。シミを——見た。

「走って」——「約束ね」——「また会ったね」——「今回は」——

「違う」声に出した。川沿いに、声が響いた。「俺が——走ることを、選んだ」

声が——何も言わなかった。

その夜の夢は——今までで一番、静かだった。

白い部屋だった。女性が——立っていた。部屋の中央に。

顔が——見えた。泣いていなかった。ただ——じっと、こちらを見ていた。

「また会ったね」と言いそうな——そんな顔だった。

「……由美?」

——なんで来なかったの。

声が、した。優しくなかった。怒ってもいなかった。ただ——事実だけを、言っていた。

それが——一番、重かった。

「……感情が——俺には——」

——あるよ。感情を閉じてるだけ。ずっと、見えてた。

胸の奥で——何かが、崩れた。

「……なのに、ここにいるのか」

女性が——少し、間を置いた。それから——笑った。あの笑い方で。

——当たり前でしょう。

気づいたら、泣いていた。夢の中で、泣いていた。

女性は何も言わなかった。ただ、そこにいた。それだけで——よかった。

目が覚めた。背中が——冷たかった。

あの頭の中の声が——何だったのか。

わかった気がした。でも——言葉にすると、崩れそうだった。

外から来た声じゃ、なかったのかもしれない。

俺が——俺に、言い聞かせていたのかもしれない。

感情を閉じるために。傷つかないために。逃げるために。

悪魔との取引なんて——本当は、なかったのかもしれない。

俺が自分と取引していただけ。

感情を閉じる代わりに、痛みを感じなくていい。そういう取引。

そこまで考えて——やめた。

それ以上考えると——何かが、こちらを見る気がした。

でも——由美は、ずっとそこにいた。全部見えていても。俺が逃げ続けていても。

「また失敗したね」と言いながら——笑っていた。何度も——待っていた。

それだけは——確かだった。

帰郷

翌日、田中に電話した。しばらく休むと伝えてくれと言った。電源を落とした。

図書館に行った。地元の古い新聞と、学校の記念誌を探した。

新聞から調べた。あった。

『河川敷付近で女の子が倒れているのを発見。意識あり。警察は何者かによる事件として捜査』

意識あり。少し、息が出た。

10年後の紙面に、似たような記事があった。

『河川敷付近で高校生が何者かに襲われる事件として捜査、10年前の事件との因果関係を調べる』

なぜ俺は、この事件のことを何も知らないんだ。

いや——違う。

俺が覚えている記事は——『女性が倒れている』だった。高校の、あの翌朝に見た記事だ。

でも、ここにあるのは『女の子』と『高校生』の二つ。

俺が見たはずの記事が——どこにもない。

日付を、何度も確かめた。なかった。

俺の記憶にだけ、存在する記事だった。

ウフフ。

声が聞こえた。俺の声じゃなかった。頭の外から、聞こえた。

誰かが——見ている。面白そうに、見ている。

新聞を片付けて、次に記念誌を開いた。

小学校の集合写真が、あった。

端の方に、僕がいた。無表情だった。感情を閉じていた。

その隣に——長い髪の女の子がいた。白地に、小さな青い花柄の服。

由美。なぜか、そう思った。

でも——その女の子は、こちらを見て、笑っていた。

感情を閉じた僕の隣で。こちらに向かって、笑っていた。

胸の奥が——痛かった。

田中は、いなかった。何度も確認した。いなかった。

中学校の記念誌を開いた。そこには、田中がいた。僕のすぐ後ろ。

スマホが震えた。田中からだった。メッセージが一行だけ届いていた。

探さない方がいいぞ

心臓が跳ねた。もう一度、スマホを見た。

メッセージは——消えていた。トーク履歴にも残っていなかった。でも、確かに見た。

図書館を後にして、地元行きのチケットを取った。電車の中で、いつのまにか眠った。

廊下に入った。扉が、一つだけあった。開けた。

女性が——立っていた。

——なんで来なかったの。

また、その声がした。今度は——少しだけ、違って聞こえた。

責めているのではなく——ただ、聞いていた。なんで来なかったの、と。でも——笑っていた。あの笑い方で。

「……また、この夢か」

女性は——少し、表情が変わった。

——覚えてる?

「……わからない。でも——何度も見た気がする」

——そうだね。

女性は、静かにそう言った。それ以上は——言わなかった。

電車が大きく揺れて、目が覚めた。背中が——冷たかった。

「また」という言葉が——頭から離れなかった。

地元

地元に到着したのは、夜中だった。駅前の旅館に入り、しばらく泊まりたいと伝えると、宿は空いていた。

翌朝、まず河川敷に向かった。

あの夜の場所に——立った。川は、変わっていなかった。街灯も、変わっていなかった。

アスファルトに、シミがあった。薄かった。でも——あった。

しゃがんだ。じっと見た。「走って」——「約束ね」——「また会ったね」——「今回は」——

でも今日は——逃げなかった。ただ、そこにいた。

立ち上がろうとした時——声が聞こえた。「あんた、最近よくここに来てるね」

振り返ると——近所の老婆が立っていた。

「……今日、初めて来たんですが」

老婆は、じっと僕を見た。「そうかね。でも見たことある顔だよ。あの事件の頃と——同じ顔だ」

「あの事件——知ってるんですか」「宮司の家の子が倒れてたやつ? 知ってるよ」

老婆が言いかけた時——スマホが鳴った。出ようとした瞬間——老婆が、言った。

「あの子、都会に行ったって聞いたよ。宮司の一族は由美をずっと守ってたらしいから」

スマホを切った。老婆は——いなかった。最初から、誰かがいた気配すら——なかった。

今日初めて来た河川敷で——「よく来てる」と言われた。意味が、わからなかった。

旅館に戻り、縁側の老人に話を聞いた。

「昔、宮司の家の女の子が河川敷で倒れた事件がありましたよね」

「ああ。あったな。あの家の子は——ちょっと普通じゃないものが見えると言われてた。神隠し的な話で終わったよ。その後——家族と一緒に、どこかへ行ったらしい」

家族と、一緒に。

その言葉が——なぜか、少し引っかかった。

転校した、と聞いていた。でも——由美が自分から出て行ったのか。

それとも——連れて行かれたのか。

聞けなかった。聞いていいのか、わからなかった。

「10年後ぐらいに、似たような事件がありましたよね」

「ああ。あれは誤報でね。実は自傷行為だったらしい。一命はとりとめた。いろんなものが見えすぎる子だったから——つらかったのかもしれないな。でも——」

老人は、少し間を置いた。

「その頃からだよ。一族が、やっと動けるようになったのは」

「……やっと、というのは」

老人は、窓の外を見た。「守るって言っても、できることとできないことがある。外から見守ることしかできない時もある。中に入れない時も、ある」

それだけ言って、老人は黙った。

見えすぎる。由美の言葉が——頭の中に浮かんだ。「境界の向こうが見えるから」

閉じ込められていた場所でも——見えていたのか。

外から——一族が守っているのが見えながら、それでも来られないのが見えながら——

そんな場所で、ずっと、一人でいたのか。

「その後は、どうしたんですか」

「保護されて、そのまま都会で暮らしているって聞いたよ。一族がずっと側にいるらしい。今度こそ、ちゃんと守れているって」

今度こそ。

その言葉が——重かった。

由美は——生きている。そして——やっと、一族に守られていた。

老人は最後に言った。「知りたいことは、それだけかな?」この口調と——声が。田中の声と、合致した。

また、汗が出た。「はい、ありがとうございます」とだけ言って、足早にそこから離れた。

役所

都会に戻る前に——一か所だけ寄ることにした。

さやかが働いていると言っていた、あの役所だった。さやかは実在するのか——確かめたかった。

歩きながら——ふと、おかしいと思った。

さやかとは、都会のカフェで知り合ったはずだ。

なのに——働いている役所は、ここにある。俺の地元に。

さやかという名前も——俺が、そう呼んでいただけなのかもしれない。

なぜ今まで、それを疑問に思わなかったんだろう。

考えようとすると——また、頭の奥が霞んだ。

役所の入り口に入り、フロアを歩いた。さやかの顔が——うまく浮かばなかった。

ふいに、声をかけられた。

窓口の女性が、こちらを見ていた。かわいらしい女性だった。長い髪だった。笑顔で話しかけてきた。

「どうしたの?こんなところまで来て」

誰だ。一瞬——記憶に蓋をされた感覚があった。

その笑い方が——胸の奥に、落ちた。

こんな笑い方を、知っていた。「ちゃんと見てくれる」と言った時の、あの笑い方だった。

「また会ったね」と言いそうな——あの笑い方だった。

おもむろに名前を呼んだ。「……さやか?」

女性の表情が——一瞬、止まった。それから——少し目を閉じた。

また始まった——そう受け入れる、諦めと安堵の混ざった顔。

それからまた、笑顔に戻った。「ん?なに? ごめん、もう少しでお昼になるから一緒にランチ行こう」

うなずいた。「じゃあ後でラインするね」

女性は小さく手を振って、窓口に戻った。

その時——ふと、女性の手首が見えた。細いバンドを、巻いていた。

窓口の脇の小物入れに、白地に小さな青い花柄のハンカチが、畳んで置いてあった。

役所の入り口を出て、休憩所に座った。スマホを開いた。

さやかとのラインが——あった。後ろ姿の写真をアイコンにしていた。

メッセージをたどると——たわいもない会話が繰り広げられていた。僕が送った文章も、ある。でも——送った記憶が、なかった。

ごめん急な仕事でいけなくなった。また連絡するね。

ラインが来た。スマホをポケットに入れた。立ち上がった。

帰ろうとした、その時——

「ダメ」

声が、した。外から、はっきりと。

驚いて振り返った。後ろには——また、役所の入り口があった。

おかしい。さっきここを出たはずだ。でも——目の前には、確かに入り口がある。

ゆっくりと、もう一度、入った。

フロアを歩いた。さっきと同じ光景だった。でも——空気が、重かった。誰も、こちらを見ていなかった。

窓口に、女性がいた。こちらを見ていた。「どうしたの?こんなところまで来て」

同じ言葉だった。同じ声だった。でも——今度は、怖かった。

頭の中で、声がした。

感情を閉じろ。関係ない。

でも今日は——その声に、従わなかった。

「……由美、なのか?」

女性の表情が——完全に、止まった。

一秒。二秒。三秒。

それから——目を閉じた。目尻に、光るものがあった。

女性が、小さく笑った。泣きながら、笑った。「さやか」と呼ばれた時とは——違う顔だった。

何百回待った顔だった。何度も封筒を書いた人の顔だった。

ずっと好きだった人の顔だった。

「……おかえり」

その声が——今まで聞いたどの声とも違った。

外から来ていた。でも——遠くはなかった。ずっと近くにいた誰かの声だった。

境界の向こうから——届いた声だった。

女性は、すぐに笑顔に戻った。「また連絡するね」そう言って、窓口に戻った。

役所の入り口を出た。今度は——「ダメ」という声はしなかった。静かだった。

帰り道

電車の中で、窓の外を見ていた。

「さやか」と呼んだ時の、あの止まり方。「由美」と呼んだ時の、涙。「おかえり」という言葉。

由美は——何度も、ここに来ていた。俺は——何度も、失敗していた。

そのたびに——由美は、また来た。「また会ったね」は——由美にとって、本当に「また」だった。

ずっと待っていた。何度失敗しても、何度逃げても——ずっと待っていた。

一人で、泣きながら、それでも笑って——また来た。

川が見えた。川沿いに、誰もいなかった。

あの夜——由美が歩いていた場所を、電車が通り過ぎた。

「走って」と言いながら振り返った場所を。

俺が走り去った場所を。

何度も、その場所を通り過ぎてきたんだろうな、と思った。気づかないまま。

でも——由美は、知っていた。

みぞおちが、冷たくなった。

「また会ったね」という言葉の温度。白地に、小さな青い花柄。

「ちゃんと見てくれる」という、あの横顔。「約束ね」という笑い方。

「今回は」という、言い直された言葉。「元気ですか」という、丁寧すぎる字。

どれだけ声が「お前には無理だ」と言っても。それだけは——残り続けた。

電車が、大きなトンネルに入った。

窓の外が——真っ暗になった。

自分の顔が、窓に映った。

無表情だった。感情を閉じた顔だった。

でも——目が、違った。

なんだか——少し、泣きそうな目をしていた。

由美はずっとそれが見えていたんだろうな、と思った。

俺が気づく前から。

電車がトンネルを抜けた。外が——また、明るくなった。

今度は——俺が見つける番だ、と思った。

由美がずっと俺を見つけ続けてきた。今度は俺が——由美を見つける。

逃げるんじゃなく。行く。

ラスト

部屋に戻った。台所に行った。コーヒーを淹れた。ブラックで。

窓の外を見た。川が、朝の光を受けていた。きれいだと思った。

ビールでも飲もう、と思った。まだ朝だった。少し、笑えた。

由美のことを、考えた。

あの夜、由美が振り返った顔を。ようやく、ちゃんと思い出せた気がした。

「走って」と言いながら——笑っていた。

俺を逃がそうとしながら——笑っていた。

ごめん、と思った。でも——声は、何も言わなかった。ただ、静かだった。

机の引き出しを——開けた。封筒が、重なっていた。

五枚。全部、同じ字だった。

元気ですか。

じっと見た。自分の字よりも、少しだけ丁寧だった。

封筒を、閉じた。引き出しに、戻した。

由美、と——呟いた。声に出したのか、出していないのか、わからなかった。

川が、流れていた。いつもと同じ速さで、どこかへ向かって、ただ流れていた。

上着を手に取った。よし、行こう。そう思った瞬間——

インターフォンが、鳴った。

出ると——田中だった。

朝の光の中に、立っていた。影が——なかった。

今日の田中は——どこか違った。いつもの愛想のいい顔だった。でも——目が、違った。何も映っていなかった。

「お前、思い出しちゃったんだな」

田中が——静かに、言った。

「何度も失敗したよな」

足首が——冷たくなった。布団の中で感じた、幼少期のあの冷たさと——同じだった。

「……した」

田中が——一歩、近づいた。影が、なかった。でも——足音が、した。

口の動きと、声が——合っていなかった。

「また失敗する」

「……そうかもな」

「また逃げる」

「……そうかもしれない」

「また傷付く」

「……ああ」

「また泣く」

「……ああ」

田中は、肩をすくめた。

「本当に馬鹿ですね」

少し——笑えた。「知ってる」

田中は困ったように笑った。

「何度失敗しても」「何度壊れても」「結局行くんですよね」

「ああ」

田中は——ゆっくりと振り返った。歩き出した。その背中が——少しずつ、遠くなっていった。

ほっとした。

終わった。

ようやく。

長かった。本当に、長かった。

その瞬間——

カクッ。

顎が、鳴った。

眉をひそめた。

カクッ。

もう一度。

嫌な予感がした。首筋を冷たいものが這い上がる。

体が——動かない。

立ったまま——固まった。指先一つ動かせない。

呼吸だけが、妙に大きく聞こえる。

何だ。何だこれ。

心臓が早鐘を打つ。

そして——唇が、勝手に動いた。

自分の意思じゃない。止められない。

口角がゆっくりと吊り上がる。

あり得ない形に。

鏡を見なくてもわかった。今——僕は笑っている。僕じゃない誰かのように。

そして。

僕の口が。僕の声で。喋った。

「本当にそう思いますか?」

全身に鳥肌が立つ。

「終わったと思いますか?」

息が止まる。田中は振り返らない。もう見えない。なのに——声だけが聞こえる。

違う。これは田中じゃない。

僕だ。ずっと前から。最初から。僕の中にいたものだ。

口が、また勝手に動く。

「また傷付きますよ」

「また失いますよ」

「また一人になりますよ」

沈黙。

声が——続いた。

「だから俺は守ったんだ」

体が——固まった。

「だから感情を閉じたんだ」

「だから忘れさせたんだ」

目を——閉じた。

その声が——わかった。

悪魔の声じゃない。

怒鳴られ続けた、あの頃の自分の声だった。

誰も助けてくれなかった少年。

傷付かないように——感情を閉じた少年。

「お前は悪くない」と——自分に言い聞かせ続けた少年。

「……そうか」

声に出したのか、出していないのか、わからなかった。

「お前だったのか」

沈黙が——長かった。

「怖かったよな」

口の痙攣が——少し、止まった。

「苦しかったよな」

長い、長い沈黙が、あった。

「誰も助けてくれなかったもんな」

何かが——ほどけた気がした。胸の奥の、固いところが。

「ありがとう」

声が——止まった。

「ずっと守ってくれて」

風が、吹いた。

「でも——もう大丈夫だ」

口の力が、抜けていった。

指先が、動いた。肩が、動いた。息が——できる。

「お前は俺だ」

声に出した。自分の声で。

「だから——消えなくていい」

静寂。

「一緒に来い」

長い沈黙の後——

口が、また少し動いた。

今度は——笑っていなかった。

「……馬鹿ですね」

それだけだった。

それきり——声が、しなくなった。

口が——自分の口に、戻った。

しばらく、動けなかった。

悪魔は——消えていない。ただ、引いただけだ。また——来る。

でも——それでいい。消えなくていい。

一緒に来い。そう言った。

ふと——気づいた。

田中は、まだそこにいた。

遠くに立っていた。振り返らなかった。

でも——笑っていた気がした。

背中だけで、笑っていた。

「最初からいるんですよ」

聞こえたのか、聞こえなかったのか——わからなかった。

でも——田中は、それきり消えた。

朝の光の中に、溶けるように。

影が——なかった。最初から、なかった。

その夜の夢を、見た。

白い部屋だった。

机の上に——封筒が、積み上がっていた。

一枚。

二枚。

十枚。

百枚。

全部——同じ字で書かれていた。自分の字よりも、少しだけ丁寧な字で。

元気ですか。

女性が——隅に立っていた。

いつもの笑い方で、笑っていた。

泣いてもいなかった。疲れてもいなかった。ただ——笑っていた。

「……ずっと、書いてたのか」

女性は——少し間を置いた。

——届くといいなって、思ってたから。

「……届いてなかったのに」

——わかってたよ。

「……なんで、続けた」

女性は——笑った。

泣きながら、笑った。でも——今は、泣いていなかった。

ただ、笑っていた。

——あなたが、大丈夫か、って言ってくれたから。

胸の奥が——崩れた。

——今回は届いたね。

「……なんで、そこまでしたんだ」

女性は——少し間を置いた。

笑っていた。でも——少し、泣いていた。

——好きだったから。

それだけだった。

説明はなかった。理由もなかった。

何百回待った理由も。何度も来た理由も。泣きながら笑った理由も。

全部——それだけだった。

目が覚めた。

窓の外を見た。川が、流れていた。

扉の向こうから——声がした。

「また会ったね」

何度目の「また会ったね」だったのか。

もう、わからなかった。

由美だけが——知っていた。

今回は、ちゃんと聞こえた。

**おわり**


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